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▲名曲「丘を越えて」歌碑
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●~名曲「丘を越えて」誕生の地~

 戦前に青春を謳歌した世代には懐かしい「丘を越えて」の歌碑が浅間山を望める北軽井沢(長野原町)の浅間牧場にある。この曲は古賀政男が母校明治大学のマンドリンクラブの合奏曲として作曲し、それに島田芳文が詞をつけたものである。1931年に藤山一郎が歌い大ヒットした軽快なリズムを懐かしむ人も多いだろう。

さすがにここまで来ると浅間山は大きな山である。どっかりと腰を下ろし我々を見下ろしているようでもあった。歌碑は牧場の丘の上にある。牧場を見渡せる歌にふさわしいロケーションで、歌の世界に入り込んだような気持ちになる。訪れたのは 月の中旬だったが、秋だというのに日差しが強く汗ばむような陽気だった。何組かの親子連れも散策を楽しんでいた。

詞を書いた島田芳文は福岡県出身で早稲田大学に学び、在学中は弁論部に属していた。政治家に興味があったようだが卒業後は詩人となった。農民の生活を多く詠みながら、一方で当時のコロムビアレコードの専属作詞家として流行歌の作詞も手掛けた。他にも「キャンプ小歌」「スキーの歌」が藤山一郎の歌唱でヒットした。

島田芳文は北軽井沢に愛着を持ち、何度も訪れたこの地をイメージして「丘を越えて」を作詞したそうである。歌碑から牧場の向こうを見渡すと遥か彼方まで高原が広がる。見ているだけで解放感に浸ることが出来、気持ちが良く心も弾む。この光景から着想を得たのだろうか。

不況は長引き閉塞感が漂い、将来に夢の持ちにくい時代となってしまった。しかしこういう時代だからこそ「希望」を失いたくないものだ。希望を持つ限り青春は終わらない。「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」(サミエル・ウルマン「青春」から)。老いとは年を重ねることではない。「丘を越えて」は現代の我々に送られたエールの様な気がしてならない。


▲緑の美しい浅間牧場

雲龍寺
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●~正義は朽ちず 田中正造伝~

夕川に葦は枯れたり
血にまどう
民の叫びのなど悲しきや

旧制盛岡中学(現・岩手県立盛岡一高)の石川一(はじめ)少年は詠んだ。田中正造の明治天皇直訴失敗のニュースに触れ、足尾鉱毒事件を知った石川少年の偽ざる心情であった。この少年は後の石川啄木である。

渡良瀬川の大洪水により鉱毒被害が甚大になると、地域住民たちは館林の雲龍寺に活動拠点を置き、銅山の操業停止を求める運動を活発化させた。上京して直接国会に請願する「押し出し」にも多数の農民が参加した。安全な米を作りたい、安心して生活したいという人間として当然の要求をしたまでであった。

鉱毒被害はどんどん拡散していった。作物は取れず、乳幼児の死亡率は異常なまでに高まった。しかし国は何の対策も立てず、それどころか反対運動をする住民を弾圧し、土地からの追放すら画策した。

田中正造は第一回衆院議員選挙で当選した栃木県選出の代議士であった。彼は国の暴挙を見て義憤を抑えることが出来なかった。生涯を公害撲滅闘争に捧げようと、民衆救済のために立ち上がった正義の人である。

1900年、被害農民は決死の覚悟で4回目の「押し出し」を決行。雲龍寺から2500人が徒歩で東京へ向かった。皆貧しく電車賃などない。歩くしかなかったのだ。農民が佐貫村(現・明和町)川俣の上宿橋(邑楽用水架橋)に差し掛かったとき、待ち伏せしていた憲兵、警察に暴力で妨害され、68人が逮捕されてしまった。直訴はその翌年である。

田中正造は何度も投獄されながら、極貧生活の中で生涯信念を貫いた。しかし巨大な国家権力の前に73歳で力尽きた。雲龍寺そばの渡良瀬川は、鉱毒事件など忘れたかのように静かに流れていた。しかし田中正造の足跡に現代人こそ学ばなければならない。「真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」。この言葉を我々は噛み締めたい。


渡良瀬川
 

「冬住みの里」資料館
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●知られざる草津温泉の歴史

明治時代の初めまで、草津温泉は寒く雪深い冬場は温泉営業を休んでいた。旧暦の9月末になると温泉業者は酷寒を避けて、「小雨(中之条町の旧六合村地区)」に移り住んでいた。小雨はそうしたことから「冬住みの里」と呼ばれていた。しかし明治になり、交通網が整備されて、建物も耐寒性に優れたものが建てられ、暖房設備も整うようになると通年営業の温泉業者が増加し、こうした習慣は廃れていった。

 小雨に一軒だけ冬住みの里の面影を残す家屋が、資料館として残っている。現在では地元群馬県の人々もほとんど知らないこの「冬住みの里」の歴史を伝えようと、この家の主が個人で運営している資料館である。入り口に若山牧水の歌碑があった。

おもわぬに村ありて名のやさしかる
小雨の里といふにぞありける

ここを旅の途中に訪れ「小雨」という名に惹かれたのだろうか。通り過ぎるだけではもったいないと思ったのだろう。また小雨の歴史に触れ、興味を覚えたのかも知れない。しとしとと降るやさしい雨の情景をこの村に重ねたのだろう。

記念館には草津温泉の歴史を彩る貴重な品々が数多く展示されていた。温泉旅館を営んでいたここの先祖が残したものだという。十辺舎一九の草津温泉往来記、佐久間象山の掛け軸、横山大観の絵画などもあった。明治時代にはすでに英語の温泉パンフレットが出ていた。伊万里の陶磁器、輪島塗の漆器などもあり、全国から湯治客が集ったことがうかがえる。

草津を支えた「冬住みの里」があったことを忘れてはならない。厳しい自然環境の中で、日本を代表する名湯を守って来た先人達の歴史であるからだ。年老いた資料館のご主人がポツリと言った。「私が動ける間はいいが、その後が心配だ。住む人がいなければ荒れ放題になるだろう」。ここも過疎と住民の高齢化に悩む地域である。しかし歴史を風化させてはならない。


若山牧水の歌碑
 

砥山神社
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●西上州を牽引した地は今

南牧村の砥沢はかつて良質な砥石の産地として栄え、地名の由来ともなった。品質は高く江戸時代には幕府の御用砥として重用された。明治に入ると新鉱脈も発見され生産量が増大し、一時は住民の半数以上が生産に関わっていたという。全国から掘り手も集まり村は賑わった。しかし昭和30年代には鉱脈が枯渇し、また各地に新たな産地が発見されたこともあって衰退していった。昭和60年以降は採掘されていない。

伝承によると、奈良時代に猟師が猿から砥石を教えられたことが始まりだとされる。その猿を祀った神社が砥山神社である。砥沢の集落から南へ延びる細い林道を30分ほど歩くと、うっそうと茂った杉林の中に砥山神社はあった。本殿は急な石段の上にある。上まで行き本殿の中を覗くと、見事な彫刻で飾られている祠の両脇に、伝承の猿の木彫りが2匹祀られていた。

勝手に中に入るわけにはいかないので近寄って観賞出来なかったが、祠はかなり古いものの様である。いつ頃出来たものなのだろう。西行が砥石を絶賛し、北条時頼が青砥と呼び珍重したとされることから、採掘の歴史はかなり長そうだ。神社も長い歴史を刻んでいるのだろうか。
南牧村は西毛文化発祥の地と言われる。県内で最初にこんにゃくを栽培した地である。また和紙の生産も盛んであった。中山道の脇往還沿いの集落で、戦国から江戸時代にかけては信州方面と活発な往来があった。宿場町としても栄え、1593年には関所が設けられている。

その南牧村も近年は過疎と高齢化の波に襲われ、1970年に7700人だった人口は2010年には2400人と激減した。人口に占める65歳以上の割合を示す高齢化率は、06年に54.2%と全国一となってしまった。しかし長い歴史を誇る村は県の財産でもある。村では山歩きや滝巡りなどが楽しめ、豊かな自然と触れ合うことが出来る。休日にはぜひ南牧を訪れ、村を盛り上げてもらいたい。


砥沢関所の碑
 

龍光寺
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 ●富岡にあった繁栄の光と陰

 和田英(えい)が書いた「富岡日記」とは、英が富岡製糸場で働いていた頃の様子を描いた回想録である。製糸場で過ごした1年数カ月の日々を、50歳になった英が振り返り書いたものである。日本の近代化の礎となった一人の少女の、製糸場で体験した出来事や喜び悲しみが丁寧に描かれている。

 富岡製糸場の開設当時、工女が集まらないのが一番の問題だった。外国人技術者が赤ワインを飲むのを見て、「娘の生き血を飲まれてしまう」という噂が流れたためだといわれる。困った政府は士族の娘を中心に集める通達を出した。長野県の松代地方の募集責任者、横田数馬の窮状を見て、15歳の次女英は「天下の御為に成事なら」と自ら工女に志願した。

 富岡日記によれば、彼女を慕う仲間15人と富岡へ向かうが、まだ鉄道の無い時代ゆえ歩いて3日かかったという。英たちのような不安と希望を抱えた少女が全国から集まった。「富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚きました」。煉瓦造りの建物の威容に圧倒された感想をつづっている。「さすが上州だけ、芋の有事毎日の様で有舛から閉口致しました」ともある。

 少女たちは技術を習得した後、いずれは故郷に帰り指導者になる夢を抱きながら仕事に励んでいた。しかし志半ばで不幸にも病に襲われ命を落とす者もいた。そうした少女たち 40人あまりが製糸場近くの龍光寺に眠っている。墓石は黄緑色の苔に覆われた小さなものだった。少女たちの心細さや切なさを思うと心が痛む。慰霊に訪れる人はいるのだろうか。

 こうした少女たちに支えられて戦前の紡績産業は世界一の水準を誇った。世界遺産登録を目指す富岡製糸場は、注目度が上がり観光客も増えているという。小笠原諸島や平泉が世界遺産に登録され、地元の期待はますます高まるだろう。しかし歴史の表舞台に立つことのない、こうした人々がいたことを決して忘れてはならない。


工女たちの墓

改修中の東本願寺
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 ●都の「お東さん」を支えた坂東の小さな古刹

織田信長が一番苦しんだのは幾多の戦国大名との戦争より、実は浄土真宗門徒による一向一揆であった。その力は大名さえ倒すほどで、例えば加賀の一向一揆は富樫氏を倒すと、以後1世紀に亘り一国を支配した。その力を恐れた信長は一向一揆の殲滅に力を尽くした。石山本願寺の平定には何と11年も要した。同様に豊臣秀吉も真宗勢力を恐れ、本願寺の分断を画策している。

 地元三河・岡崎の一向一揆に手を焼いていた徳川家康も、自分の国家経営を安定させるためには真宗勢力の分断が必要であるとして、当時の本願寺の教主・准如と対立していた異母兄・教如に京の烏丸七条の地を寄進し、東本願寺を創建させた。以後、東西の本願寺が並立、家康は一方を取り込み、計略はまんまと成功した。

 前橋にある妙安寺は東本願寺に家康の命により、親鸞自作とされる親鸞木像を進納したことから特別の待遇を受けることになった。当時、まだ権威のなかった東本願寺がこれで一気に真宗の中心寺院となることが出来たからだ。今の東本願寺の隆盛は、まさに妙安寺のお陰であると言っても過言ではない。

妙安寺はどこにでもありそうな、目立たない小さなお寺だった。1233年、下総国猿島郡一ノ谷(茨城県境町)に創建されたが、同郡三村(同県坂東市)に移り、そして1601年、当時の藩主・酒井重忠により上野厩橋(前橋市)に招かれた。創建者の成然は公家であったが、無実の罪を着せられ下総へ配流となり、そこで親鸞の弟子になったと伝えられている。

訪れた時はちょうど法事の最中で読経中だった。写真を撮ろうと立っていると、寺の人に参列者に間違われてしまい、少し気まずかった。「写真を撮りに来ただけです」と答えた。京都の東本願寺はいつも参詣者でいっぱいである。しかし「お東さん」を支えたのが、都から遠く離れた坂東の小さな寺院であることを知っている人は、おそらくほとんどいない。


妙安寺

旧北軽井沢駅舎
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 ●「H」輝く北軽井沢の「法政」

北軽井沢は長野県ではないというと、群馬県民以外は怪訝な顔をするだろう。「長野原町北軽井沢」――ここはれっきとした群馬県である。元は地蔵川、地蔵堂などの地名であった。浅間山の北東に広がるこの広大な地域が何故、北軽井沢と呼ばれるようになったのだろうか。

 元々この地域は、法政大学の元学長・松室致(まつむろ・いたす)氏が所有していたが、1927年、土地を法政大学関係者に分譲し、別荘地「法政大学村」として開拓された。避暑に訪れる大学関係者が軽井沢の北にあるということから、いつしか北軽井沢と呼ぶようになり、その名が地元に定着し、1986年、長野原町がこの地を正式に北軽井沢と命名したということである。

別荘地が出来た頃は、軽井沢と草津温泉を結ぶ「草軽鉄道」が走っていた。スイスの登山鉄道を手本にし、全線55・5キロの間に18の駅があった。別荘地の入り口にあった駅「北軽井沢」の駅舎が唯一保存されている。当初の駅名は「地蔵川停車場」だったが、法政大学が新駅舎を寄贈し、「北軽井沢」駅と改められた。

駅舎は長野の善光寺を模したと言われる。赤いトタン屋根に、窓の周りは焦茶、その上下は白壁の小さな駅舎である。中は展示ホールになっており、草軽鉄道の歴史が分かる。駅は木下恵介監督、高峰秀子主演の日本初の総天然色(カラー)映画「カルメン故郷に帰る」にも登場した。正面玄関の欄間には法政を表す白い「H」の文字が誇らしく並んでいた。

当時の電機機関車「デキ12形」の模型が駅構内に置かれている。実物大というが随分小さい。高いパンタグラフが特徴で、カブト虫が角を突き出している姿に似て「カブト虫」と呼ばれた。一見非力に見えるが起伏の激しい山中で活躍した機関車である。侮ってはならない。しかし時代の波には勝てず、モータリゼーションの発達とともに消えていく。草軽鉄道は1962年に廃線となった。


「デキ12形」機関車

徳川忠長の墓
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●将軍の後継、非業の死

江戸幕府3代将軍の座を争った徳川家光と忠長の兄弟は全く対照的であった。兄の家光は病弱で吃音もあり、将来の将軍の器とは到底見なされなかった。これに対し弟の忠長は眉目秀麗、才気煥発で親の覚えもめでたく、周囲も弟の忠長が将軍職を継ぐものと予想していた。この兄弟の父は2代将軍徳川秀忠、母は浅井長政の娘江である。

1612年2月、舅の徳川家康から江に書状が届いた。将軍継嗣についてであった。「惣領は格別で次男よりは召使と心得よ。次男の威光が強ければ家の乱れの元となる」。家康の命令は絶対である。継嗣について誰も語らなくなった。一説には、親にも愛されない家光を不憫に思った乳母春日局の「直訴」に、家康が応えたとも言われる。真相は不明だが、以後兄弟は全く異なる人生を歩む。

3代将軍となった家光は幕府の基礎を築き、鎖国やキリスト教の禁止など江戸時代を特徴づける諸制度を整備し、徳川統治を完成させた。一方、忠長は駿河大納言と呼ばれ、「副将軍格」であったが、家臣を殺害するなど正気とは思えない蛮行、奇行が目立ち蟄居させられた。

1632年、忠長は高崎城に幽閉され、翌年自刃した。享年28。高崎の大信寺にある墓は黒ずんだ石の五輪塔である。そこに刻まれた三葉葵の紋に複雑な思いを感じた。幼い頃、親に疎んじられた家光は弟忠長に嫉妬していた。暴君の粛清とは言いながら、忠長は家光の怨磋の犠牲になったという側面もあるためだ。親子兄弟が権力を巡り、殺し合った戦国時代からまだ間もない頃。政敵は全て排除したかった家光との確執の末、心を病んだのだろうか。

高崎城の忠長自刃の間が、長松寺に移築されている。改装されたが柱や長押などは当時のままである。ここで非情の権力者、兄家光への怨謗の日々だったのだろうか。忠長の墓石が大信寺に建立されたのは、その死から43年後の1675年、5代将軍徳川綱吉に赦免されてからであった。

 


忠長自刃の間
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲川俣事件記念碑
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▲川俣事件衝突の碑
 

 ●日本の公害問題の原点を見つめる

足尾鉱山の垂れ流す鉱毒により、大きな農産物被害や深刻な健康被害にさらされていた渡良瀬川流域の邑楽郡、栃木県足利郡と都賀郡の農民達は、銅山の操業停止と補償を求めて東京へ向かった。それまで再三にわたり環境改善を求めて運動していたが、国と事業主体の古河鉱業の、全く聞く耳を持たない対応に我慢がならなかったのだ。

1900年2月13日、約2500人の農民が徒歩で東京へ向かう途中、佐貫村(現明和町)川俣の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかった。その時、待ち受けた約300人の警察、憲兵に突然襲われ、多数の負傷者を出し、多くの農民が不当に逮捕された。これが川俣事件である。

この川俣事件を後世に伝えるため、有志により事件から100年後に、現地に記念碑が建てられた。現在、周囲は宅地化が進んでいるらしく、新興住宅街の趣である。もし碑がなければ、住民にさえ忘れられる可能性があっただろう。日本で最初の環境破壊ともいえる足尾鉱毒問題の公害闘争を、決して過去のものとしてはならない。

水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく・・・日本の公害の歴史は連綿と続いた。犠牲になるのはいつも市井の人々であり、加害者側は自分達の非を認めようとはしない。水俣病訴訟は、近年やっと終結に向けて動き出したが、被害者の病気との闘いに終わりはないのだ。

21世紀は環境破壊が地球全体で進んでいる。住む場所を奪われた動物達がどんどん死に絶えている。新たな公害病が世界を襲う可能性も否定出来ない。人類の滅亡すら夢物語とは言えない。そうなる前に手を打たねばならないのだが、各国の利害対立が激しく、話し合いさえもなかなか進まない。大きな原因は、地球資源を浪費する我々の贅沢な生活にあるが、生活を今すぐ転換しろと言われても無理があろう。この矛盾に人類の悩みがあるが、地球の上で生かされている現実を忘れてはならない。

 
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