●~正義は朽ちず 田中正造伝~
夕川に葦は枯れたり
血にまどう
民の叫びのなど悲しきや
旧制盛岡中学(現・岩手県立盛岡一高)の石川一(はじめ)少年は詠んだ。田中正造の明治天皇直訴失敗のニュースに触れ、足尾鉱毒事件を知った石川少年の偽ざる心情であった。この少年は後の石川啄木である。
渡良瀬川の大洪水により鉱毒被害が甚大になると、地域住民たちは館林の雲龍寺に活動拠点を置き、銅山の操業停止を求める運動を活発化させた。上京して直接国会に請願する「押し出し」にも多数の農民が参加した。安全な米を作りたい、安心して生活したいという人間として当然の要求をしたまでであった。
鉱毒被害はどんどん拡散していった。作物は取れず、乳幼児の死亡率は異常なまでに高まった。しかし国は何の対策も立てず、それどころか反対運動をする住民を弾圧し、土地からの追放すら画策した。
田中正造は第一回衆院議員選挙で当選した栃木県選出の代議士であった。彼は国の暴挙を見て義憤を抑えることが出来なかった。生涯を公害撲滅闘争に捧げようと、民衆救済のために立ち上がった正義の人である。
1900年、被害農民は決死の覚悟で4回目の「押し出し」を決行。雲龍寺から2500人が徒歩で東京へ向かった。皆貧しく電車賃などない。歩くしかなかったのだ。農民が佐貫村(現・明和町)川俣の上宿橋(邑楽用水架橋)に差し掛かったとき、待ち伏せしていた憲兵、警察に暴力で妨害され、68人が逮捕されてしまった。直訴はその翌年である。
田中正造は何度も投獄されながら、極貧生活の中で生涯信念を貫いた。しかし巨大な国家権力の前に73歳で力尽きた。雲龍寺そばの渡良瀬川は、鉱毒事件など忘れたかのように静かに流れていた。しかし田中正造の足跡に現代人こそ学ばなければならない。「真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」。この言葉を我々は噛み締めたい。