太古から噴火を繰り返す浅間山。その爆発の凄まじさを、まざまざと見せつけるのが鬼押出しである。無造作に転がっている奇岩群は、1783年の天明の大噴火の際に、吐き出された溶岩が固まったもの。幅3`、長さ12`に及ぶ。爆発の恐ろしさを、当時の人々が「火口で鬼が暴れ、岩を押し出した」と表現したのが名の由来という。 観光バスに長野・軽井沢駅から乗り、鬼押出し周辺を巡った。別荘地らしく、白樺の木々が茂る中をバスは走った。こんな静かな環境に、別荘を持てる人が羨ましい。嬬恋村に入ると、キャベツ畑も広がった。鬼押出しに着き散策した。岩の塊は、日本が火山列島であることを認識させる。黒い岩のザラザラした感触に、地球の怒りを感じた。今は周りに草木が茂り、怒りは隠されている。しかしいつまた怒り出すか誰も分からない。 溶岩流は北側斜面を走り鎌原村を襲った。多くの村人が呑まれた。477人もが犠牲となった。高台の観音堂にたどり着き、助かったのは僅か93人。そばの売店に堂の石段下から発掘された、2人の女性犠牲者の顔の復元写真があった。無念さを思う。地元の人が観光客に茶を振舞っていた。悲劇を風化させないよう、観音堂を守っている人々だという。 大火砕流の凄まじい流れは、吾妻川に達し、利根川に流れ込んだ。泥流にまみれ、焼けただれた多くの死体、家屋の残骸などが、川一面を覆い尽くした。被害は周辺の55の村に及び、死者は1600人余りに達したという。 現在、観音堂の石段は15段。しかし1979年の発掘調査では、全部で50段だった。溶岩で約7bが埋まっている。堂の境内は驚くほど狭い。しかし悲しみを乗り越え、長い復興の歴史はここから始まった。被災前の人口に戻ったのは大正時代だという。「天災は忘れた頃にやって来る」(寺田寅彦)。悲劇を決して忘れてはならない。
多胡碑は711年に、上野国(かみつけのくに)に、14番目の郡である「多胡郡」を設置することを記念した碑である。片岡郡(高崎・榛名・安中)、緑野(みどの)郡(藤岡・鬼石・新町)、甘良郡(富岡・甘楽・吉井)の3郡から、6郷(集落)の300戸を分割し、それを多胡郡とした。戸とは家ではなく、一族のこと。1戸当たり20人位とされるので、人口約6千人の新しい郡が誕生したことになる。 少し赤みかかった石に刻まれた漢字は損傷も少なく、1300年前のものとは思えない。書かれている人名に注目した。「右太臣正二位藤原尊(みこと)」とは、藤原不比等のこと。大化の改新の立役者の中臣(藤原)鎌足の子で、平安時代に全盛を誇った藤原氏の実質的な祖である。その人物が多胡郡設置の責任者として、碑に名を残す。 710年に平城京が出来、大和政権は新体制になった。地方の支配体制も改正しようという動きはあっただろう。さらに当時、朝鮮半島は戦火に覆われ、大陸から多数の人々が日本に逃れて来た。西毛地域には、特に多く移住し、人口は増加した。これらが分割の要因だろうか。多胡とは「胡人(西方の人)が多い」という意味。多胡郡とは、外国人が多い郡ということ。しかし多胡の意味については、他にも諸説あるという。 碑を見学した後、近くの物産センターに立ち寄った。桃、キュウリ、スイカなど地元産の作物がたくさん並んでいた。実りの恵みに感謝した。夏の太陽が照りつける。今年も暑い。地球温暖化の影響が世界中に出ている。局地豪雨や大型台風も最近多い。異常気象は温暖化の影響とも言われる。これからも無事に、実りの恵みの恩恵にあずかれるのだろうか。ちなみに、多胡郡は1896年、緑野郡・南甘楽郡と合併して、多野郡となった。
足尾銅山からの物資輸送のため、敷設されたのが足尾鉄道である。銅山は閉山したが、現在は「わたらせ渓谷鉄道」に生まれ変わり、渡良瀬渓谷の観光や周辺住民の貴重な足となっている。渡良瀬川沿いに走っているので、渓谷の景観を楽しむのには絶好の路線である。列車から見る川はゆっくり流れ、優しささえ感じさせる。 花輪駅そばに、廃校になった花輪小学校が記念館として保存されている。木造校舎で、自分が学んだ学校のような錯覚を覚えた。誰でもが懐かしさを感じ、同じ感覚を持つだろう。教室には教科書や学用品が展示されていた。使い古された教材に名前が書いてあった。この人は、どんな大人になっているだろう、などと考えた。 「うさぎとかめ」「金太郎」「花咲じじい」など、誰でもが口ずさんだ童謡を数多く作詞し、「童謡の父」と言われる石原和三郎は、勢多郡東村(現みどり市)に生まれ、この小学校を卒業した。教員になってからは、母校の校長も経験している。児童を叱るとき、石原先生は涙を流した。その涙に心から改心した人も多い。 明治の初め頃は、子供向けの歌が少なかった。子供のためには、子供と同じ目線で歌える歌が必要と、童謡の作詞を始めた。56年の生涯で、作詞した童謡は100曲以上に及ぶ。「上野唱歌」(1900年に作詞)は「晴れたる空に舞う鶴の」で始まる。群馬を「舞う鶴」に譬えたのは和三郎だと言われる。 高崎の佐野小など、県内小学校の校歌も作った。作詞を頼まれれば快く応じた。消防団や会社の歌も作った。しかし軍歌は作らなかった。子供を戦争の犠牲にしてはならないとの思いからだ。日清、日露戦争に勝ち、富国強兵を推し進めた時代に、戦争の愚かさを見抜いていた。花輪駅の駅舎にツバメの巣があった。ヒナが2羽いた。私の目の前を、餌を探しに行く親鳥が凄い速さで横切った。子育てに命を懸ける姿が、和三郎とだぶった。
萩原朔太郎が散策した広瀬川沿いを歩いてみた。朔太郎の他に、伊藤信吉、東宮七男など前橋にゆかりのある詩人の詩碑が並ぶ。深緑色の川は意外に深そうで、静かな流れだった。 「広瀬川白く流れたり 時さればみな幻想は消えゆかん」(広瀬川) 落第を繰り返し、大学受験にも失敗した。人々の白眼視に耐えられず、故郷は息苦しい場所だった。しかし時が経てば、自分も周囲の存在もなくなる。所詮人生など泡沫(うたかた)のようなものと、広瀬川べりを歩いて思ったのだろうか。鬱屈した青春時代だった。 「野に新しき停車場は建てられたり 便所の扉風にふかれ ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや」(新前橋駅) 新前橋駅が出来たのは1921年。現在は大きな三角屋根の近代的な駅だ。朔太郎が「荒寥たる田舎の小駅」と詠んだ面影はどこにもない。駅の西側に通じる高架橋の上から周囲を眺めた。沢山の線路が駅構内を走る。四方の町並みはどこまでも続く。周囲に「野」などない。しかし遠くに見える山並みは当時と変わらないに違いない。 朔太郎は40歳で上京した。故郷を嫌悪していたというが、「郷土望景詩」など故郷を詠んだ詩は多い。誰でも古里は忘れがたいものなのだ。 「火焔(ほのお)は平野を明るくせり まだ上州の山は見えずや」(帰郷) 蒸気機関車が古里に近づき、はやる気持ちを故郷の山に託して詠った。山は心を癒す故郷の思い出の象徴である。私も都会の駅から十数時間も夜汽車に揺られ、明け方、古里の潮風の匂いを感じると、同じ思いを味わったものである。
小泉城は群雄割拠の戦国時代に、織田や武田、上杉といった強大な戦国大名に翻弄されながらも、したたかに生き抜いた武将・富岡氏の居城であった。1440年、室町幕府と、幕府に反旗を翻した結城持朝などの関東豪族が争った結城合戦で、関東勢は敗れた。持朝の子持光は、甘楽郡富岡に逃れ、富岡直光と名乗った。その後直光は、古河・足利氏に仕え、邑楽の地を与えられる。1489年、この地に小泉城を構え、初代城主となった。 現在は城址公園として整備されているが、建物は残っていない。お堀は護岸工事がなされ、石垣が見られないのが寂しい。本丸があった所は、芝を敷き詰めた広場になっており、わずかに城の名残を留める。土塁は遊歩道として利用され、訪れた日も、地元の人が散歩を楽しんでいた。ベンチに座りお昼を食べた。やや離れた所で、小さな子を囲み、やはりお昼を食べている親子の姿があった。楽しそうな会話が聞こえた。おどけた仕草の子供が可愛い。公園の隣には中学校があり、溌剌とした生徒の姿に元気をもらった。 富岡氏が、戦国大名などから受け取ったといわれる書状が27通確認されている。差出人は上杉謙信、滝川一益、浅野長政など。大きな勢力の覇権争い下で、懸命に命脈を保ち、地歩を築いていく地方領主の逞しさを想像する。富岡氏の主君は、足利−上杉−武田−織田−北条と替わっていった。強大な勢力の間を巧みに泳ぎ、富岡氏は6代約100年にわたってしぶとく続いた。 豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に従っていた富岡氏は、前田利家、浅野長政らに攻撃される。1590年、小泉城は落城し、ついに富岡氏は滅ぶ。それが7月7日だったことから、この付近では、明治初期まで七夕の飾り付けをしなかったという話が伝わる。なお江戸時代の小説、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、結城合戦で、関東軍として結城氏と共に戦い、敗れた里見義実の子伏姫と、里見家のために戦う八剣士の物語である。
草津温泉の片隅にある頌徳公園に、ハンセン病患者の救済に生涯を捧げたコンウォール・リーの胸像がある。設置されたのは昨年の10月。生誕150年と来日100年を記念してのことだ。彼女は博愛の精神のままに生き、今なお尊敬を集める宗教者である。リーは伝道で日本を訪れた。布教活動の中で、草津の患者たちの悲惨さを聞き、救済を決意する。 1916年、59歳で草津に移住した。私財を投じてバルナバ教会を設立し、そこを拠点に活動した。「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味である。教会の中には椅子が30脚ほどあり、壁には、十字架に架けられるキリストの様子を描いた絵が掛かる。正面右側に、帽子を被り少しはにかんだリーの写真が飾られている。患者の幸福をここで懸命に祈ったに違いない。板で囲われた石油ストーブからは、冬の寒さと人々の温もりが想像される。 無知と偏見から、患者は一般の住民からは隔離された。ハンセン病に罹患することは、夢も希望も失い、生き地獄に身を沈めることだった。絶望ゆえの、自暴自棄と退廃が患者を支配していた。彼女は人間の尊厳と命の尊さを説いていった。谷間に投げ捨てられることさえあった患者の遺体を、自ら湯灌し丁寧に埋葬した。学校や病院も作った。彼女は粗末な身なりをし、ゴム長でどこへでも出かけた。「私は電灯の発明よりゴム長の発明を嬉しく思います」と言ったというエピソードが伝わっている。患者から「草津のかあさま」と慕われた彼女だったが、年齢による衰えから、1935年、草津を離れる。それから6年後に、兵庫・明石の地で気高く偉大な一生を終えた。 頌徳公園はリーが草津町に寄贈したものだという。今は児童公園になっている。木々に囲まれ、ブランコや滑り台そしてベンチがあり、懐かしい感じのする公園だ。そこで遊ぶ子供たちをリーの像が見守っている。人間の尊厳を、その生き様で我々に示した「マザー・リー」。マザー・リーの広大無比な慈悲の精神は、決して色あせることはない。
茂林寺へ行くと、山門前の両脇に整列する沢山の狸像が迎えてくれる。とぼけた顔が並んでいる。殆どは直立不動の姿勢だが、中には酔いつぶれ、酒瓶を持っているような行儀の悪いのもいる。まるで漫画の中にいるようだ。境内は墓参りの人が数人いるだけで、森閑としていた。喧騒の中で生活しているものには、この静寂さがありがたい。 名物のうどんを食べようと思い、近くの食堂に入る。鯰の天麩羅付きのうどん料理を頼んだ。鯰など食べたことがないので、興味を持ったからだ。まっ白なうどんが旨いのは言うまでもないが、鯰も癖がなく淡白な味で食べやすい。白身魚と変わらない味だ。醤油を付けて食べた。天麩羅のさくさくした感触が良い。店内に流れる館林うどんのビデオの中で、鯰料理も紹介されていた。新たな名物として、売り出しに力を入れているのだろうか。 東武鉄道・茂林寺前駅の西側に、関東学園分福競技場がある。ここはかつて分福球場といい、草創期の巨人軍が練習したグラウンドだ。1936年、アメリカ遠征帰りの巨人軍は、オープン戦で意外な不成績に終わる。これでは日本初のプロ野球リーグ戦での優勝は難しい。日本の先達として、絶対に優勝を逃すわけにはいかない。追い詰められた巨人軍は、藤本定義監督以下、分福球場で同年9月に「地獄のキャンプ」を張る。 千本ノックの嵐が毎日吹き荒れ、選手を鍛えた。ここから日本初の三冠王中島治康、名手白石勝巳(後の広島カープ監督)らが巣立った。秋にリーグ戦がスタート。勝ち進んだ巨人軍は、宿敵阪神との最終決戦に勝利し、初代王者に輝く。 野球シーズンが始まり、胸の高鳴る季節になった。新球団ダイヤモンドペガサスも始動し、活躍が楽しみだ。私にとって野球は父の思い出に繋がる。野球に触れるたび、亡き父とキャッチボールをした遠い幼い日々を思い出すからだ。しかし最近はチャッチボールをしている親子の姿を見かけることはない。
上州特産の絹織物業は18世紀になると飛躍的に発展する。それに伴って江戸や上方(京都・大阪)方面との交易が盛んになる。人々の往来も活発になり、先進文化が流入した。儒教や和算(日本式の数学)などの学問も広がり始めた。上州諸藩でも教育の重要性が認識され、各地に学校が作られるようになる。名高いものとしては、伊勢崎藩の宮崎有成・有敬親子らが中心になって設立した「五惇堂」がある。郷学(庶民の教育機関)としては群馬で最初のものと言われる。 記念碑を訪れた日、最寄の剛志駅(東武伊勢崎線)ではブラジル人らしき人が、携帯電話で大声で話をしていた。群馬県の工業地帯は、日系ブラジル人など外国人が多く働く。かつて人手不足のときに、大量に外国人労働者を受け入れていた。しかし不況になると外国人から首を切る。慣れない地で身を粉にして働き、日本の産業を支える外国人の就労環境の整備は遅れる。そうした現実に目を向けず、異国の友を蔑む風潮が日本にはある。 五惇堂では、論語、四書五経といった儒教が中心に教えられた。授業料はただで、希望者は誰でも入学出来た。農繁期は休み、農閑期に授業は行われた。教授陣は新進気鋭の学者が集った。宮崎有敬は群馬県議会の初代議長となっている。現在、学校跡の周辺は麦や白菜の畑になっている。鳥の鳴き声が響き、のどかな風景が広がる。軽自動車で颯爽と農道を行く高齢の女性とすれ違う。お年寄りが元気なのが嬉しい。 「学は光なり」である。無知は最大の不幸である。人間は学ぶことで人間に成長出来るのだと思う。碑の説明板に有成の言葉として、「舜(しゅん=中国古代の伝説上の皇帝)は、けん畝(けんぽ)の中に生まれ、孔子は陋巷に出ずと聞けり」とある。ここから舜や孔子に並ぶ偉人を出そうという思いを込めたのだろうか。壮大なロマンを掲げた学び舎は、1872年、明治政府により学制が公布されるまで続いた。