●伊勢崎に残る大正ロマンの薫り 群馬県からは日本の歴史に残る実業家が多数輩出している。中島飛行機の創業者中島知久平、日本鋼管の今泉嘉一郎などはよく知られている。伊勢崎を代表する経済人である小林桂助は、当初生糸商であったが、横浜に移り貿易商となった。進取の気性に富んだ小林は、当時北海道で栽培が始まったばかりのハッカに着目した。ハッカは歯磨きや膏薬の原料として用途が広がり、日本の重要な輸出品に成長、小林の商売は大成功を収めた。 伊勢崎にある旧時報鐘楼は小林桂助によって、1915年に建てられた。小林は幼少の頃、大手町の中台寺の時を告げる鐘の音に親しみ、もっと遠くまで聞こえる高い鐘楼を造りたいと願っていたようである。成功して財をなし、少年の頃の夢を叶えたかったのであろうか、大正天皇の即位記念として、中台寺の鐘を移してこの鐘楼を建設した。 北小学校の敷地内に鐘楼は建っている。しかし当初のものは太平洋戦争中、米軍の爆撃で焼失してしまった。鐘も金属供出でなくなっている。現在のものは市制50周年を記念し、1990年に復元されたものである。高さは約15㍍、くすんだレンガ張りの外観が大正の薫りを漂わせる。当時は午前6時と午後6時に時を知らせていた。 高い塔を想像していたので、伊勢崎駅を降りたらすぐ目に入るだろうと思っていた。しかし周囲の建物に埋没し、全く見えなかった。現代の感覚で考えてはいけなかったのだ。当時は、どこからでも眺められる「街のシンボル」だったはずである。時の流れを実感せざるを得なかった。 北小学校の立派な校舎で学ぶ児童達は、どんな思いでこの鐘楼を見ているのだろうか。この鐘楼を単なる古ぼけた塔としてしまうか、戦争の語り部として塔から何かを学ぶかは、少年少女の心次第であろう。伊勢崎は「核兵器廃絶平和都市宣言」をしている。その精神を継承していくことをきっと小林翁も望んでいることだろう。
●伊香保の誇り・博愛主義の大文豪 明治の文豪、徳富蘆花は、伊香保温泉に生涯で10回も訪れるほどお気に入りだった。その伊香保を舞台にした「不如帰(ホトトギス)」を1898年から新聞連載し、一躍流行作家になるのだが、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかった。1868年、熊本県の水俣に生まれた蘆花は、末っ子ゆえか甘やかされ、凡庸で体も弱く、コンプレックスに苛まれた少年時代だった。 家族や親類の視線は秀才の誉れ高き兄、徳富蘇峰に注がれ、蘆花は全く期待されていなかった。同志社に入学したが、女性問題を起こして退学すると、蘇峰が主宰する新聞社「民友社」に入社した。しかしそこでは仕事もなく、「机に向かって筆を持ち、頬杖をつく毎日」で、小使いにすらバカにされる日々だったという。 「不如帰」は、蘆花31歳からの作品である。当時の陸軍大将、大山巌の長女と子爵、三島通庸(みちつね)の長男の結婚生活が、妻が結核にかかったことにより、悲劇に終わったことを題材に書いた小説である。封建制度が色濃く残る明治に生きた、薄幸の人妻「浪子(大山巌の長女がモデル)」の生涯に同情が集まり、50万部が売れる大ベストセラーになった。 一方、蘇峰との関係には溝が生じていった。国粋的な思想に傾倒し、日本の帝国主義を宣揚する蘇峰と、大逆事件(天皇の暗殺計画が発覚した事件)の際、社会主義者、幸徳秋水を擁護した蘆花は、次第に確執を深めていった。トルストイの影響を受けた博愛主義者、蘆花は政府の思想弾圧に加担する兄が許せなかったのだろう。 晩年は腎臓や心臓の病が重篤になり、伊香保の旅館で療養生活を送った。居室が記念館として保存されている。湯舟は小さく、足を抱えてやっと入れるくらいだった。自力では動けない蘆花は、ここにつかるのが唯一の至福の時だったのだろう。朝鮮の京城駅で別れて以来、15年間の絶縁の末に兄、蘇峰と和解したのは、蘆花が60歳で死去するその日のことであった。
風雲急を告げる幕末、尊王攘夷の渦の中で危機感を抱く幕府は、皇室との政略結婚で体制維持を図ろうとした。孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂の結婚を画策したのだ。朝廷と縁戚関係になる(公武合体)ことにより、権威の回復をもくろみ倒幕の動きを封じようとしたのだった。 仁孝天皇の第八皇女として生まれた和宮は、6歳の時に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)と婚約し、有栖川宮家と家族同然の関係を築いていた。和宮と有栖川宮は11歳の年の差があったが仲睦まじく、和宮も将来の幸せな結婚を夢見る普通の乙女であった。 孝明天皇は幕府の申し出に難色を示していたが、執拗な幕府の圧力に抗しきれず、遂に公武合体を受け入れた。和宮にとっては驚天動地の出来事、相当な衝撃を受けたに違いない。絶対に嫌だと、降家(皇族以外に嫁ぐこと)を強く拒絶した。しかし再三の説得と天皇である兄の立場を思い、有栖川宮との婚約を破棄し降家を承諾した。和宮17歳の時である。 輿入れの行列は、1861年10月20日に京を出立した。お付きの人は2万5千人、人足(運搬人)4千人の大行列で、長さは50㌔にも及んだという。反対派の妨害を避けるため、東海道ではなく中山道を通り江戸へ下った。11月10日夕刻、安中の板鼻宿に到着した。現在、板鼻宿本陣は残存しないが、板鼻公民館敷地内に和宮が宿泊した書院が保存されている。時の流れを感じさせる古びた建物だが、当時の資料が多数展示されており、輿入れの様子の一端を垣間見ることが出来る。 迎える方も大変だったらしい。公儀からの達示で「火元注意のこと」は当然として、「火事になっても夕方まで半鐘をたたくな」と命令されたというから現代の常識では考えられない。邪魔があっては幕府の面目が丸潰れということか。時代に翻弄され、わずか4年で家茂と死別した和宮は、32歳で没した。今は東京の増上寺で、家茂と安息の日々を送っているはずである。
中之条町の旧六合村赤岩地区は、養蚕農家を中心とする江戸時代からの景観が残り、群馬県で初めて伝統的建造物群の保存地区に選定されている。都市部ではほとんど見られなくなった養蚕農家が点在する光景に、今は忘れられつつある古き日本の原風景をみる。毘沙門堂や観音堂が集落の中にあり、素朴な信仰が人々の生活に息づいていたのが分かる。 中之条には、高野長英が潜伏していたと伝えられる屋敷が何軒か残っている。赤岩の湯本家もその一つである。高野長英とは、坂本龍馬や高杉晋作といった維新の志士達が活躍する少し前、国の将来を憂え、幕府を批判し開国を唱えた蘭学者である。長英は陸奥国(岩手県)水沢で生まれた。若き日に、長崎のドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で町医者になった。 1837年、米国の商船モリソン号が攻撃される事件が起きると、長英は公然と幕府を批判した。そのため捕らえられるが、やがて脱獄し、逃亡生活を送る。中之条周辺には長英の門弟が多く、その縁もあって匿われていたらしい。特に湯本家は、代々医者を務めた村の有力者であり、人望もあったので隠れやすかったのかも知れない。 長英はピタゴラスやガリレオさらにはジョン・ロックといった西洋の科学、思想・哲学を翻訳し人々に紹介した。言わば当時の「危険思想」の持ち主である。しかしそれを偏見の目で見ることなく、中之条の人々は積極的に学んだ。中之条の高名な弟子には福田浩斎、高橋景作、湯本俊斎などがいる。 長英門下の学者達は医学のみならず、ソバや馬鈴薯の栽培奨励など、地域の発展に大いに寄与した。高野長英の教えは「吾妻蘭学」と呼ばれ、吾妻の人々の生活に大きな影響を与えた。2010年は、龍馬ブームで日本中が沸いた。高知や長崎などは観光客が大幅に増加したという。しかし明治維新の胎動は、龍馬らが躍動する前に、すでに中之条の地で起こっていたのである。
2010年3月の中之条町と六合村の合併で県内の「平成の大合併」は終了した。70あった市町村は35と半減した。地方財政が厳しい中、行政の効率化のため、合併は避けられないのかも知れない。しかし馴染みの名前が消えるのは寂しい。三つあった東村は全てなくなった。群馬町は高崎市と合併し、「群馬」を冠した市町村は県内に一つもない。 六合村の消滅も残念である。1900年に、草津村(当時)から分村し、小雨、生須、太子、日影、赤岩、入山の六つの集落で新しい村を作る際、古事記にある「天地四方を以て六合(くに)と成す」から六合村とした。東西南北、天地の六つで国を表すことと、六つの集落が合流することを掛け合わせたそうである。ユニークな名だった。 太平洋戦争中、六合村太子で鉄鉱床が見つかり、渋川~長野原~太子に鉄道が敷かれた。鉄鉱石の輸入が途絶えていたので、国はどうしても必要だった。採算度外視の鉄道敷設だったという。終戦後も産業復興に貢献し、日本の高度経済成長の礎となった。旅客車両も運行されたので、読者の中にも利用していた人はいるかも知れない。 資源の枯渇により1965年に鉱山は閉鎖された。さらに村の人口減少で、70年には長野原~太子間の旅客営業も廃止となった。温泉巡りで訪れた近くの旅館に、往時の太子駅の様子がパネル展示されていた。もうもうと白煙を上げる蒸気機関車、積載作業にいそしむ沢山の労働者――当時の活気が伝わって来る。 廃線跡を車で通ってみた。トンネルを抜け、しばらく行くと太子駅跡に出た。ホッパー(鉱石を貨物に積み込む施設)が昔の面影を留めているが、草に覆われ荒れ放題である。「過去の栄光」との落差に心が痛んだ。しかし線路跡は生活道路として健在で、沿線には農作業に忙しい人々や子供の遊ぶ姿があった。人々の息遣いに触れ、村人の心の中では、今でも鉄道は健在なのだと感じた。
昔は各地にあった渡船だが、交通網の発達とともに橋が架けられ、現在ではほとんど見られなくなった。その中で、千代田町赤岩と埼玉県熊谷市葛和田を結ぶ赤岩渡船は、県道をつなぐ航路の貴重な担い手として、今でも現役で頑張っている。年間数千人の利根川を渡る人々を、小さな動力船「千代田丸」が懸命に運んでいるのである。 わずか5分間の船旅だが、ちょっとしたレジャー気分を味わえる。公道なので料金は無料である。今年の夏は猛暑続きで、利根川でもマリンスポーツを楽しむ多くの若人の姿があった。猛スピードで進む水上バイクから渡船に向かって手を振る人々やカラフルなウエアに身を包み、水上スキーを楽しむ姿がたくさん見られた。 葛和田側の船着き場は無人である。こちら側から乗る場合は、待合所の横にあるポールに、黄色い旗を自分で掲げて赤岩側の船頭に知らせる。渡船は千代田町が管理、運営をしているので、船頭は赤岩側に待機しているのである。 葛和田側で船の写真を取っていると、恰幅のいい外国人が、「シャッターを押してあげよう」と日本語で声をかけてきた。Tシャツ、半ズボンのラフな格好だったので、近所に住んでいるようだ。流暢な日本語に少し驚いた。長年日本で暮らしているらしい。散歩の途中だったのだろうか。赤いニコニコ顔が印象的だった。葛和田の船着き場そばに妻沼滑空場がある。悠然と空中を行く白いグライダーが目に入った。 赤岩渡船の歴史は古く、戦国時代の文献にはすでに登場している。赤岩は水深が深く、大型船が行き交うことが出来た。江戸時代になると、水運の発達とともに、物資輸送の中心地となり、坂東16渡津の一つに数えられた。今後、経済成長を追い求める時代は終焉するだろう。ゆとりある生活を楽しむ時代になっていくに違いない。環境問題が深刻化し、自然との調和が叫ばれる現在、赤岩渡船も見直されつつあるという。
朱色の五重塔がひと際目を引く榛東村の柳沢寺は、比叡山延暦寺の直系の末寺として、中世にはかなり栄えた。しかし戦国時代末期、北条、上杉、武田といった戦国大名の戦いの舞台となり、全ての堂宇が焼失した。江戸時代に、高崎城主安藤右京進重長や天海僧正などが再建に着手し、貞享・元禄年間には再興した。 中世末の「船尾山縁起」には次のようにある。千葉常将という武将が船尾山にある寺の観音様に、子が授かる様に願をかけたところ男子が生まれた。後年、学問修業のため、その子を寺に預けると、行方不明になってしまった。寺が隠したと激怒した常将は寺に火を放った。しかし後で天狗が子を隠したと知り、常将は自らの愚行を恥じ、自害した。後に妻が贖罪と夫の供養のため、寺院を造った。それが現在の柳沢寺の元となった。 昔、榛名山中に大寺院があり、それが焼失したという土着の伝承と寺への信仰とが結びついて生じた話だそうだ。この話を想起させるような出来事があったかどうかは知らない。しかし千葉常将は実在し、平家の流れを汲む、平安時代の武士だった。房総を支配した千葉氏の祖といわれる。 しんとした寺の中は時代劇の舞台のようでもある。境内は広く、杉木立に囲まれた観音堂、鐘楼が立っている。こうくればチャンバラに絶好の舞台。「隠密剣士」「伊賀の影丸」と聞いてワクワクする人は私と同世代。しかしチャンバラなど今時の子供はせず、死語になっているのが寂しい。 榛東村はデラウェア、巨峰を中心としたブドウ栽培が盛んで、北関東一の生産量を誇る。ワイン製造にも力を入れている。ワイナリーで試飲させてもらった。日本製ワインは、私には甘みが強い印象で、あまり飲まないのだが、ここのは酸味や苦みも適度にあり美味しい。10種類以上を製造しているそうで、梅ワインというのもあった。榛東村のブドウの初出荷は1964年、東京五輪の年であった。
商都・高崎も不況の波にのみ込まれ、繁華街でも夜は人波がぱったりと途絶える。閉店した店の跡が空き地になっていたり、駐車場になっていたりで痛々しい。かつての花街・柳川町は、昔は料亭や芸者の「置屋」などがたくさんあって、夜ごと賑わっていたというが、今の姿からは想像も出来ない。 高崎が一番賑わったのは、戦前、陸軍歩兵第15連隊が駐屯し、兵隊さん達が派手に遊んでいた頃だと聞いたことがある。新幹線が開通し、私のように都心へ通勤する人も増えた昨今、住民には県外出身者も多く、軍都として栄えた高崎の昔の姿を知らない人も多いのではないだろうか。 かつての軍都・高崎には戦争遺跡があちこちに点在している。今は市民の憩いの場となっている県立公園「群馬の森」には、陸軍の火薬製造所があった。1882年、火薬増産のために建てられ、1905年からは、日本初のダイナマイトの生産が始まった。運搬のため、火薬製造所と倉賀野を結ぶ鉄道も敷かれた。 公園の東のはずれの立ち入り禁止区域には、射場跡地があり、管の中に砲弾を撃ち込んで、火薬の威力を確かめたというトンネルが残っている。それは木々に囲まれ、周りの緑に埋もれるように苔が生えた、筒状の横長の建築物だった。同じ公園内では、家族連れが談笑し、子供達が遊びに夢中になっている。その風景の落差が、今と昔を鮮やかに浮かび上がらせる。 いつ終わるとも知れぬ戦争に巻き込まれ、毎日ダイナマイトを製造し、爆破実験に従事していた人々が、ここにはいたのだ。これは遠い昔の話ではない。高崎駅西口から西へ延びる道路は、第15連隊が勝利の行進をするために、「凱旋道路」と命名されていた。しかし第15連隊が勝利の行進をすることはなかった。「凱旋道路」で実際に凱旋パレードをしたのは、北京オリンピックで金メダルに輝いた、平和の戦士・女子ソフトボールの選手たちであった。
初夏の香りのする季節となった。榛東村の桃泉ではポピーが真っ盛り。絨毯のように広がった、赤やピンクの花が人々の目を楽しませる。ポピーは茎が細く、華奢な女性の姿を重ね、中国秦の武将、項羽の愛人虞の名を取り、虞美人草とも呼ばれる。村のポピーは休耕地を利用し、長寿会の方々が育てたものである。東京から見に来ていた人もいたので、名所として浸透しつつあるのだろう。
榛東村にある茅野遺跡は、約3000年前の縄文時代の、後期から晩期にかけての大規模な集落跡である。1989~1990年、榛名山の東南麓の一帯を、哺場整備事業に伴い、発掘調査をした際、多数の竪穴式住居や耳飾り、岩板などが出土した。
注目されたのが577点にも及ぶ土製耳飾りである。今は遺跡は埋め戻され、多目的広場になっているが、発掘を記念して建設された「耳飾り館」に出土品が展示されている。細密な文様が施された物が多く、大変に手の込んだものであった。高い加工技術に感嘆する。耳に穴を開けて装着したらしいので、ピアスの部類に入るのだろうか。大きなものは直径10㌢重さ100㌘もある。いきなりは着けられないので、幼少の頃から小さな物を着け、段々大きな物に変えていったのだろう。
遺跡からは、住居、墓、岩板、土器など多数の遺物が発見されている。住居は何度も建て替えられた跡もあった。かなりの長期間に栄えた大きな村だったらしい。お洒落や流行の発信地だったのかもしれない。耳飾りは身分を表すことや、呪術に使うことも重要だったと考えられている。
奈良時代以降、耳飾りは見られなくなる。「衣服で身分を示すため要らなくなった」「髪を垂らすようになったので似合わない」「仏教や儒教の影響」など様々な憶測があるが、理由は謎である。長い空白を経て、耳飾りが復活するのは明治時代である。西洋文明に触れ、古代の美意識が呼び起こされたのだろうか。
「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」で始まる「夏の思い出」は、1949年6月、NHKのラジオ番組でシャンソン歌手の石井好子が歌った。この歌のお陰で尾瀬は全国に知られる。作詞は、岩手県出身の詩人江間章子である。戦争で焼土と化した日本に希望を灯したいと、NHKが江間に依頼して出来た曲である。
当時の江間は自律神経失調症で、歩くこともままならなかった。しかし戦後間もない皆が貧しかった時代、原稿料の30円に惹かれ、NHKの依頼に応じたそうである。かつて1度だけ行った片品のミズバショウの群生地を思い出し、作詞したという。作曲は「雪の降る街を」「小さい秋みつけた」などで知られる中田喜直である。実は二人とも尾瀬には行っていない。歌は豊かな想像力の賜物である。
JR沼田駅からバスに乗り、国道120号を片品村に向かった。椎坂峠あたりから、山あいをうねるような道が続き、大きく車体を揺らしながらバスは進む。終点の鎌田で降りると、ひんやりした空気を感じた。ここは標高が約800㍍、平地とは季節のずれがあるようだ。
片品村の中心地鎌田は、古くは鎌田の辻と呼ばれ、桧枝岐・会津へ向かう会津街道と日光に抜ける日光街道の分岐点であった。バス停の傍に、「夏の思い出」の歌碑のある旅館がある。先代の社長が江間と懇意で、碑を作ることを了承してもらったそうである。ミズバショウの群生地がライトアップされていると聞き、見に行った。肌寒く、急な上り坂に難儀したが、光の中に浮かぶ可憐な白い花を見ると、疲れも忘れ心が和んだ。ここを江間も見たのだろうか。
越後湯沢から金沢へ向かい、特急「はくたか」で雪の残る越後路を進んだ。窓から見える雪化粧の山々は、水墨画を思わせる静かな光景だった。枯れた冬山の光景も捨てがたいものだ。いつの間にか雪が消え、銀色の海が目に入った。車窓の景色の変化に心が躍る。 加賀百万石の祖、前田利家は尾張荒子(現名古屋市)に生まれた。織田信長、豊臣秀吉につき、大大名になる礎を築いた。1583年に秀吉から加賀、能登、越中を拝領し、金沢城を拠点とした。徳川家康とは敵対関係にあったが、利家の死後、嫡男の利長は家康に味方し、領地を守ることが出来た。石川門から金沢城に入ると、広い敷地が広がる。防御のための五十軒長屋など、建物の堂々たる威容に、百万石の実力を垣間見た思いがした。 利家の五男利孝は人質として江戸に送られていた。しかし大坂の陣で功績を上げ、甘楽郡七日市の1万石を拝領し、上野国唯一の外様大名となった。1616年から約250年間、利昭まで、七日市藩は12代続いた。現在、藩邸跡は県立富岡高校となっている。校内には、今も御殿や門が残っている。御殿は1843年に建てられたもので、日本庭園を備えた立派なものである。 私達の他にも初老の御夫婦が、カメラ片手に、学校に見学に来ていた。池には大きなコイが泳いでおり、近寄ると一斉に集まって来た。餌を撒くと勘違いしたのだろうか。ここには、昭和天皇など皇族も宿泊したことがある。地域の迎賓館的な役割もあったのだろう。また戦前は実際に授業で使われていたそうだ。
大正時代の初め、前橋・総社の地で、五重塔の基礎になる巨石が偶然見つかった。その巨石(塔心礎=とうしんそ)の発見以来、調査が繰り返され、金堂や講堂の跡、さらに仏像の破片など、3千点に及ぶ出土品が確認された。この地にかつて大寺院が存在したことが証明されたのだ。
日枝神社で発見されたことから、神社の守護神「山王権現」から山王廃寺と呼ばれる。しかし「放光寺」と書かれた瓦が発掘され、寺の名は放光寺であったと考えられている。主要伽藍が南北約110㍍、東西約80㍍にわたって配置されていたことが判明し、奈良の法隆寺並みの巨大寺院だったと推定されている。大きな鴟尾(しび=屋根の飾り<鯱鉾の原型>)も確認された。寺の建立は7世紀の飛鳥時代で、10世紀後半には廃寺になったとされる。
仏教が伝来してまだ間もない頃、都から遠く離れた東国の地に、すでに法隆寺と並ぶ豪壮な大寺院があったとは驚きである。周囲には風よけの木々で、塀のように家屋を囲んでいる家々が見られた。古くからの集落であることを感じさせる。畑が広がる静かな光景だが、ここは古代・群馬の中心地であった。率先して仏教に帰依した豪族が支配層にいて、寺院を建築したのだろうか。
それにしても何故、そんな大寺院が忽然と姿を消したのだろう。原因については戦乱や火災など諸説あるが不明である。10世紀には平将門の乱が起こっている(935年)。それまでの貴族という既成権威を否定した新興勢力・武士が勃興した時期である。貴族と結びついた支配層の象徴としての寺院は見捨てられ、顧みられなかったのかも知れない。あくまで私の想像ではあるが・・・。
日本の歴史は戦乱が絶えない。欲望や苦悩の渦に、寺院も巻き込まれたであろう。寺院の跡に立つ、小さな神社の祠が、私には権力者の長い興亡の繰り返しの果てに燃え尽きた、巨大寺院の鎮魂碑に見えた。
横浜が世界に扉を開いたのは1859年。以後、貿易港として発展した。戦前は日本の輸出品の半分が絹製品、その3分の1が群馬県産だった。両毛鉄道など鉄道網が整備されると、生糸や絹織物の東京方面への輸送に大いに貢献した。横浜港から輸出される絹製品は、当時の国家予算の3分の1に迫るほどだったという。
横浜の赤レンガ倉庫は、当時の様子を今に伝える貴重な建物である。群馬県から運ばれた絹製品はここに貯蔵された。現在は倉庫としての役割は終えたが、中に洒落たショップやカフェが多数入り、観光横浜のシンボルとなっている。様々なイベントも開かれる。この日はアニメか何かのコスプレ衣装に身を包んだ若者が大勢いた。女装した男性が異様に見える。中年世代の私には、何が楽しいのかさっぱり分からない。
日本を支える産業のさらなる発展を、という桐生市民の願いが叶い、織都・桐生に高等染色学校(現群馬大学工学部)が誕生したのは1916年だった。多くの市民も寄付をし、大きな期待を背負った学校だった。創立時の正門や講堂などが大学に保存されている。講堂内は長椅子が並び、高い天井にシャンデリアが下がる。まるでキリスト教の教会のようだ。厳粛な雰囲気の中で勉強していたであろう、当時の学生の姿が目に浮かぶ。
講堂入り口の脇にある銘板が気になった。よく見ると戦没学生の芳名録だった。太平洋戦争で戦死した学生の名前が並ぶ。学徒出陣により、学業半ばで戦場に散った先人達である。戦争の悲劇がここにもあった。青春を謳歌することもなく、志を断たれた秀才達の無念はいかばかりか。
県内には大小1万ほどの古墳があり、古墳王国と言われる。貴重な出土品も多く、太田で発掘された武人埴輪は国宝となっている。毛の国(群馬、栃木の古代名)に支配体制が形成されたのは4世紀頃と推定される。5世紀には東国随一の勢力を誇る大国となった。この頃から大規模な古墳が県内各地に造営された。県一帯は古代東日本の政治、文化において重要な地位を占めていた。
総社古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られた。JR群馬総社駅で降り、南東に5分ほどで民家に囲まれた総社二子山古墳が見える。6世紀の築造とされ、全長90㍍もある前方後円墳で、古墳群の中で最大を誇る。頂上にはこの墓の主、毛の国を支配した毛野氏の始祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の碑がある。しかし伝説上の人物ゆえ、ここが本当にその墓かどうかは分からない。
さらに南東の愛宕山古墳は、一辺が約56㍍の方墳で7世紀のものという。石室は見学出来る。石棺の埋葬者は誰かと古代へのロマンを掻き立てられる。記録の無い時代ゆえ想像するしかないが、早く全貌が明らかになればと思う。
総社小近くの宝塔山、蛇穴山古墳は古墳時代の終末期の方墳とされる。この頃になると大型の古墳は総社地域に限られてくる。大和王権の勢力がこの地域にも及んだ証拠で、総社地区の豪族が王権と結びつき、勢力を誇ったことを意味するという。これらは畿内の古墳や寺院と共通する先端技術で造られている。
1850年12月21日(旧暦)、1500人の人々が見守る中、国定忠治は大戸の刑場で磔にされた。この罪人が処刑されて安堵した者はいなかったに違いない。皆悲しみ、無念さを抱えていた。処刑された瞬間、大きな慟哭がその場を支配し、泣き崩れる姿があちこちに見られたことだろう。
反骨を貫いた博徒国定忠治は、沢山の映画や舞台になり、有名な俳優が演じ続ける国民的ヒーローである。二十歳で佐波郡周辺を縄張りとする賭博集団「国定一家」を旗揚げした。殺人、関所破りを犯し、お尋ね者になった。権力側からみると大悪人である。しかし天保の大飢饉の時に、私財を投げ打ち、日本中で餓死者があふれる中、人々を救った。また灌漑用の磯沼の浚渫を行い、農民救済に励んだ。
大戸の関所破りは、信州で殺された義弟の仇を討つためだった。関所は外観が一部復元されている。前に立って忠治の心中を想像した。「博徒である自分に関所越えの許可など下りるはずがない。関所破りは死刑だ。しかし義弟の仇を討たねば男が廃る。ならば世法より義理人情を取ろう」。だが心の葛藤はあったらしい。近くの松の下で、関所破りをするかどうか逡巡したという。
処刑場所には忠治地蔵が建てられている。今なお参拝する人がいるのだろう。線香の煙が立ち込めていた。私も隣接する店で線香を買い求め、供えて冥福を祈った。磔になるまで実に16年間も逃げ延びた。捕まったのは脳溢血で倒れ、療養中の時だった。緻密な捜査手法のない時代とはいえ、対立する博徒や遺恨を持つ人間は相当いたであろうに。
今は女性の間で歴史がブームで、歴史に詳しい女性を「歴女」というそうである。特に戦国武将は注目の的で、六文銭の旗を掲げた真田氏も中々の人気だそうだ。真田氏は信州上田の小豪族に過ぎなかったが、武田信玄についた幸隆の卓越した諜報戦で、信濃の猛将村上義清を攻略し、勢力を伸ばした。
信州という土地柄、ゲリラ戦が得意でスパイを駆使した。弱小軍団が巨大な敵に挑むための知恵から生まれた、こうした戦法が「真田の兵法」である。真田のスパイ群像は沢山の物語になった。私も子供の頃、猿飛佐助や霧隠才蔵など、真田十勇士に夢中だった。上田城址を訪れた時は雨だった。しかし忍者が空想を駆け巡り、心が躍った。
沼田城も真田ゆかりの城である。1532年頃、沼田顕泰(あきやす)が築城した。沼田は関東と信州、越後を結ぶ要衝で、上杉、武田、北条といった戦国大名により、激しい争奪戦が繰り広げられた。戦いを制したのは武田方、真田昌幸だった。沼田を征服すると、長男信幸が沼田城主となり城を整備した。1597年に五層の天守も完成した。
1681年、5代目真田信利は江戸・両国橋の架け替えを命じられたが、台風と重税に苦しむ領民の反発で材木の納入が遅れ、期日に間に合わなかった。それが幕府の逆鱗に触れ、領地没収、改易となった。翌年、城は天守もろとも壊された。名城と謳われただけに、今あれば群馬の象徴になっていただろう。
徳川家康は真田との戦いで、何度も屈辱にまみれた。上田城攻めでは、圧倒的な戦力を誇ったが、昌幸の智謀に敗れた。大阪冬の陣でも、幸村率いる真田軍の奇襲戦法に辛酸をなめた。真田の旗印、六文銭は三途の川の渡し賃である。決死の覚悟で敵に立ち向かった。劣勢でも知略を巡らし強敵を苦しめる。この痛快劇が人々の心を捉えるのだろう。公園となった沼田城址を歩き、石垣を見ながら真田の盛衰に思いをはせた。
沢渡温泉は昔から、草津の上がり湯として知られる。強酸性の草津温泉で荒れた肌を戻す、「なおし湯」「仕上げの湯」と言われる。熱くて肌に突き刺すような草津と違い、柔らかな透明な湯で、肌に優しいのでそう言われる。源頼朝、木曽義仲などがこの湯で疲れを癒したと伝えられている。
ここは若山牧水が来遊したことでも知られる。1922年10月、軽井沢から水上を目指した牧水は、花敷温泉に一泊し、沢渡温泉へ向かう。途中暮坂峠で「枯野の旅」を詠んだ。 「長かりしけふの山路 楽しかりしけふの山路」(一部を抜粋) 歩いて峠に差し掛かったのだろう。紅葉の盛んな頃である。景色の美しさに旅の疲れも忘れ、感動したに違いない。それを「楽しかりし」と表現したのだろうか。現在峠には、マントを羽織った牧水の像と歌の碑がある。
沢渡温泉を目指し、峠を下ると旧大岩学校の校舎に出逢う。明治から昭和にかけて小学校として使われた。記念館になった、県内の昔の学校を何件か見ているが、みな近代的で瀟洒な校舎だった。茅葺屋根は初めてだ。ここでも牧水は歌を残した。 「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて垣よりぞ見る」(同) 人が来ると珍しそうに覗きに集まる、人懐っこい子供の姿が浮かぶ。私が小学校の頃、学校にたまに人が訪ねてくると、みな見物に窓際に集まったものである。子供の好奇心のなせる業だろう。人と人との繋がりが濃かった時代の光景である。
沢渡温泉は十軒ほどの宿が立ち並ぶ静かな温泉である。時折、杖をついた高齢者とすれ違う。温泉治療で有名な病院があるので、そこの患者だろう。リハビリテーションに励んでいるのだろうか。私の母親は田舎で一人暮らしである。介護の心配が頭をよぎる。自分の老後も心配だ。今の日本は介護が大きな社会問題となっている。安心して老後を迎えられる国にして欲しい。新政権に切に願わずにはいられない。
安中原市の杉並木は江戸時代初期に、中山道を整備する際に植樹された。冬は風よけ、夏は日陰になるようにとの、地元の人々の心遣いである。かつては1㌔ほどもあり、旅人の憩いの場となっていた。しかし時代が下るにつれ、立ち枯れ、風雨による倒木などで減っていった。今では十数本ほどしか残っていない。
バイパスが出来、中山道は旧道となった。しかし車社会の群馬ゆえ、車がひっきりなしに行き来する。車を降り、並木を見上げた。相当な高さである。一番高いものは40㍍以上だという。400年の歳月とは小さなものではない。かつて杉並木としては、日本最大を誇っていた。現在は新たな植樹が進み、並木の様相は保っている。
このあたりは、安政遠足マラソンの見学スポットになっていて、並木横のタンクにもマラソンの絵が描かれていた。元々は安中藩主板倉勝明(かつあきら)が、家臣鍛錬のために始めた。勝明は先取の気性に溢れた殿様だった。西洋軍制を採用し軍隊の近代化を図った。種痘を先駆けて実施し、また漆産業を興して窮民救済に励んだ。さらに新島襄の天賦の才能を見出し、勉学の後押しをした。先見性に勝れた名君であった。
次の藩主板倉勝殷(かつまさ)も新島に期待し、箱館遊学の援助をした。 そして西洋に憧れていた新島のアメリカへの密航を黙認した。当時、密航は重罪に値した。 ましてや板倉氏は幕府直結の譜代大名である。どんな刑罰があるか分からない。しかし保身ではなく、混迷深める日本の将来を考えたのだ。
安中藩は石高わずか3万石、家臣団300人ほどの田舎の小藩にすぎなかった。城は取り壊されたが、武家屋敷などが一部復元され残っている。武家屋敷は茅葺の長屋で、裕福とは言えない藩士の質素な生活ぶりがうかがえる。貧しい小さな藩であったが、近代日本の礎となり、日本の発展に貢献した安中藩の功績は決して小さくはない。
8月は終戦の月。戦争を知る人が少なくなっているだけに、その記憶を留める努力が一層必要だろう。昔のことは美化されやすい。戦争の記憶も例外ではない。戦争を正当化する人々がいる。軍国主義者に尊敬の念すら抱く人もいる。そのような考えを許してはならない。憎しみと争いでは何も解決しない。それを人類の共通認識にしなければならない。
玉村町の玉村八幡宮にある国魂神社は、玉村小学校にあった奉安殿を移築したものである。奉安殿とは戦前の学校にあった、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた建物のこと。四大節(紀元節、天長節、新年、明治節)の式典の際に、職員生徒全員で御真影に最敬礼をし、教育勅語が奉読された。普段でも登下校時や前を通る時は、敬礼が要求された。
雨上がりの昼下がりに訪ねた八幡宮の境内では、様々なセミの声が交錯し、夏の到来を感じさせる。しかし今年は梅雨が長引いた地方が多い。しかも激しい雨が降る。連日報道される豪雨被害に心が痛む。眩しい太陽に照らされる、暑い夏が待ち遠しい。終戦の日も暑い日だったというが、どんな様子だったのだろうか。
戦後、GHQの神道指令(国家神道の廃止命令)により、多くの奉安殿は解体された。神社は今では戦争の記憶を留める貴重な遺産である。現在は戦没者慰霊の神社となっている。玉村小では友好の印として戦前、アメリカから全国の小学校に贈られた青い目の人形「ルースちゃん」も健在である。戦争中、人形の焼却命令が出たので、これは奇跡と言える。
縄文の昔から赤城山麓の広葉樹林帯には、狩猟採集民が住み、山は信仰の対象だった。 家から見える赤城山は、裾野が遥かに広がり、まさに大地の守り神のような感じがする。昔の人々が畏敬の念を、山に抱いたとしても不思議ではない。県内には赤城山信仰に由来する、赤城神社が多数ある。県内に118、全国には300以上もの赤城神社があるといわれる。 老神温泉にある赤城神社は、開湯物語に由来する大蛇祭りで知られる。赤城山の大蛇の神が、日光の神に射られた矢を、地面に刺すとお湯が湧いた。その湯で傷をいやし、日光のムカデの神を追い払い、戦争に勝利した。神を追い払ったので、追神と呼ばれ、大蛇の神が年を取ると老神になった-これが老神温泉の開湯物語である。祭りでは、住民手作りの100mにも及ぶ大蛇が街を練り歩く。赤城山の名は、神が流した血で山が赤く染まったことから、アカキから転じたといわれる。 神社は崖にへばりつくようにあるので、道路脇から急な階段を上る。参拝しにくいのではないかと思った。しかし神社内の説明板によると、元は片品川沿いの断崖にあったが、不便なので当地に移したのだという。元の環境を再現するためここに設置したのだろうか。 赤城山信仰は、元々は、山に自然の恵みを感謝する原始宗教だった。建物などの施設はなく、祈る時は臨時の祭場を作っていたという。大和朝廷の支配が関東に及ぶと、赤城山信仰は神道と結びつき、結合の広がりとともに神社は増えていった。 江戸時代には、徳川家康の合祀により、各地の大名の信仰を集める。幕府庇護のもと、各地に分社が勧奨され、信仰は県外にも広がった。山は上州の風土形成にも寄与している。赤城おろしと呼ばれる空っ風は、群馬の代名詞となっている。しかし近年は弱くなったそうだ。もう一つの上州名物、かかあ天下のほうは、ますます盛んだと聞く。
「いざ鎌倉」。鎌倉時代の御家人が、幕府の一大事には、何をおいてもまっしぐらに駆けつける覚悟と忠義を表した言葉だ。観阿弥作の、能の傑作「鉢木(はちのき)」から生まれたと言われる。物語の舞台は、高崎の佐野とされている。 話は次のようなものである=一族の者に領地を奪われ、零落した佐野源左衛門常世は、大雪の日、旅の僧に一夜の宿を頼まれる。薪もないことから、大切にしていた梅、桜、松の盆栽を薪代わりにしてもてなす。「自分は落ちぶれているが、鎌倉武士である。いざ鎌倉の時は、真っ先に駆けつける」と僧に言う。しばらくして、時の最高権力者・最明寺入道(北条時頼)から召集がかかる。常世はみすぼらしい姿ながら一番に駆けつけた。拝謁したのは、あの旅の僧であった。時頼は僧の姿で諸国を巡っていたのだ。時頼はいたく感動し、奪われた領地を返し、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田と梅、桜、松にちなんだ領地を与えた。 常世の居宅があったと伝えられる上佐野町の常世神社を訪ねた。住宅街の小さな神社である。境内に、覆扉に保護された常世の絵が飾られていた。盆栽の木を切る姿が描かれている。太い眉で武士らしい面構えだった。この絵とそんなに違わない顔だったのではと想像する。墓は栃木県佐野市あると説明板にあった。 常世が疾走したと思われる鎌倉街道は、高崎からは、藤岡を経て、所沢、藤沢を通り鎌倉に入る。必死の思いで馬を走らせ、駆けつけたに違いない。鎌倉街道とは、関東各地から鎌倉へ通じる道のことである。城南大橋の下に、鎌倉街道記念碑がある。 鎌倉時代には、蒙古が襲来し、内乱もあった。国情不安の中、この街道を決死の覚悟の武士たちが、頻繁に行きかったに違いない。しかし新田義貞の挙兵の際は、鎌倉攻略の進路となった。幕府守備のための道が、幕府攻撃の道になったのだから、歴史とは皮肉なものである。
みなかみ町は2005年、水上町、月夜野町、新治村の3町村が合併して誕生した県内で一番広い町である。温泉の数も多く、まちづくり協会のサイトによると、水上、猿ヶ京、谷川、法師など18湯もある。いずれも県を代表する温泉だ。 与謝野鉄幹、西条八十など、多くの歌人もこの町を訪れている。町の中には歌人の歌碑が点在し、その思いに触れることが出来る。諏訪峡遊歩道にある笹笛橋の袂には、情熱の歌人与謝野晶子の歌碑がある。 「岩の群おごれど阻むちからなし 矢を射つつ行く若き利根川」 笹笛橋から利根川上流を望むと、雪の残る谷川岳を背景に、利根川が太陽に照らされ、川の碧色が輝いて見えた。激流が岩とぶつかるたび、白い水しぶきが上がる。利根川はまさに岩に矢を射て、突き進む若武者だった。 利根川は、新潟、群馬の県境にそびえる大水上山に源流があり、渡良瀬川、吾妻川、烏川など県内のほとんどの河川が合流し、関東平野を巡る約322㌔の大河である。日本の三大暴れ川の一つに数えられ、「坂東(関東)にある長男格の川」という意味で、坂東太郎と呼ばれる。ちなみに後の二つは、筑後川(筑紫次郎)、吉野川(四国三郎)である。 県内の田畑を潤す「母なる川」利根川だが、度重なる氾濫のため、その治水は昔から重要課題だった。特に1947年のカスリーン台風では、大洪水のため関東に大被害をもたらした。以後、支流を含め大規模なダム建設が行われ、現在では、首都圏の水と電力の需要を支える、文字通りの大動脈となっている。 みなかみ町は、今(ゴールデンウィーク)が春真っ盛り。利根川沿いの八重桜が咲き誇り、鮮やかなピンク色が眩しい。若者がボートで川下りを楽しんでいた。与謝野晶子は度々この町に来ている。利根川の流れに、岩をも砕く力強さと、大地を育む母の慈悲を見て、それに我が身を重ねたからかも知れない。
桐生のノコギリ屋根の織物工場は、明治から昭和中期までに数多く建てられた。この屋根は19世紀、英国の紡績工場で採用されだしたと言われる。北側の天窓から差す柔かい光が作業に適し、機械の騒音を拡散出来るので、織物業には好都合だった。現在でも、市内には260棟ほどが残っているという。 旧金谷レースのノコギリ屋根の建物は、現存する唯一のレンガ造りのものである。1919年に建設された。当初は8連の屋根だったが、北側に新工場を造ったので、4連になっている。今はベーカリーになっており、音楽を聞きながら作りたてのパンが食べられる。天井が高く、天窓から光が優しく差しこみ、ゆったりした時間を過ごせる空間になっている。 時折観光客も来るのだろう。建物を写真に収める人の姿も見られた。リンゴ入りのパンとコーヒーを頼んだ。美味しそうな香りに食欲をそそられた。ふわっとした食感と、ほのかな甘さがいい。読書をしている人がいた。市民の憩いの場として定着しているのだろう。 桐生は古代から織物業が盛んだった。奈良時代には、絹が朝廷に献上されていた。応仁の乱の影響で一時衰退するが、江戸時代に復活する。技術革新を怠らず、常に日本の最先端を行き、京の西陣と並び称された。昭和40年代に入ると、建築技術や電機設備の進歩で、ノコギリ屋根の工場は減少していく。屋根の谷間で、雨漏りが生じやすかったのも原因らしい。織物産業が衰退した今は、アトリエ、資料館、幼稚園など様々な用途に利用されている。 桐生天満宮から本町通りを下った。古い建物があちこちに残り、桐生らしさを醸し出している。シャッターの下りている店舗が目立つのが寂しい。途中、外国人の小学生と出会った。間もなくすると、お母さんが車で迎えに来た。嬉しそうに車に乗り込み帰って行った。この笑顔を消さないようにするのが、日本人の責任ではないかと感じた。
上信電鉄は1897年、上野鉄道として、高崎~上州福島間に開通した。繭や生糸を運搬するために敷設された私鉄である。そのため、株主563人中327人が養蚕農家だったという。同年に下仁田まで延伸し、中小坂鉄山の鉄なども運搬された。1921年には上信電気鉄道となった。上野国(群馬)と信濃国(長野)を結ぶ構想で名付けられたが、結局実現していない。 自動車の普及と過疎のため乗客が減り、今日本中のローカル線は経営が苦しい。上信も例外ではない。私の田舎では、鉄道がどんどん合理化・縮小され、ローカル線はほとんどなくなってしまった。そのためか過疎が一層進み、地域は寂れる一方である。そうならないように切に願う。 高崎から下仁田まで1時間余り。進むにつれ、遠くに見えていた山々がだんだん近づき、終点近くなると間近に望めるようになる。下仁田駅前には、上野鉄道時代の倉庫が残っている。赤煉瓦の倉庫が一般住宅と並んでいた。囲むように木造倉庫があり、古びた看板が掛かっていた。人の匂いが残っている。駅構内には貨物車両や古い客車もあったが、もう使われていないのだろう。錆びついていた。「老兵は消え去るのみ」か。 下仁田はネギで有名である。我が家の鍋料理に下仁田ネギは必需品である。私が海の町の出なので、シャケ、タラ、ホタテなど海産物は欠かせない。甘味のあるネギが潤滑油となり、海の幸の味わい深さを引き立てる。また私が行きつけの、東京の仏料理レストランでは、食材にこだわりを持つシェフが、下仁田ネギで特製スープを作る。 下り電車が千平駅を出て間もなくすると、右側に小さな橋が見える。鬼ケ沢橋梁と言い、昔の線路の名残だ。鉄道が電化される際、当時の施設はほとんどが消えたそうだが、これは約110年前の創建時の姿で残っているそうだ。町の重要文化財にも指定されているので、注意して見ていただきたい。
1945年9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリで、降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵(まもる)全権、連合国側はマッカーサー元帥が調印し、日本は新たな道を歩むことになった。アメリカでは、この日を終戦の日としている。ミズーリは現在、真珠湾に係留されており、一般に開放されている。巨大な大砲を何門も擁し、アメリカの力を誇示しているようだった。ミズーリは湾岸戦争に出撃した後、退役している。 戦後、中島飛行機の技術者達は、リヤカー、乳母車などを作り、糊口をしのいでいた。しかし中島飛行機が富士重工として再出発すると、技術者達は輝きを取り戻す。ラビットスクーターのヒットがあり、会社も復活の道を歩み始めた。1958年には、日本を代表する国民車「スバル360」を生み出し、モータリゼーション時代の幕を開けた。この車は戦後復興の象徴となった。それまで高嶺の花だったマイカーが、庶民の手の届くものになった。昭和の人々に夢を与え、車社会の到来を実感させた。 太田市郊外の利根川近くに、中島邸が残っている。少年の頃家出した知久平が、出世した後、両親のために建てたものだという。くすんだ肌色の壁が広い敷地を囲んでいる。中は木々が茂っていて見えない。他にも中島飛行機ゆかりのものはないかと探したが、見つからなかった。 高崎市の群馬の森にある、歴史博物館にスバル360が展示されている。なだらかな曲線の白い車体に、かつて世界一の飛行機を造った、最高の技術が凝縮されている。飛行機と同じ情熱を、技術者達はこの小型車に注いだ。今度はこの小さな車に、日本人の希望を乗せようとしたのだ。
常夏の島、ハワイは11月下旬でも暑い。照りつける太陽の下、様々な人種の人々が行き交う。日本人が多い。毎日3千人の日本人観光客が押し寄せるそうだ。真珠湾を訪れた日は、澄み切った青空が広がっていた。自然と心が弾む。ここは昔、真珠の養殖をしていたのでそう呼ばれる。 真珠湾に浮かぶアリゾナ記念館は、真珠湾攻撃で撃沈された、戦艦アリゾナの上に造られた「鎮魂碑」である。白い長方形の建物の中には慰霊堂があり、銘板に犠牲者の名前が書かれていた。その数1177人。前でじっとたたずむ車いすの老人がいた。友の慰霊に訪れた元兵士だろうか。70年近くたった今も傷は残る。海底に眠るアリゾナからは、油がわずかずつ漏れ、今も浮かんでくるという。犠牲者の涙と、アメリカ人は言うそうだ。 南部忠一中将率いる、ゼロ戦部隊約350機が、奇襲をかけたのは1941年12月7日(アメリカ時間)。容赦ない攻撃が真珠湾を襲った。兵士はなすすべもなく逃げ惑う。抵抗もかなわず、多数の兵士が海の藻屑と化した。日本軍はアリゾナ、オクラホマなど、21隻の軍艦を撃沈。2390人の米兵が死んだ。 奇襲部隊の主力である中島飛行機のゼロ戦は、大空に夢を懸けた中島知久平の下に集った、若き技術者の苦闘の結晶だった。1917年、従業員9人で、尾島(現太田市)の養蚕小屋から出発した、研究所がその原点である。技術者達は、大空に羽ばたく夢を持ち研究を重ねた。失敗ばかりで、「お米は上がる。なんでもあがる。あがらないぞい中島飛行機」と揶揄された。世界一の飛行機を造るという、執念と夢だけが彼らを支えた。
白井宿は、元は石高2万石の白井藩白井城の城下町だった。しかし本多紀貞が城主の時、跡継ぎがないまま死去すると、1624年に白井城は廃城となった。その後白井宿は、渋川、沼田や前橋などを結ぶ交通の要衝という地の利を生かし、市場町として栄えた。 当時開かれた市は、「六斎市」と呼ばれた。麻、繭、材木、米、麦など上州の特産物を商い、かなりの賑わいだったという。しかし幕末、明治と3度の大火に見舞われ、町並みは失われた。当時、立ち並んでいた土蔵造りの家は、現在ではわずか2軒にすぎない。 集落を貫く道の中央を、水路(白井堰)が通っている。江戸時代に、雨水の排水溝として造られたものだという。現在は堰の両脇に桜の木が植えられ、桜の名所の一つになっている。20分もあれば歩き切ってしまう小さな町並みだが、古代から歴史を刻む。昔の群馬郡の郡庁があり、伊勢神宮の御厨(みくりや)地でもあった。町の外れに、高いキンモクセイの木があった。無数の橙色の花をつけ、強い香りを放っていた。町の変遷を、一番よく知っているに違いない。 白井は昔から紀行文などに登場している。室町時代の僧・歌人尭恵(ぎょうえ)、万里集九(ばんりしゅうく)などが町の様子を書いている。集九は「梅花無尽蔵」の中で、白井を「京洛のごとし」と書いた。多くの文人墨客が、ここに魅かれ、旅人として訪れた。しかし明治になり、国道17号が開通すると、しだいに寂れていった。 白井宿を見学した後、隣接する「道の駅こもち」に立ち寄った。お城風の建物が印象的だ。広場では、ドライブ中の若いカップル、家族連れなど様々な人達が休んでいた。大変な人出である。物産館に入ったが、身動きが取れないほどだ。人ごみが苦手な私は少し戸惑った。往時の白井宿の市も、このような賑わいだったのだろうか。瓢箪の置物が目に付いた。民芸品だろうか。面白そうなので、買い求め、家路に就いた。
藤岡市の浄法寺は、奈良時代初期の創建である。奈良の唐招提寺を開いた中国の高僧鑑真の弟子、道忠が建立したと言われる。平安時代になると、比叡山延暦寺の開祖、伝教大師最澄の発願によって相輪塔(仏塔)が建立され、関東地方の天台宗布教の拠点となった。室町時代には、関東管領を務めた上杉氏の帰依もあり、東国の中心寺院として栄えた。 藤岡の市街から十国峠街道を南に下り、旧鬼石地区に入ると間もなく寺院が見える。大きくはないが威厳を感じさせる寺である。山門上の看板に「緑野教寺」とあった。この名は平安時代に嵯峨天皇の庇護を受け、緑野郡を与えられたことに由来する。当時は在地地主や武士団に対抗し、多数の僧兵(武装した僧侶)を抱え、相当な勢力を誇っていた。 境内には、伝教大師像が立っていた。見上げるような大きさだった。本堂の前に、「一隅を照らす」と刻まれた碑があった。これは最澄の言葉である。一生懸命自分がなすべきことをなし、人々や社会に貢献する生き方のことである。地道に精進することの大切さを教えているのだろう。現代にも無数の「一隅を照らす人」がいる。こうした人々の、見えない日々の苦闘により、我々の生活は支えられている。 戦国時代、関東の有力豪族北条氏と上杉氏との戦いで、浄法寺は上杉氏についた。1552年、北条氏の焼き討ちに遭い、寺は焼失、領地は没収された。しかし当時の住職舜祐らの努力により、1556年に再興される。その後、徳川家康から領地も与えられた。 伝教大師が相輪塔を建てたのは、全国でわずか6カ所。建立者が鑑真の直弟子であることから、当時は相当位の高い寺院だったのかも知れない。地方の小さな寺院の、意外な波乱万丈の歴史を知り、驚いた。宗教の歴史は、権力との関係を抜きにしては語れない。浄法寺のたどった歩みも、権力に翻弄された宗教の歴史と言えるかも知れない。
太古から噴火を繰り返す浅間山。その爆発の凄まじさを、まざまざと見せつけるのが鬼押出しである。無造作に転がっている奇岩群は、1783年の天明の大噴火の際に、吐き出された溶岩が固まったもの。幅3㌔、長さ12㌔に及ぶ。爆発の恐ろしさを、当時の人々が「火口で鬼が暴れ、岩を押し出した」と表現したのが名の由来という。 観光バスに長野・軽井沢駅から乗り、鬼押出し周辺を巡った。別荘地らしく、白樺の木々が茂る中をバスは走った。こんな静かな環境に、別荘を持てる人が羨ましい。嬬恋村に入ると、キャベツ畑も広がった。鬼押出しに着き散策した。岩の塊は、日本が火山列島であることを認識させる。黒い岩のザラザラした感触に、地球の怒りを感じた。今は周りに草木が茂り、怒りは隠されている。しかしいつまた怒り出すか誰も分からない。 溶岩流は北側斜面を走り鎌原村を襲った。多くの村人が呑まれた。477人もが犠牲となった。高台の観音堂にたどり着き、助かったのは僅か93人。そばの売店に堂の石段下から発掘された、2人の女性犠牲者の顔の復元写真があった。無念さを思う。地元の人が観光客に茶を振舞っていた。悲劇を風化させないよう、観音堂を守っている人々だという。 大火砕流の凄まじい流れは、吾妻川に達し、利根川に流れ込んだ。泥流にまみれ、焼けただれた多くの死体、家屋の残骸などが、川一面を覆い尽くした。被害は周辺の55の村に及び、死者は1600人余りに達したという。 現在、観音堂の石段は15段。しかし1979年の発掘調査では、全部で50段だった。溶岩で約7㍍が埋まっている。堂の境内は驚くほど狭い。しかし悲しみを乗り越え、長い復興の歴史はここから始まった。被災前の人口に戻ったのは大正時代だという。「天災は忘れた頃にやって来る」(寺田寅彦)。悲劇を決して忘れてはならない。
多胡碑は711年に、上野国(かみつけのくに)に、14番目の郡である「多胡郡」を設置することを記念した碑である。片岡郡(高崎・榛名・安中)、緑野(みどの)郡(藤岡・鬼石・新町)、甘良郡(富岡・甘楽・吉井)の3郡から、6郷(集落)の300戸を分割し、それを多胡郡とした。戸とは家ではなく、一族のこと。1戸当たり20人位とされるので、人口約6千人の新しい郡が誕生したことになる。 少し赤みかかった石に刻まれた漢字は損傷も少なく、1300年前のものとは思えない。書かれている人名に注目した。「右太臣正二位藤原尊(みこと)」とは、藤原不比等のこと。大化の改新の立役者の中臣(藤原)鎌足の子で、平安時代に全盛を誇った藤原氏の実質的な祖である。その人物が多胡郡設置の責任者として、碑に名を残す。 710年に平城京が出来、大和政権は新体制になった。地方の支配体制も改正しようという動きはあっただろう。さらに当時、朝鮮半島は戦火に覆われ、大陸から多数の人々が日本に逃れて来た。西毛地域には、特に多く移住し、人口は増加した。これらが分割の要因だろうか。多胡とは「胡人(西方の人)が多い」という意味。多胡郡とは、外国人が多い郡ということ。しかし多胡の意味については、他にも諸説あるという。 碑を見学した後、近くの物産センターに立ち寄った。桃、キュウリ、スイカなど地元産の作物がたくさん並んでいた。実りの恵みに感謝した。夏の太陽が照りつける。今年も暑い。地球温暖化の影響が世界中に出ている。局地豪雨や大型台風も最近多い。異常気象は温暖化の影響とも言われる。これからも無事に、実りの恵みの恩恵にあずかれるのだろうか。ちなみに、多胡郡は1896年、緑野郡・南甘楽郡と合併して、多野郡となった。
足尾銅山からの物資輸送のため、敷設されたのが足尾鉄道である。銅山は閉山したが、現在は「わたらせ渓谷鉄道」に生まれ変わり、渡良瀬渓谷の観光や周辺住民の貴重な足となっている。渡良瀬川沿いに走っているので、渓谷の景観を楽しむのには絶好の路線である。列車から見る川はゆっくり流れ、優しささえ感じさせる。 花輪駅そばに、廃校になった花輪小学校が記念館として保存されている。木造校舎で、自分が学んだ学校のような錯覚を覚えた。誰でもが懐かしさを感じ、同じ感覚を持つだろう。教室には教科書や学用品が展示されていた。使い古された教材に名前が書いてあった。この人は、どんな大人になっているだろう、などと考えた。 「うさぎとかめ」「金太郎」「花咲じじい」など、誰でもが口ずさんだ童謡を数多く作詞し、「童謡の父」と言われる石原和三郎は、勢多郡東村(現みどり市)に生まれ、この小学校を卒業した。教員になってからは、母校の校長も経験している。児童を叱るとき、石原先生は涙を流した。その涙に心から改心した人も多い。 明治の初め頃は、子供向けの歌が少なかった。子供のためには、子供と同じ目線で歌える歌が必要と、童謡の作詞を始めた。56年の生涯で、作詞した童謡は100曲以上に及ぶ。「上野唱歌」(1900年に作詞)は「晴れたる空に舞う鶴の」で始まる。群馬を「舞う鶴」に譬えたのは和三郎だと言われる。 高崎の佐野小など、県内小学校の校歌も作った。作詞を頼まれれば快く応じた。消防団や会社の歌も作った。しかし軍歌は作らなかった。子供を戦争の犠牲にしてはならないとの思いからだ。日清、日露戦争に勝ち、富国強兵を推し進めた時代に、戦争の愚かさを見抜いていた。花輪駅の駅舎にツバメの巣があった。ヒナが2羽いた。私の目の前を、餌を探しに行く親鳥が凄い速さで横切った。子育てに命を懸ける姿が、和三郎とだぶった。
萩原朔太郎が散策した広瀬川沿いを歩いてみた。朔太郎の他に、伊藤信吉、東宮七男など前橋にゆかりのある詩人の詩碑が並ぶ。深緑色の川は意外に深そうで、静かな流れだった。 「広瀬川白く流れたり 時さればみな幻想は消えゆかん」(広瀬川) 落第を繰り返し、大学受験にも失敗した。人々の白眼視に耐えられず、故郷は息苦しい場所だった。しかし時が経てば、自分も周囲の存在もなくなる。所詮人生など泡沫(うたかた)のようなものと、広瀬川べりを歩いて思ったのだろうか。鬱屈した青春時代だった。 「野に新しき停車場は建てられたり 便所の扉風にふかれ ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや」(新前橋駅) 新前橋駅が出来たのは1921年。現在は大きな三角屋根の近代的な駅だ。朔太郎が「荒寥たる田舎の小駅」と詠んだ面影はどこにもない。駅の西側に通じる高架橋の上から周囲を眺めた。沢山の線路が駅構内を走る。四方の町並みはどこまでも続く。周囲に「野」などない。しかし遠くに見える山並みは当時と変わらないに違いない。 朔太郎は40歳で上京した。故郷を嫌悪していたというが、「郷土望景詩」など故郷を詠んだ詩は多い。誰でも古里は忘れがたいものなのだ。 「火焔(ほのお)は平野を明るくせり まだ上州の山は見えずや」(帰郷) 蒸気機関車が古里に近づき、はやる気持ちを故郷の山に託して詠った。山は心を癒す故郷の思い出の象徴である。私も都会の駅から十数時間も夜汽車に揺られ、明け方、古里の潮風の匂いを感じると、同じ思いを味わったものである。
小泉城は群雄割拠の戦国時代に、織田や武田、上杉といった強大な戦国大名に翻弄されながらも、したたかに生き抜いた武将・富岡氏の居城であった。1440年、室町幕府と、幕府に反旗を翻した結城持朝などの関東豪族が争った結城合戦で、関東勢は敗れた。持朝の子持光は、甘楽郡富岡に逃れ、富岡直光と名乗った。その後直光は、古河・足利氏に仕え、邑楽の地を与えられる。1489年、この地に小泉城を構え、初代城主となった。 現在は城址公園として整備されているが、建物は残っていない。お堀は護岸工事がなされ、石垣が見られないのが寂しい。本丸があった所は、芝を敷き詰めた広場になっており、わずかに城の名残を留める。土塁は遊歩道として利用され、訪れた日も、地元の人が散歩を楽しんでいた。ベンチに座りお昼を食べた。やや離れた所で、小さな子を囲み、やはりお昼を食べている親子の姿があった。楽しそうな会話が聞こえた。おどけた仕草の子供が可愛い。公園の隣には中学校があり、溌剌とした生徒の姿に元気をもらった。 富岡氏が、戦国大名などから受け取ったといわれる書状が27通確認されている。差出人は上杉謙信、滝川一益、浅野長政など。大きな勢力の覇権争い下で、懸命に命脈を保ち、地歩を築いていく地方領主の逞しさを想像する。富岡氏の主君は、足利-上杉-武田-織田-北条と替わっていった。強大な勢力の間を巧みに泳ぎ、富岡氏は6代約100年にわたってしぶとく続いた。 豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に従っていた富岡氏は、前田利家、浅野長政らに攻撃される。1590年、小泉城は落城し、ついに富岡氏は滅ぶ。それが7月7日だったことから、この付近では、明治初期まで七夕の飾り付けをしなかったという話が伝わる。なお江戸時代の小説、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、結城合戦で、関東軍として結城氏と共に戦い、敗れた里見義実の子伏姫と、里見家のために戦う八剣士の物語である。
草津温泉の片隅にある頌徳公園に、ハンセン病患者の救済に生涯を捧げたコンウォール・リーの胸像がある。設置されたのは昨年の10月。生誕150年と来日100年を記念してのことだ。彼女は博愛の精神のままに生き、今なお尊敬を集める宗教者である。リーは伝道で日本を訪れた。布教活動の中で、草津の患者たちの悲惨さを聞き、救済を決意する。 1916年、59歳で草津に移住した。私財を投じてバルナバ教会を設立し、そこを拠点に活動した。「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味である。教会の中には椅子が30脚ほどあり、壁には、十字架に架けられるキリストの様子を描いた絵が掛かる。正面右側に、帽子を被り少しはにかんだリーの写真が飾られている。患者の幸福をここで懸命に祈ったに違いない。板で囲われた石油ストーブからは、冬の寒さと人々の温もりが想像される。 無知と偏見から、患者は一般の住民からは隔離された。ハンセン病に罹患することは、夢も希望も失い、生き地獄に身を沈めることだった。絶望ゆえの、自暴自棄と退廃が患者を支配していた。彼女は人間の尊厳と命の尊さを説いていった。谷間に投げ捨てられることさえあった患者の遺体を、自ら湯灌し丁寧に埋葬した。学校や病院も作った。彼女は粗末な身なりをし、ゴム長でどこへでも出かけた。「私は電灯の発明よりゴム長の発明を嬉しく思います」と言ったというエピソードが伝わっている。患者から「草津のかあさま」と慕われた彼女だったが、年齢による衰えから、1935年、草津を離れる。それから6年後に、兵庫・明石の地で気高く偉大な一生を終えた。 頌徳公園はリーが草津町に寄贈したものだという。今は児童公園になっている。木々に囲まれ、ブランコや滑り台そしてベンチがあり、懐かしい感じのする公園だ。そこで遊ぶ子供たちをリーの像が見守っている。人間の尊厳を、その生き様で我々に示した「マザー・リー」。マザー・リーの広大無比な慈悲の精神は、決して色あせることはない。
茂林寺へ行くと、山門前の両脇に整列する沢山の狸像が迎えてくれる。とぼけた顔が並んでいる。殆どは直立不動の姿勢だが、中には酔いつぶれ、酒瓶を持っているような行儀の悪いのもいる。まるで漫画の中にいるようだ。境内は墓参りの人が数人いるだけで、森閑としていた。喧騒の中で生活しているものには、この静寂さがありがたい。 名物のうどんを食べようと思い、近くの食堂に入る。鯰の天麩羅付きのうどん料理を頼んだ。鯰など食べたことがないので、興味を持ったからだ。まっ白なうどんが旨いのは言うまでもないが、鯰も癖がなく淡白な味で食べやすい。白身魚と変わらない味だ。醤油を付けて食べた。天麩羅のさくさくした感触が良い。店内に流れる館林うどんのビデオの中で、鯰料理も紹介されていた。新たな名物として、売り出しに力を入れているのだろうか。 東武鉄道・茂林寺前駅の西側に、関東学園分福競技場がある。ここはかつて分福球場といい、草創期の巨人軍が練習したグラウンドだ。1936年、アメリカ遠征帰りの巨人軍は、オープン戦で意外な不成績に終わる。これでは日本初のプロ野球リーグ戦での優勝は難しい。日本の先達として、絶対に優勝を逃すわけにはいかない。追い詰められた巨人軍は、藤本定義監督以下、分福球場で同年9月に「地獄のキャンプ」を張る。 千本ノックの嵐が毎日吹き荒れ、選手を鍛えた。ここから日本初の三冠王中島治康、名手白石勝巳(後の広島カープ監督)らが巣立った。秋にリーグ戦がスタート。勝ち進んだ巨人軍は、宿敵阪神との最終決戦に勝利し、初代王者に輝く。 野球シーズンが始まり、胸の高鳴る季節になった。新球団ダイヤモンドペガサスも始動し、活躍が楽しみだ。私にとって野球は父の思い出に繋がる。野球に触れるたび、亡き父とキャッチボールをした遠い幼い日々を思い出すからだ。しかし最近はチャッチボールをしている親子の姿を見かけることはない。
上州特産の絹織物業は18世紀になると飛躍的に発展する。それに伴って江戸や上方(京都・大阪)方面との交易が盛んになる。人々の往来も活発になり、先進文化が流入した。儒教や和算(日本式の数学)などの学問も広がり始めた。上州諸藩でも教育の重要性が認識され、各地に学校が作られるようになる。名高いものとしては、伊勢崎藩の宮崎有成・有敬親子らが中心になって設立した「五惇堂」がある。郷学(庶民の教育機関)としては群馬で最初のものと言われる。 記念碑を訪れた日、最寄の剛志駅(東武伊勢崎線)ではブラジル人らしき人が、携帯電話で大声で話をしていた。群馬県の工業地帯は、日系ブラジル人など外国人が多く働く。かつて人手不足のときに、大量に外国人労働者を受け入れていた。しかし不況になると外国人から首を切る。慣れない地で身を粉にして働き、日本の産業を支える外国人の就労環境の整備は遅れる。そうした現実に目を向けず、異国の友を蔑む風潮が日本にはある。 五惇堂では、論語、四書五経といった儒教が中心に教えられた。授業料はただで、希望者は誰でも入学出来た。農繁期は休み、農閑期に授業は行われた。教授陣は新進気鋭の学者が集った。宮崎有敬は群馬県議会の初代議長となっている。現在、学校跡の周辺は麦や白菜の畑になっている。鳥の鳴き声が響き、のどかな風景が広がる。軽自動車で颯爽と農道を行く高齢の女性とすれ違う。お年寄りが元気なのが嬉しい。 「学は光なり」である。無知は最大の不幸である。人間は学ぶことで人間に成長出来るのだと思う。碑の説明板に有成の言葉として、「舜(しゅん=中国古代の伝説上の皇帝)は、けん畝(けんぽ)の中に生まれ、孔子は陋巷に出ずと聞けり」とある。ここから舜や孔子に並ぶ偉人を出そうという思いを込めたのだろうか。壮大なロマンを掲げた学び舎は、1872年、明治政府により学制が公布されるまで続いた。