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「上州をゆく」
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読者のひろば
連載「上州をゆく」24 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
鎌原観音堂(嬬恋村)
▲鎌原観音堂(嬬恋村)
周辺MAP
鬼押出しの奇岩(嬬恋村)
▲鬼押出しの奇岩(嬬恋村)
周辺MAP

 太古から噴火を繰り返す浅間山。その爆発の凄まじさを、まざまざと見せつけるのが鬼押出しである。無造作に転がっている奇岩群は、1783年の天明の大噴火の際に、吐き出された溶岩が固まったもの。幅3`、長さ12`に及ぶ。爆発の恐ろしさを、当時の人々が「火口で鬼が暴れ、岩を押し出した」と表現したのが名の由来という。

  観光バスに長野・軽井沢駅から乗り、鬼押出し周辺を巡った。別荘地らしく、白樺の木々が茂る中をバスは走った。こんな静かな環境に、別荘を持てる人が羨ましい。嬬恋村に入ると、キャベツ畑も広がった。鬼押出しに着き散策した。岩の塊は、日本が火山列島であることを認識させる。黒い岩のザラザラした感触に、地球の怒りを感じた。今は周りに草木が茂り、怒りは隠されている。しかしいつまた怒り出すか誰も分からない。

  溶岩流は北側斜面を走り鎌原村を襲った。多くの村人が呑まれた。477人もが犠牲となった。高台の観音堂にたどり着き、助かったのは僅か93人。そばの売店に堂の石段下から発掘された、2人の女性犠牲者の顔の復元写真があった。無念さを思う。地元の人が観光客に茶を振舞っていた。悲劇を風化させないよう、観音堂を守っている人々だという。

大火砕流の凄まじい流れは、吾妻川に達し、利根川に流れ込んだ。泥流にまみれ、焼けただれた多くの死体、家屋の残骸などが、川一面を覆い尽くした。被害は周辺の55の村に及び、死者は1600人余りに達したという。

現在、観音堂の石段は15段。しかし1979年の発掘調査では、全部で50段だった。溶岩で約7bが埋まっている。堂の境内は驚くほど狭い。しかし悲しみを乗り越え、長い復興の歴史はここから始まった。被災前の人口に戻ったのは大正時代だという。「天災は忘れた頃にやって来る」(寺田寅彦)。悲劇を決して忘れてはならない。 

 
連載「上州をゆく」23 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
多胡碑の覆堂(吉井町)
▲多胡碑の覆堂(吉井町)
碑がある「いしぶみの里公園」(吉井町)
▲碑がある「いしぶみの里公園」
(吉井町)
周辺MAP

 多胡碑は711年に、上野国(かみつけのくに)に、14番目の郡である「多胡郡」を設置することを記念した碑である。片岡郡(高崎・榛名・安中)、緑野(みどの)郡(藤岡・鬼石・新町)、甘良郡(富岡・甘楽・吉井)の3郡から、6郷(集落)の300戸を分割し、それを多胡郡とした。戸とは家ではなく、一族のこと。1戸当たり20人位とされるので、人口約6千人の新しい郡が誕生したことになる。

少し赤みかかった石に刻まれた漢字は損傷も少なく、1300年前のものとは思えない。書かれている人名に注目した。「右太臣正二位藤原尊(みこと)」とは、藤原不比等のこと。大化の改新の立役者の中臣(藤原)鎌足の子で、平安時代に全盛を誇った藤原氏の実質的な祖である。その人物が多胡郡設置の責任者として、碑に名を残す。

  710年に平城京が出来、大和政権は新体制になった。地方の支配体制も改正しようという動きはあっただろう。さらに当時、朝鮮半島は戦火に覆われ、大陸から多数の人々が日本に逃れて来た。西毛地域には、特に多く移住し、人口は増加した。これらが分割の要因だろうか。多胡とは「胡人(西方の人)が多い」という意味。多胡郡とは、外国人が多い郡ということ。しかし多胡の意味については、他にも諸説あるという。

碑を見学した後、近くの物産センターに立ち寄った。桃、キュウリ、スイカなど地元産の作物がたくさん並んでいた。実りの恵みに感謝した。夏の太陽が照りつける。今年も暑い。地球温暖化の影響が世界中に出ている。局地豪雨や大型台風も最近多い。異常気象は温暖化の影響とも言われる。これからも無事に、実りの恵みの恩恵にあずかれるのだろうか。ちなみに、多胡郡は1896年、緑野郡・南甘楽郡と合併して、多野郡となった。

 
連載「上州をゆく」22 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
旧花輪小学校(みどり市)
▲旧花輪小学校(みどり市)
花輪駅のウサギとカメの像
▲花輪駅のウサギとカメの像
(みどり市)
周辺MAP

 足尾銅山からの物資輸送のため、敷設されたのが足尾鉄道である。銅山は閉山したが、現在は「わたらせ渓谷鉄道」に生まれ変わり、渡良瀬渓谷の観光や周辺住民の貴重な足となっている。渡良瀬川沿いに走っているので、渓谷の景観を楽しむのには絶好の路線である。列車から見る川はゆっくり流れ、優しささえ感じさせる。

  花輪駅そばに、廃校になった花輪小学校が記念館として保存されている。木造校舎で、自分が学んだ学校のような錯覚を覚えた。誰でもが懐かしさを感じ、同じ感覚を持つだろう。教室には教科書や学用品が展示されていた。使い古された教材に名前が書いてあった。この人は、どんな大人になっているだろう、などと考えた。

  「うさぎとかめ」「金太郎」「花咲じじい」など、誰でもが口ずさんだ童謡を数多く作詞し、「童謡の父」と言われる石原和三郎は、勢多郡東村(現みどり市)に生まれ、この小学校を卒業した。教員になってからは、母校の校長も経験している。児童を叱るとき、石原先生は涙を流した。その涙に心から改心した人も多い。

明治の初め頃は、子供向けの歌が少なかった。子供のためには、子供と同じ目線で歌える歌が必要と、童謡の作詞を始めた。56年の生涯で、作詞した童謡は100曲以上に及ぶ。「上野唱歌」(1900年に作詞)は「晴れたる空に舞う鶴の」で始まる。群馬を「舞う鶴」に譬えたのは和三郎だと言われる。

  高崎の佐野小など、県内小学校の校歌も作った。作詞を頼まれれば快く応じた。消防団や会社の歌も作った。しかし軍歌は作らなかった。子供を戦争の犠牲にしてはならないとの思いからだ。日清、日露戦争に勝ち、富国強兵を推し進めた時代に、戦争の愚かさを見抜いていた。花輪駅の駅舎にツバメの巣があった。ヒナが2羽いた。私の目の前を、餌を探しに行く親鳥が凄い速さで横切った。子育てに命を懸ける姿が、和三郎とだぶった。

 
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連載「上州をゆく」21 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
広瀬川の流れ(前橋市)
▲広瀬川の流れ(前橋市)
新前橋駅(前橋市)
▲新前橋駅(前橋市)
周辺MAP

 萩原朔太郎が散策した広瀬川沿いを歩いてみた。朔太郎の他に、伊藤信吉、東宮七男など前橋にゆかりのある詩人の詩碑が並ぶ。深緑色の川は意外に深そうで、静かな流れだった。

「広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん」(広瀬川)

落第を繰り返し、大学受験にも失敗した。人々の白眼視に耐えられず、故郷は息苦しい場所だった。しかし時が経てば、自分も周囲の存在もなくなる。所詮人生など泡沫(うたかた)のようなものと、広瀬川べりを歩いて思ったのだろうか。鬱屈した青春時代だった。

「野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや」(新前橋駅)

新前橋駅が出来たのは1921年。現在は大きな三角屋根の近代的な駅だ。朔太郎が「荒寥たる田舎の小駅」と詠んだ面影はどこにもない。駅の西側に通じる高架橋の上から周囲を眺めた。沢山の線路が駅構内を走る。四方の町並みはどこまでも続く。周囲に「野」などない。しかし遠くに見える山並みは当時と変わらないに違いない。
朔太郎は40歳で上京した。故郷を嫌悪していたというが、「郷土望景詩」など故郷を詠んだ詩は多い。誰でも古里は忘れがたいものなのだ。

「火焔(ほのお)は平野を明るくせり
まだ上州の山は見えずや」(帰郷)

蒸気機関車が古里に近づき、はやる気持ちを故郷の山に託して詠った。山は心を癒す故郷の思い出の象徴である。私も都会の駅から十数時間も夜汽車に揺られ、明け方、古里の潮風の匂いを感じると、同じ思いを味わったものである。

 
連載「上州をゆく」20 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
小泉城のお堀(大泉町)
小泉城のお堀(大泉町)
公園内に移転した城之内古墳(大泉町)
公園内に移転した城之内古墳
(大泉町)
周辺MAP

 小泉城は群雄割拠の戦国時代に、織田や武田、上杉といった強大な戦国大名に翻弄されながらも、したたかに生き抜いた武将・富岡氏の居城であった。1440年、室町幕府と、幕府に反旗を翻した結城持朝などの関東豪族が争った結城合戦で、関東勢は敗れた。持朝の子持光は、甘楽郡富岡に逃れ、富岡直光と名乗った。その後直光は、古河・足利氏に仕え、邑楽の地を与えられる。1489年、この地に小泉城を構え、初代城主となった。

  現在は城址公園として整備されているが、建物は残っていない。お堀は護岸工事がなされ、石垣が見られないのが寂しい。本丸があった所は、芝を敷き詰めた広場になっており、わずかに城の名残を留める。土塁は遊歩道として利用され、訪れた日も、地元の人が散歩を楽しんでいた。ベンチに座りお昼を食べた。やや離れた所で、小さな子を囲み、やはりお昼を食べている親子の姿があった。楽しそうな会話が聞こえた。おどけた仕草の子供が可愛い。公園の隣には中学校があり、溌剌とした生徒の姿に元気をもらった。

  富岡氏が、戦国大名などから受け取ったといわれる書状が27通確認されている。差出人は上杉謙信、滝川一益、浅野長政など。大きな勢力の覇権争い下で、懸命に命脈を保ち、地歩を築いていく地方領主の逞しさを想像する。富岡氏の主君は、足利−上杉−武田−織田−北条と替わっていった。強大な勢力の間を巧みに泳ぎ、富岡氏は6代約100年にわたってしぶとく続いた。
 
  豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に従っていた富岡氏は、前田利家、浅野長政らに攻撃される。1590年、小泉城は落城し、ついに富岡氏は滅ぶ。それが7月7日だったことから、この付近では、明治初期まで七夕の飾り付けをしなかったという話が伝わる。なお江戸時代の小説、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、結城合戦で、関東軍として結城氏と共に戦い、敗れた里見義実の子伏姫と、里見家のために戦う八剣士の物語である。

 
 
連載「上州をゆく」19 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
コンウォール・リーの胸像(草津町)
コンウォール・リーの胸像
(草津町)
バルナバ教会(草津町)
バルナバ教会(草津町)
周辺MAP

 草津温泉の片隅にある頌徳公園に、ハンセン病患者の救済に生涯を捧げたコンウォール・リーの胸像がある。設置されたのは昨年の10月。生誕150年と来日100年を記念してのことだ。彼女は博愛の精神のままに生き、今なお尊敬を集める宗教者である。リーは伝道で日本を訪れた。布教活動の中で、草津の患者たちの悲惨さを聞き、救済を決意する。   

 1916年、59歳で草津に移住した。私財を投じてバルナバ教会を設立し、そこを拠点に活動した。「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味である。教会の中には椅子が30脚ほどあり、壁には、十字架に架けられるキリストの様子を描いた絵が掛かる。正面右側に、帽子を被り少しはにかんだリーの写真が飾られている。患者の幸福をここで懸命に祈ったに違いない。板で囲われた石油ストーブからは、冬の寒さと人々の温もりが想像される。

  無知と偏見から、患者は一般の住民からは隔離された。ハンセン病に罹患することは、夢も希望も失い、生き地獄に身を沈めることだった。絶望ゆえの、自暴自棄と退廃が患者を支配していた。彼女は人間の尊厳と命の尊さを説いていった。谷間に投げ捨てられることさえあった患者の遺体を、自ら湯灌し丁寧に埋葬した。学校や病院も作った。彼女は粗末な身なりをし、ゴム長でどこへでも出かけた。「私は電灯の発明よりゴム長の発明を嬉しく思います」と言ったというエピソードが伝わっている。患者から「草津のかあさま」と慕われた彼女だったが、年齢による衰えから、1935年、草津を離れる。それから6年後に、兵庫・明石の地で気高く偉大な一生を終えた。

  頌徳公園はリーが草津町に寄贈したものだという。今は児童公園になっている。木々に囲まれ、ブランコや滑り台そしてベンチがあり、懐かしい感じのする公園だ。そこで遊ぶ子供たちをリーの像が見守っている。人間の尊厳を、その生き様で我々に示した「マザー・リー」。マザー・リーの広大無比な慈悲の精神は、決して色あせることはない。

 
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連載「上州をゆく」18 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
茂林寺の狸像(館林市)
茂林寺の狸像(館林市)
関東学園分福競技場(館林市)
関東学園分福競技場(館林市)
周辺MAP

 茂林寺へ行くと、山門前の両脇に整列する沢山の狸像が迎えてくれる。とぼけた顔が並んでいる。殆どは直立不動の姿勢だが、中には酔いつぶれ、酒瓶を持っているような行儀の悪いのもいる。まるで漫画の中にいるようだ。境内は墓参りの人が数人いるだけで、森閑としていた。喧騒の中で生活しているものには、この静寂さがありがたい。

  名物のうどんを食べようと思い、近くの食堂に入る。鯰の天麩羅付きのうどん料理を頼んだ。鯰など食べたことがないので、興味を持ったからだ。まっ白なうどんが旨いのは言うまでもないが、鯰も癖がなく淡白な味で食べやすい。白身魚と変わらない味だ。醤油を付けて食べた。天麩羅のさくさくした感触が良い。店内に流れる館林うどんのビデオの中で、鯰料理も紹介されていた。新たな名物として、売り出しに力を入れているのだろうか。

  東武鉄道・茂林寺前駅の西側に、関東学園分福競技場がある。ここはかつて分福球場といい、草創期の巨人軍が練習したグラウンドだ。1936年、アメリカ遠征帰りの巨人軍は、オープン戦で意外な不成績に終わる。これでは日本初のプロ野球リーグ戦での優勝は難しい。日本の先達として、絶対に優勝を逃すわけにはいかない。追い詰められた巨人軍は、藤本定義監督以下、分福球場で同年9月に「地獄のキャンプ」を張る。

  千本ノックの嵐が毎日吹き荒れ、選手を鍛えた。ここから日本初の三冠王中島治康、名手白石勝巳(後の広島カープ監督)らが巣立った。秋にリーグ戦がスタート。勝ち進んだ巨人軍は、宿敵阪神との最終決戦に勝利し、初代王者に輝く。

  野球シーズンが始まり、胸の高鳴る季節になった。新球団ダイヤモンドペガサスも始動し、活躍が楽しみだ。私にとって野球は父の思い出に繋がる。野球に触れるたび、亡き父とキャッチボールをした遠い幼い日々を思い出すからだ。しかし最近はチャッチボールをしている親子の姿を見かけることはない。

 
連載「上州をゆく」17 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
郷学・五惇堂の碑(伊勢崎市で)
郷学・五惇堂の碑(伊勢崎市で)
碑周辺の風景(伊勢崎市で)
碑周辺の風景(伊勢崎市で)
周辺MAP

 上州特産の絹織物業は18世紀になると飛躍的に発展する。それに伴って江戸や上方(京都・大阪)方面との交易が盛んになる。人々の往来も活発になり、先進文化が流入した。儒教や和算(日本式の数学)などの学問も広がり始めた。上州諸藩でも教育の重要性が認識され、各地に学校が作られるようになる。名高いものとしては、伊勢崎藩の宮崎有成・有敬親子らが中心になって設立した「五惇堂」がある。郷学(庶民の教育機関)としては群馬で最初のものと言われる。

  記念碑を訪れた日、最寄の剛志駅(東武伊勢崎線)ではブラジル人らしき人が、携帯電話で大声で話をしていた。群馬県の工業地帯は、日系ブラジル人など外国人が多く働く。かつて人手不足のときに、大量に外国人労働者を受け入れていた。しかし不況になると外国人から首を切る。慣れない地で身を粉にして働き、日本の産業を支える外国人の就労環境の整備は遅れる。そうした現実に目を向けず、異国の友を蔑む風潮が日本にはある。

  五惇堂では、論語、四書五経といった儒教が中心に教えられた。授業料はただで、希望者は誰でも入学出来た。農繁期は休み、農閑期に授業は行われた。教授陣は新進気鋭の学者が集った。宮崎有敬は群馬県議会の初代議長となっている。現在、学校跡の周辺は麦や白菜の畑になっている。鳥の鳴き声が響き、のどかな風景が広がる。軽自動車で颯爽と農道を行く高齢の女性とすれ違う。お年寄りが元気なのが嬉しい。

  「学は光なり」である。無知は最大の不幸である。人間は学ぶことで人間に成長出来るのだと思う。碑の説明板に有成の言葉として、「舜(しゅん=中国古代の伝説上の皇帝)は、けん畝(けんぽ)の中に生まれ、孔子は陋巷に出ずと聞けり」とある。ここから舜や孔子に並ぶ偉人を出そうという思いを込めたのだろうか。壮大なロマンを掲げた学び舎は、1872年、明治政府により学制が公布されるまで続いた。

 
連載「上州をゆく」16 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
頼政神社(高崎市で)
頼政神社(高崎市で)
内村鑑三の碑(頼政神社で)
内村鑑三の碑(頼政神社で)
周辺MAP
 高崎まつりの起源は、江戸時代の高崎藩主・大河内家が祭る頼政神社の祭礼である。頼政神社は、高崎藩主に出世した輝貞(てるさだ)が、大河内家の先祖である源頼政を祭るため、1698年に鞘町に建立した。一時、輝貞は左遷され高崎を離れるが、帰任した1717年、宮元町の現在地に神社を遷した。こぢんまりしているが、長い歴史を刻んだ由緒ある神社だ。

  神社は高崎公園の南にひっそりと建っている。街中だが、境内は木々が生い茂り、静かに本殿を守っていた。西側に烏川が流れ、その向こうに観音山を望む。いくつか碑があった。郷土の発展に尽力した偉人のものだろうか。内村鑑三の碑の前に佇んだ。「上州無知亦無才」で始まる鑑三の詩が刻まれている。自分のことを無知で無才とは、随分へり下ったものだが、「傲慢」を戒めている詩だろう。我が身はどうだろうと自省する。

  源頼政は平安時代末期の武士である。保元・平治の乱で手柄を立て、平清盛に重用された。源氏でありながら平氏につき、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた時代に異例の出世を遂げた。また歌人としても名を成した。しかし平氏の横暴に憤り、諸国の源氏に先駆けて挙兵したが、京都・宇治の合戦で平氏に敗れ、平等院で自刃した。

  再び鑑三の詩を読む。「唯以正直接萬人=ただ正直にどんな人にも接する」。去年の亥年を表す漢字は「偽」だった。日本人の倫理観が劣化していると言われて久しいが、この詩を読みに一度はここを訪れたらいいと思う。頼政神社の例祭は、沢山の神輿や山車が練り歩き、上野国随一の賑わいと言われたが、明治になり、大河内家が東京に移ると衰退してしまう。その後、道祖神祭りとして引き継がれ、戦後になると商店街が中心の祭りとして発展していく。1955年「高崎まつり」となり現在の隆盛に繋がっている。
 
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連載「上州をゆく」15 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
東大寺大仏殿(奈良市で)
東大寺大仏殿(奈良市で)
周辺MAP
復元された築垣(上野国分寺跡で)
復元された築垣(上野国分寺跡で)
周辺MAP
  新春の大和路は快晴だった。東大寺の長い参道に、延々と人波が続く。公園の鹿が餌をねだりにこちらにやって来る。首を上下に振り、早く早くとせかしているようにも感じた。運慶、快慶制作の仁王像で有名な南大門を潜り、大仏殿へ行く。参拝客に交じり、巨大で鈍く光る盧舎那仏を見上げた。争いが絶えず、混迷を深めるばかりの世界を、悲しむ様でもあった。

  東大寺は奈良時代、続発する災害や国政の動揺を憂えた聖武天皇が、仏教による国家鎮護を目指し、752年に造営した。そして東大寺を総本山とし、その末寺として国分寺を作ることを全国に命じた。

  上野国分寺は、前橋市と高崎市の旧群馬町地区との境にあった。上毛三山が見渡せる広大な土地で、まさに上野国の中心にふさわしい所に置かれていた。今は近くに県庁のビルが望める。このあたりは古代から、群馬の中核をなす地だったのだ。国分寺跡の周辺は今、田畑になっている。年末に訪れたが、建物がないので空っ風をまともに浴びた。昔よりは弱くなっていると聞いたが、実際に体験すると息が出来ないほどだ。

  創建は750年頃。当時は七重の塔があり、高さは前橋市役所に匹敵するほどだったという。周囲には寺院を支える様々な施設が建設されたというから、それらを含めると、大変な規模だったと想像する。平安時代の歴史書「続日本紀」には、中心となって築造した碓氷郡や勢多郡の豪族の記録が残る。建設のために焼かれた「藤岡瓦」は現代まで続く。

  現在は基壇や築垣(ついがき)の一部が復元されている。基壇の大きさに当時の繁栄を偲ぶ。上野国は関東の辺境にありながら、格付は大国であった。豊富な財力で絢爛豪華な寺院を造ったのであろう。しかし朝廷の力が衰え、さらに新仏教が勃興すると国分寺は衰退する。栄華を誇ったのは300年ほどだったという。
 
連載「上州をゆく」14 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
桃井小学校(前橋市で)
桃井小学校(前橋市で)
周辺MAP
皇居のお堀(東京都千代田区で)
皇居のお堀(東京都千代田区で)
周辺MAP
 1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃した。国土が焦土と化し、幾万もの尊い人命が失われ、国民を塗炭の苦しみに突き落とした戦争が始まった日である。緒戦は勝利に沸いていたが、次第に戦局は悪化し、圧倒的な戦力を誇るアメリカの前に、なす術はなくなっていく。空襲は容赦なく日本全土を襲い、炎の中を人々は逃げ惑う。もはや勝ち目はない。国民をこれ以上犠牲にするわけにはいかない。敗色濃厚な戦争の収束を図るため、昭和天皇は軍の説得を77歳の鈴木貫太郎に託す。鈴木内閣総理大臣の誕生である。
 
 鈴木は幼少期を千葉県の関宿(現野田市)で過ごすが、父親が教育熱心で孟母三遷の故事に倣い、当時教育レベルが高いとされた群馬県に転居する。鈴木は前橋の桃井小学校に転入した。官庁街にある同小は、鉄筋の立派な校舎だった。訪れたのが休日だったので、校門が閉まっていた。子供の声は聞こえない。最近、子供が犠牲になる事件が多いせいか、校庭では誰も遊んでいない。私の子供の頃の学校とは、随分様子が違う。毎日、日暮れまで校庭で遊んでいた子供時代は、もはや遠い昔だと思い知った。

 1945年8月、広島、長崎に原爆が投下された。もはや一刻の猶予も許されない。ここに至っては玉砕を叫ぶ軍部も鈴木に逆らえない。鈴木は御前会議で天皇に聖断を仰ぐ。天皇は無条件降伏を決意する。そして8月15日、終戦を見届け、鈴木内閣は総辞職する。

  師走の晴れた日の皇居は空気が新鮮だった。都心なのに都会の喧騒とは無縁だ。外国からの観光客が大勢いた。旅の「記念写真」を撮っている。「お城」見学に終わらせず、せめて日本がたどった愚かな道を知り、日本人が流した血の涙を学んでもらえたらと願う。日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊と激闘を繰り広げ、勝利に導いた「軍人鈴木」は、暴走する軍事政権を抑え、日本の滅亡を防いだ「政治家鈴木」でもあった。初めて群馬県から誕生した内閣総理大臣、鈴木貫太郎は後者として知られている。
 
連載「上州をゆく」13 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
梨の木平敷石住居跡がある小屋
(みなかみ町で)
梨の木平敷石住居跡がある小屋
(みなかみ町で)
住居跡の遺跡
(みなかみ町で)
周辺MAP
 縄文時代というとまだ原始時代という印象だったが、それは間違いであると思い知らされた。何年か前に、青森県の三内丸山遺跡を見学した時の感想である。住居地域、ゴミ捨て場、祭祀の場、そして墓と整然と区分されていた。つまり秩序と規律が整った生活が営まれていたのだ。漆器やアスファルトなども発見されているので、縄文時代とは、高度な技術を持つ文明社会だったのだ。

 県内でも縄文遺跡は多数発見されている。約4千年前の「梨の木平敷石住居跡」もその一つだ。上越新幹線の上毛高原駅から東へ坂道を10分ほど下った。道路の右側に遺跡が見えた。1976年、上越新幹線の建設に伴う県道整備の際に発見されたものだ。縄文時代は、1万3千年ほど前から1万年以上続いたとされているので、この遺跡は後期のものか。現在は小屋で保護されており、中に入るとガラス越しに遺跡を見下ろすことが出来る。中は暗いので、懐中電灯で説明版を読んだ。遺跡からは、食器や甕に使われたらしい石器や土器が多数出土したという。

 この「住宅」の床面には、平らな白い石が六角形に敷き詰められている。屋根は7本の柱で支えられていたらしい。玄関から外に向かって細長く石が敷き詰められている。上から眺めると亀のような形をしている。中央に炉があることから、そこを中心に家族が団欒の時を過ごしていたのかも知れない。

  ここには家族の温かい絆があったに違いない。仲良く夕餉を囲む姿が想像される。湯気が立ち上がる温かい母親の手作りの料理に、子供たちが舌鼓を打っていたのだろうか。「貧しいながらも楽しい我が家」といった趣だ。電気製品などの文明の利器に囲まれ、飛躍的に便利になった生活を送る現代人。しかし親子の会話もなく、子供はテレビゲームばかりという話を聞くと、一体どっちが幸せなのだろうと考える。毎日ニュースになる子への虐待や親子間の殺人事件・・・家族の崩壊が深刻な現代を、縄文の人々はどう見るだろうか。
 
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連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
清水トンネル群馬側出口
(みなかみ町で)
上越線を走る電車
(越後湯沢駅で)
周辺MAP
 川端康成の小説「雪国」の冒頭に出てくる「国境の長いトンネル」とは、上越線の清水トンネルのことである。国境とは、群馬(上野国)と新潟(越後国)の境のこと。清水トンネルは、1931年に開通した。名前は近くの清水峠にちなんだという。全長は9702m。トンネルが出来るまでは、群馬から新潟へ抜けるには、信越線で碓氷峠を越え、長野を経由しなければならず、上野〜新潟間は、急行で約11時間かかっていた。それが約4時間の短縮になったという。
 
  越後湯沢駅から上越線に乗った。「雪国」とは逆のコースをたどる。意外に乗客が多いのに驚いた。今でも上越線は、住民の貴重な足なのだ。土樽駅を出て、まもなく清水トンネルに入った。窓の外が暗くなり、「ゴーッ」と列車が空気を切る音が車内に響く。お年寄りが、トンネルを通って都会へ出ていた頃の苦労話を、親の帰省に付いて来たらしい小さな孫にしていた。その子がどう感じたかは分からないが、おとぎ話を聞くようなものだろう。普段は新幹線を利用しているはずだ。
 
  戦後、輸送量が増大したため、1967年に新清水トンネルが造られ、複線化される。シーズンともなれば、湯檜曽駅や土合駅は、スキー客や登山客でさぞ賑わったことだろう。清水トンネルは、建設に9年4カ月を要し、工事関係者44人の尊い犠牲の上に完成した。急勾配を避け、なるべく短くするため、群馬側と新潟側にループトンネルが設けられている。それでも長いので、煙害対策のため、当初から蒸気機関車ではなく電車が走っていた。

  川端康成が「雪国」の執筆を開始したのは、1935年頃。小説の「国境の長いトンネル」とは、単線の頃の清水トンネルだ。現在は上り専用のトンネルとなっているので、小説と同じルートをたどって新潟方面へは行けない。今となっては幻のルートなのだ。「雪国」の中の島村と駒子の世界は、永遠のおとぎ話となっている。
 
雄川堰と町並み(甘楽町で)
食い違い郭(甘楽町で)
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 甘楽町小幡は上野国の要衝であり、古くからの城下町である。鎌倉時代になると小幡一族が勢力を伸ばし、この地を支配した。しかし戦国時代に武田信玄の配下に加わった小幡氏は、武田氏の滅亡後、この地を徳川家康に明け渡す。1615年、家康から織田信長の次男、信雄がこの地を与えられ、以後7代約150年にわたって織田氏が支配する。

 上信電鉄の上州福島駅で降り、自転車を借りた。無料なのが嬉しい。8月の後半とは言え、異常な暑さだった今年の残暑は厳しい。駅から続く長い坂を、自転車を漕いで上った。かなりきつく足が痛くなった。若いつもりでいても体は正直だ。町役場前で一服。一気にペットボトルの茶を飲み干したが、汗は引かない。今年の暑さには参る。

 雄川堰沿いの町並みに着いた。盛夏がいまだに続いているようなせみ時雨だった。雄川堰は、昔は貴重な生活用水だった。昔の屋敷が立ち並ぶ。こういう古い屋敷というのは、保存するために使われていないのが普通だが、ここには人々が生活する「生きた空間」がある。無造作に置かれた自動車、散策している親子・・・人々の息遣いを感じる。春には、桜並木が町を彩り、大変美しいという。その時にまた来たいものだ。

  武家屋敷の並ぶ中小路に行く。静かな時が流れ、石垣と白壁の塀が、私を江戸時代にいざなう。広い道を大名が練り歩く光景が浮かぶ。封建時代、下級武士は大名との鉢合わせを避けなければならなかった。「食い違い郭」があるのはそのためだ。江戸中期には、放漫財政がたたり、藩財政は困窮する。藩政改革を試みるが、藩主信邦は無能で重臣達の対立が激しくなるばかり。改革は一向に進まない。ついに幕府は織田氏を見限り、小幡から追放してしまう。しかし町の礎を築いたのは間違いなく織田氏であったと思う。町の宝とも言うべき貴重な遺構のほとんどは、織田氏ゆかりのものだという。
 
新島襄渡航の碑(函館港)
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新島襄の旧宅(安中市)
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 安中藩の下級武士に生まれた新島襄は、自由の国アメリカを目指し、北海道・箱館から密航を企てた。アメリカのペリー提督の浦賀来航で、長い鎖国からやっと目覚めた日本が、海外に門戸を最初に開いた地、箱館。箱館の諸術調所の教授で、五稜郭を設計した武田斐三郎に学ぶため新島は当地に渡る。そこで接した高度な技術、海外事情なども、一層海外雄飛の思いを膨らませたに違いない。

  1864年、ベルリン号で日本を発った。現在、函館港には、新島襄渡航の碑が建てられている。
  函館を訪れたのは、8月初旬。快晴だったが、風が爽やかで心地よい。普段、北関東の異常な暑さを経験している身には、まさに別天地。街を散策すると、洋風の建物があちこちにあり、当時の面影がまだ残る。碑は観光コースからは少し外れ、倉庫の横に目立たないように立っていた。「ここから見る港の景色が一番綺麗だよ」と地元の人が教えてくれた。

  新島の旧宅が、安中市中心部の静かな住宅街に残る。質素な萱葺きの木造家屋だった。入口を入るとすぐ縁側が目に入る。そこにたたずみ思索する時もあったのだろうか。和室二間が新島の生活の場だったという。母親が茶を点てた炉があった。10年ぶりに故郷に帰り、束の間の安らぎの時間を家族と過ごした場所だ。唯一心許した所だったに違いない。しかしここには3週間あまりしかいなかったという。

 大志を抱き新たな旅についたのだ。
離れても故郷のことは忘れなかった。安中の知人に頻繁に書簡を送り、悩める人々の灯台役を務める。故郷への思いは安中教会、新島学園へと結実する。床の間に辞世の句が掛かっていた。

「いしかねも透れかしとて一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地」。

虚飾などないストレートな決意が伝わる。彼の生涯をそのまま表現した句だった。自分もかくありたしと何回も繰り返した。
 
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 奈良・平安時代の新田郡の郡衙(ぐんが=郡役所)跡といわれる天良七堂(てんらしちどう)遺跡(太田市天良町)。上野国(こうずけのくに)には14郡が置かれ、ここの郡衙は全国最大規模であったという。大和朝廷に反目する東北の蝦夷を監視する、前衛基地としての性格もあったといわれる。郡衙の建物跡が確認され、説明会をするというので参加した。東武桐生線の治郎門橋(じろえんばし)駅から南西に20分ほど歩いた。
 
  現地は、住宅地の中にぽっかりと空間が出現したようだった。朝早くから大勢の人が詰め掛けていた。東京など県外からの人もいた。ここのように古文書の記述と、建物位置が一致している例は珍しいという。説明員の後について見学する。柱跡が2列に整然と並んでいる所は、中心的な建物だったらしい。それは3棟発見された。地中にある、柱を支える石から想像すると、柱は直径約30pで、木造としてはかなり大きいという。建物の長さは50mほどで、昔の田舎の小学校の木造校舎くらいはありそうだ。ここは住民から取り立てた税(当時は米が中心)の保管場所でもあった。米蔵だったと想像される建物跡もあった。それを見ながら、税に悩むのはいつの時代も同じかと思う。

  大化の改新以降、中央集権国家を目指した日本は、律令制度の下に支配体制を整えていく。地方に国司を派遣し、その下の郡司には地元の豪族を任命した。徴税を効率化し、国の中枢に財を集める制度を作ったのだ。その結果、奈良・京都の貴族文化が栄えた。しかし地方は山上憶良の「貧窮問答歌」のように、重税に苦しみ疲弊する人々も多かった。都で貴族が政治を忘れ、権力闘争に明け暮れている間に、地方では武士団が台頭する。関東でも平将門らが勢力を伸ばした。いつの時代でも、民衆の支持を失った時、権力は崩壊する。武士の時代になるのは、必然的な歴史の流れだったのかも知れない。
 
お問い合わせ
県立つつじが岡公園
TEL:0276-72-9122
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 日本初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんの故郷として有名な館林。美智子皇后の父方の実家があり、江戸幕府5代将軍、徳川綱吉が藩主だったことでも知られる。5月の連休に、有名なつつじ祭りに行ってみた。東武館林駅から、直通バスに乗り、
15分ほどでつつじが岡公園に着いた。天候にも恵まれ、大変な人出だ。公園には沢山の出店が並んでいた。名物のうどんや名産品を売る店が軒を連ねる。売り子の明るい声が、心地よく響いていた。
 
  赤やピンクのつつじが満開だった。五十余種、1万株が広い公園に植えられているという。そのスケールの大きさに驚いた。古いものは樹齢800年を越えるという。普段は仕事に忙殺される日常ゆえ、花に親しむ余裕などない。しかしこの日は、目がまぶしくなるほどの、鮮やかなつつじに心を奪われ、しばし楽しんだ。

 館林のつつじの歴史は古い。古代から野生のヤマツツジが群生していた。そして歴代の城主が保護し、地元の人々が丹精こめて育て、少しずつ増やし、大切にされてきた歴史がある。近くの城沼の湖面に写るつつじの姿の美しさが、古文書にも記されているという。 ここのつつじは、向井さんによって、1994年、スペースシャトルで宇宙に行ったことで話題になった。そのつつじは現在、向井さんの記念館で順調に育っているという。

  明日からは、また忙しい日常に戻る。かつて世界一治安が良いと言われた日本だが、昨今、それを揺るがす事件が相次ぐ。警官、公務員、教師など最も正義、倫理を重視しなければならない人々の犯罪が続く。今や人殺しのニュースを聞かない日はないほどだ。現代はストレス社会だ。性急に成果を求められる。日常の中で、普段の自分の姿を見つめ、反省している暇などない。そんなことをしていたら競争に負け、敗残者の烙印を押されるからだ。こんな時代だからこそ、つつじを愛でる心の余裕を大切にしたいと思った。
 
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 戦国時代の最大規模の戦いの舞台が、高崎市新町にあったと聞いて行ってみた。JR新町駅から国道17号沿いに埼玉方面に歩く。東京に繋がる大動脈だけあって、ひっきりなしに車が飛び交う。排ガスを吸い込むようで、息をするのも嫌になる。 やがて自衛隊の駐屯地が見えた。 イラクに自衛隊員が派遣され、防衛省が出来、さらに憲法の改正論議が喧しい昨今、高崎も歴史の流れの大きなうねりと、無関係とはいくまい。 今は駐屯地の横(埼玉側)に、碑があるのみだが、近くの神流川周辺で戦国時代を通じ、最も凄惨な戦いである「神流川の戦い」があった。織田信長が天下を統一、関東に臣下の滝川一益(かずます)を派遣し、関東支配の基盤を着々と整えつつあった。

  しかし元々関東の有力戦国大名である北条氏を差し置き、近江(今の滋賀県)の滝川氏が重用されたことに、北条氏の嫉妬は募る。1582年、本能寺で明智光秀が信長を殺害。北条氏一族の氏政らはこの機に乗じ、関東奪還を目論み、滝川一益に戦いを挑んだ。
 
  同年夏、双方の死力を尽くした合戦が繰り広げられる。滝川軍1万8千、北条軍5万6千という大軍が激突。戦いは2度にわたり、約4千人の死者が出たという。数に勝る北条軍が圧勝。織田勢力は駆逐され、関東は新たな時代に入る。

  現在、神流川は河原がかなり広く、雑草が生い茂っていた。群馬側には水の流れが無く、農家が畑を耕していた。堤防は整備され、サイクリングロードとなっている。そこでジョギングを楽しむお年寄りとすれ違う。都市郊外の静かな光景が広がる。碑文を読む私を、行き交うトラックの運転手が怪訝そうに眺めた。ここが歴史の転換点であり、人間の残酷さを見つめた地だということを、知っている人は殆どいないに違いない。しかし時の流れに埋没させるには、あまりにも犠牲の大きい戦いだと思った。
 
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