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上州をゆくTOPへ>上州をゆくバックナンバー01〜20
連載「上州をゆく」20 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
小泉城のお堀(大泉町)
小泉城のお堀(大泉町)
公園内に移転した城之内古墳(大泉町)
公園内に移転した城之内古墳
(大泉町)
周辺MAP

 小泉城は群雄割拠の戦国時代に、織田や武田、上杉といった強大な戦国大名に翻弄されながらも、したたかに生き抜いた武将・富岡氏の居城であった。1440年、室町幕府と、幕府に反旗を翻した結城持朝などの関東豪族が争った結城合戦で、関東勢は敗れた。持朝の子持光は、甘楽郡富岡に逃れ、富岡直光と名乗った。その後直光は、古河・足利氏に仕え、邑楽の地を与えられる。1489年、この地に小泉城を構え、初代城主となった。

現在は城址公園として整備されているが、建物は残っていない。お堀は護岸工事がなされ、石垣が見られないのが寂しい。本丸があった所は、芝を敷き詰めた広場になっており、わずかに城の名残を留める。土塁は遊歩道として利用され、訪れた日も、地元の人が散歩を楽しんでいた。ベンチに座りお昼を食べた。やや離れた所で、小さな子を囲み、やはりお昼を食べている親子の姿があった。楽しそうな会話が聞こえた。おどけた仕草の子供が可愛い。公園の隣には中学校があり、溌剌とした生徒の姿に元気をもらった。

富岡氏が、戦国大名などから受け取ったといわれる書状が27通確認されている。差出人は上杉謙信、滝川一益、浅野長政など。大きな勢力の覇権争い下で、懸命に命脈を保ち、地歩を築いていく地方領主の逞しさを想像する。富岡氏の主君は、足利−上杉−武田−織田−北条と替わっていった。強大な勢力の間を巧みに泳ぎ、富岡氏は6代約100年にわたってしぶとく続いた。
 
豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に従っていた富岡氏は、前田利家、浅野長政らに攻撃される。1590年、小泉城は落城し、ついに富岡氏は滅ぶ。それが7月7日だったことから、この付近では、明治初期まで七夕の飾り付けをしなかったという話が伝わる。なお江戸時代の小説、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、結城合戦で、関東軍として結城氏と共に戦い、敗れた里見義実の子伏姫と、里見家のために戦う八剣士の物語である。

 
連載「上州をゆく」19 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
コンウォール・リーの胸像(草津町)
コンウォール・リーの胸像
(草津町)
バルナバ教会(草津町)
バルナバ教会(草津町)
周辺MAP

 草津温泉の片隅にある頌徳公園に、ハンセン病患者の救済に生涯を捧げたコンウォール・リーの胸像がある。設置されたのは昨年の10月。生誕150年と来日100年を記念してのことだ。彼女は博愛の精神のままに生き、今なお尊敬を集める宗教者である。リーは伝道で日本を訪れた。布教活動の中で、草津の患者たちの悲惨さを聞き、救済を決意する。   

1916年、59歳で草津に移住した。私財を投じてバルナバ教会を設立し、そこを拠点に活動した。「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味である。教会の中には椅子が30脚ほどあり、壁には、十字架に架けられるキリストの様子を描いた絵が掛かる。正面右側に、帽子を被り少しはにかんだリーの写真が飾られている。患者の幸福をここで懸命に祈ったに違いない。板で囲われた石油ストーブからは、冬の寒さと人々の温もりが想像される。

無知と偏見から、患者は一般の住民からは隔離された。ハンセン病に罹患することは、夢も希望も失い、生き地獄に身を沈めることだった。絶望ゆえの、自暴自棄と退廃が患者を支配していた。彼女は人間の尊厳と命の尊さを説いていった。谷間に投げ捨てられることさえあった患者の遺体を、自ら湯灌し丁寧に埋葬した。学校や病院も作った。彼女は粗末な身なりをし、ゴム長でどこへでも出かけた。「私は電灯の発明よりゴム長の発明を嬉しく思います」と言ったというエピソードが伝わっている。患者から「草津のかあさま」と慕われた彼女だったが、年齢による衰えから、1935年、草津を離れる。それから6年後に、兵庫・明石の地で気高く偉大な一生を終えた。

頌徳公園はリーが草津町に寄贈したものだという。今は児童公園になっている。木々に囲まれ、ブランコや滑り台そしてベンチがあり、懐かしい感じのする公園だ。そこで遊ぶ子供たちをリーの像が見守っている。人間の尊厳を、その生き様で我々に示した「マザー・リー」。マザー・リーの広大無比な慈悲の精神は、決して色あせることはない。

 
連載「上州をゆく」18 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
茂林寺の狸像(館林市)
茂林寺の狸像(館林市)
関東学園分福競技場(館林市)
関東学園分福競技場(館林市)
周辺MAP

 茂林寺へ行くと、山門前の両脇に整列する沢山の狸像が迎えてくれる。とぼけた顔が並んでいる。殆どは直立不動の姿勢だが、中には酔いつぶれ、酒瓶を持っているような行儀の悪いのもいる。まるで漫画の中にいるようだ。境内は墓参りの人が数人いるだけで、森閑としていた。喧騒の中で生活しているものには、この静寂さがありがたい。

名物のうどんを食べようと思い、近くの食堂に入る。鯰の天麩羅付きのうどん料理を頼んだ。鯰など食べたことがないので、興味を持ったからだ。まっ白なうどんが旨いのは言うまでもないが、鯰も癖がなく淡白な味で食べやすい。白身魚と変わらない味だ。醤油を付けて食べた。天麩羅のさくさくした感触が良い。店内に流れる館林うどんのビデオの中で、鯰料理も紹介されていた。新たな名物として、売り出しに力を入れているのだろうか。

東武鉄道・茂林寺前駅の西側に、関東学園分福競技場がある。ここはかつて分福球場といい、草創期の巨人軍が練習したグラウンドだ。1936年、アメリカ遠征帰りの巨人軍は、オープン戦で意外な不成績に終わる。これでは日本初のプロ野球リーグ戦での優勝は難しい。日本の先達として、絶対に優勝を逃すわけにはいかない。追い詰められた巨人軍は、藤本定義監督以下、分福球場で同年9月に「地獄のキャンプ」を張る。

千本ノックの嵐が毎日吹き荒れ、選手を鍛えた。ここから日本初の三冠王中島治康、名手白石勝巳(後の広島カープ監督)らが巣立った。秋にリーグ戦がスタート。勝ち進んだ巨人軍は、宿敵阪神との最終決戦に勝利し、初代王者に輝く。

野球シーズンが始まり、胸の高鳴る季節になった。新球団ダイヤモンドペガサスも始動し、活躍が楽しみだ。私にとって野球は父の思い出に繋がる。野球に触れるたび、亡き父とキャッチボールをした遠い幼い日々を思い出すからだ。しかし最近はチャッチボールをしている親子の姿を見かけることはない。

 
連載「上州をゆく」17 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
郷学・五惇堂の碑(伊勢崎市で)
郷学・五惇堂の碑(伊勢崎市で)
碑周辺の風景(伊勢崎市で)
碑周辺の風景(伊勢崎市で)
周辺MAP

 上州特産の絹織物業は18世紀になると飛躍的に発展する。それに伴って江戸や上方(京都・大阪)方面との交易が盛んになる。人々の往来も活発になり、先進文化が流入した。儒教や和算(日本式の数学)などの学問も広がり始めた。上州諸藩でも教育の重要性が認識され、各地に学校が作られるようになる。名高いものとしては、伊勢崎藩の宮崎有成・有敬親子らが中心になって設立した「五惇堂」がある。郷学(庶民の教育機関)としては群馬で最初のものと言われる。

記念碑を訪れた日、最寄の剛志駅(東武伊勢崎線)ではブラジル人らしき人が、携帯電話で大声で話をしていた。群馬県の工業地帯は、日系ブラジル人など外国人が多く働く。かつて人手不足のときに、大量に外国人労働者を受け入れていた。しかし不況になると外国人から首を切る。慣れない地で身を粉にして働き、日本の産業を支える外国人の就労環境の整備は遅れる。そうした現実に目を向けず、異国の友を蔑む風潮が日本にはある。

五惇堂では、論語、四書五経といった儒教が中心に教えられた。授業料はただで、希望者は誰でも入学出来た。農繁期は休み、農閑期に授業は行われた。教授陣は新進気鋭の学者が集った。宮崎有敬は群馬県議会の初代議長となっている。現在、学校跡の周辺は麦や白菜の畑になっている。鳥の鳴き声が響き、のどかな風景が広がる。軽自動車で颯爽と農道を行く高齢の女性とすれ違う。お年寄りが元気なのが嬉しい。

「学は光なり」である。無知は最大の不幸である。人間は学ぶことで人間に成長出来るのだと思う。碑の説明板に有成の言葉として、「舜(しゅん=中国古代の伝説上の皇帝)は、けん畝(けんぽ)の中に生まれ、孔子は陋巷に出ずと聞けり」とある。ここから舜や孔子に並ぶ偉人を出そうという思いを込めたのだろうか。壮大なロマンを掲げた学び舎は、1872年、明治政府により学制が公布されるまで続いた。

 
連載「上州をゆく」16 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
頼政神社(高崎市で)
頼政神社(高崎市で)
内村鑑三の碑(頼政神社で)
内村鑑三の碑(頼政神社で)
周辺MAP
 高崎まつりの起源は、江戸時代の高崎藩主・大河内家が祭る頼政神社の祭礼である。頼政神社は、高崎藩主に出世した輝貞(てるさだ)が、大河内家の先祖である源頼政を祭るため、1698年に鞘町に建立した。一時、輝貞は左遷され高崎を離れるが、帰任した1717年、宮元町の現在地に神社を遷した。こぢんまりしているが、長い歴史を刻んだ由緒ある神社だ。

神社は高崎公園の南にひっそりと建っている。街中だが、境内は木々が生い茂り、静かに本殿を守っていた。西側に烏川が流れ、その向こうに観音山を望む。いくつか碑があった。郷土の発展に尽力した偉人のものだろうか。内村鑑三の碑の前に佇んだ。「上州無知亦無才」で始まる鑑三の詩が刻まれている。自分のことを無知で無才とは、随分へり下ったものだが、「傲慢」を戒めている詩だろう。我が身はどうだろうと自省する。

源頼政は平安時代末期の武士である。保元・平治の乱で手柄を立て、平清盛に重用された。源氏でありながら平氏につき、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた時代に異例の出世を遂げた。また歌人としても名を成した。しかし平氏の横暴に憤り、諸国の源氏に先駆けて挙兵したが、京都・宇治の合戦で平氏に敗れ、平等院で自刃した。

再び鑑三の詩を読む。「唯以正直接萬人=ただ正直にどんな人にも接する」。去年の亥年を表す漢字は「偽」だった。日本人の倫理観が劣化していると言われて久しいが、この詩を読みに一度はここを訪れたらいいと思う。頼政神社の例祭は、沢山の神輿や山車が練り歩き、上野国随一の賑わいと言われたが、明治になり、大河内家が東京に移ると衰退してしまう。その後、道祖神祭りとして引き継がれ、戦後になると商店街が中心の祭りとして発展していく。1955年「高崎まつり」となり現在の隆盛に繋がっている。
 
連載「上州をゆく」15 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
東大寺大仏殿(奈良市で)
東大寺大仏殿(奈良市で)
周辺MAP
復元された築垣(上野国分寺跡で)
復元された築垣(上野国分寺跡で)
周辺MAP
  新春の大和路は快晴だった。東大寺の長い参道に、延々と人波が続く。公園の鹿が餌をねだりにこちらにやって来る。首を上下に振り、早く早くとせかしているようにも感じた。運慶、快慶制作の仁王像で有名な南大門を潜り、大仏殿へ行く。参拝客に交じり、巨大で鈍く光る盧舎那仏を見上げた。争いが絶えず、混迷を深めるばかりの世界を、悲しむ様でもあった。

東大寺は奈良時代、続発する災害や国政の動揺を憂えた聖武天皇が、仏教による国家鎮護を目指し、752年に造営した。そして東大寺を総本山とし、その末寺として国分寺を作ることを全国に命じた。

上野国分寺は、前橋市と高崎市の旧群馬町地区との境にあった。上毛三山が見渡せる広大な土地で、まさに上野国の中心にふさわしい所に置かれていた。今は近くに県庁のビルが望める。このあたりは古代から、群馬の中核をなす地だったのだ。国分寺跡の周辺は今、田畑になっている。年末に訪れたが、建物がないので空っ風をまともに浴びた。昔よりは弱くなっていると聞いたが、実際に体験すると息が出来ないほどだ。

創建は750年頃。当時は七重の塔があり、高さは前橋市役所に匹敵するほどだったという。周囲には寺院を支える様々な施設が建設されたというから、それらを含めると、大変な規模だったと想像する。平安時代の歴史書「続日本紀」には、中心となって築造した碓氷郡や勢多郡の豪族の記録が残る。建設のために焼かれた「藤岡瓦」は現代まで続く。

現在は基壇や築垣(ついがき)の一部が復元されている。基壇の大きさに当時の繁栄を偲ぶ。上野国は関東の辺境にありながら、格付は大国であった。豊富な財力で絢爛豪華な寺院を造ったのであろう。しかし朝廷の力が衰え、さらに新仏教が勃興すると国分寺は衰退する。栄華を誇ったのは300年ほどだったという。
 
連載「上州をゆく」14 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
桃井小学校(前橋市で)
桃井小学校(前橋市で)
周辺MAP
皇居のお堀(東京都千代田区で)
皇居のお堀(東京都千代田区で)
周辺MAP
 1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃した。国土が焦土と化し、幾万もの尊い人命が失われ、国民を塗炭の苦しみに突き落とした戦争が始まった日である。緒戦は勝利に沸いていたが、次第に戦局は悪化し、圧倒的な戦力を誇るアメリカの前に、なす術はなくなっていく。空襲は容赦なく日本全土を襲い、炎の中を人々は逃げ惑う。もはや勝ち目はない。国民をこれ以上犠牲にするわけにはいかない。敗色濃厚な戦争の収束を図るため、昭和天皇は軍の説得を77歳の鈴木貫太郎に託す。鈴木内閣総理大臣の誕生である。

鈴木は幼少期を千葉県の関宿(現野田市)で過ごすが、父親が教育熱心で孟母三遷の故事に倣い、当時教育レベルが高いとされた群馬県に転居する。鈴木は前橋の桃井小学校に転入した。官庁街にある同小は、鉄筋の立派な校舎だった。訪れたのが休日だったので、校門が閉まっていた。子供の声は聞こえない。最近、子供が犠牲になる事件が多いせいか、校庭では誰も遊んでいない。私の子供の頃の学校とは、随分様子が違う。毎日、日暮れまで校庭で遊んでいた子供時代は、もはや遠い昔だと思い知った。

1945年8月、広島、長崎に原爆が投下された。もはや一刻の猶予も許されない。ここに至っては玉砕を叫ぶ軍部も鈴木に逆らえない。鈴木は御前会議で天皇に聖断を仰ぐ。天皇は無条件降伏を決意する。そして8月15日、終戦を見届け、鈴木内閣は総辞職する。

師走の晴れた日の皇居は空気が新鮮だった。都心なのに都会の喧騒とは無縁だ。外国からの観光客が大勢いた。旅の「記念写真」を撮っている。「お城」見学に終わらせず、せめて日本がたどった愚かな道を知り、日本人が流した血の涙を学んでもらえたらと願う。日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊と激闘を繰り広げ、勝利に導いた「軍人鈴木」は、暴走する軍事政権を抑え、日本の滅亡を防いだ「政治家鈴木」でもあった。初めて群馬県から誕生した内閣総理大臣、鈴木貫太郎は後者として知られている。
 
連載「上州をゆく」13 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
梨の木平敷石住居跡がある小屋
(みなかみ町で)
梨の木平敷石住居跡がある小屋
(みなかみ町で)
住居跡の遺跡
(みなかみ町で)
周辺MAP
 縄文時代というとまだ原始時代という印象だったが、それは間違いであると思い知らされた。何年か前に、青森県の三内丸山遺跡を見学した時の感想である。住居地域、ゴミ捨て場、祭祀の場、そして墓と整然と区分されていた。つまり秩序と規律が整った生活が営まれていたのだ。漆器やアスファルトなども発見されているので、縄文時代とは、高度な技術を持つ文明社会だったのだ。

県内でも縄文遺跡は多数発見されている。約4千年前の「梨の木平敷石住居跡」もその一つだ。上越新幹線の上毛高原駅から東へ坂道を10分ほど下った道路の右側に遺跡が見えた。1976年、上越新幹線の建設に伴う県道整備の際に発見されたものだ。縄文時代は、1万3千年ほど前から1万年以上続いたとされているので、この遺跡は後期のものか。現在は小屋で保護されており、中に入るとガラス越しに遺跡を見下ろすことが出来る。中は暗いので、懐中電灯で説明版を読んだ。遺跡からは、食器や甕に使われたらしい石器や土器が多数出土したという。

この「住宅」の床面には、平らな白い石が六角形に敷き詰められている。屋根は7本の柱で支えられていたらしい。玄関から外に向かって細長く石が敷き詰められている。上から眺めると亀のような形をしている。中央に炉があることから、そこを中心に家族が団欒の時を過ごしていたのかも知れない。

ここには家族の温かい絆があったに違いない。仲良く夕餉を囲む姿が想像される。湯気が立ち上がる温かい母親の手作りの料理に、子供たちが舌鼓を打っていたのだろうか。「貧しいながらも楽しい我が家」といった趣だ。電気製品などの文明の利器に囲まれ、飛躍的に便利になった生活を送る現代人。しかし親子の会話もなく、子供はテレビゲームばかりという話を聞くと、一体どっちが幸せなのだろうと考える。毎日ニュースになる子への虐待や親子間の殺人事件・・・家族の崩壊が深刻な現代を、縄文の人々はどう見るだろうか。
 
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連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
清水トンネル群馬側出口
(みなかみ町で)
上越線を走る電車
(越後湯沢駅で)
周辺MAP
 川端康成の小説「雪国」の冒頭に出てくる「国境の長いトンネル」とは、上越線の清水トンネルのことである。国境とは、群馬(上野国)と新潟(越後国)の境のこと。清水トンネルは、1931年に開通した。名前は近くの清水峠にちなんだという。全長は9702m。トンネルが出来るまでは、群馬から新潟へ抜けるには、信越線で碓氷峠を越え、長野を経由しなければならず、上野〜新潟間は、急行で約11時間かかっていた。それが約4時間の短縮になったという。

越後湯沢駅から上越線に乗った。「雪国」とは逆のコースをたどる。意外に乗客が多いのに驚いた。今でも上越線は、住民の貴重な足なのだ。土樽駅を出て、まもなく清水トンネルに入った。窓の外が暗くなり、「ゴーッ」と列車が空気を切る音が車内に響く。お年寄りが、トンネルを通って都会へ出ていた頃の苦労話を、親の帰省に付いて来たらしい小さな孫にしていた。その子がどう感じたかは分からないが、おとぎ話を聞くようなものだろう。普段は新幹線を利用しているはずだ。

戦後、輸送量が増大したため、1967年に新清水トンネルが造られ、複線化される。シーズンともなれば、湯檜曽駅や土合駅は、スキー客や登山客でさぞ賑わったことだろう。清水トンネルは、建設に9年4カ月を要し、工事関係者44人の尊い犠牲の上に完成した。急勾配を避け、なるべく短くするため、群馬側と新潟側にループトンネルが設けられている。それでも長いので、煙害対策のため、当初から蒸気機関車ではなく電車が走っていた。

川端康成が「雪国」の執筆を開始したのは、1935年頃。小説の「国境の長いトンネル」とは、単線の頃の清水トンネルだ。現在は上り専用のトンネルとなっているので、小説と同じルートをたどって新潟方面へは行けない。今となっては幻のルートなのだ。「雪国」の中の島村と駒子の世界は、永遠のおとぎ話となっている。
 
雄川堰と町並み(甘楽町で)
食い違い郭(甘楽町で)
周辺MAP
 甘楽町小幡は上野国の要衝であり、古くからの城下町である。鎌倉時代になると小幡一族が勢力を伸ばし、この地を支配した。しかし戦国時代に武田信玄の配下に加わった小幡氏は、武田氏の滅亡後、この地を徳川家康に明け渡す。1615年、家康から織田信長の次男、信雄がこの地を与えられ、以後7代約150年にわたって織田氏が支配する。

上信電鉄の上州福島駅で降り、自転車を借りた。無料なのが嬉しい。8月の後半とは言え、異常な暑さだった今年の残暑は厳しい。駅から続く長い坂を、自転車を漕いで上った。かなりきつく足が痛くなった。若いつもりでいても体は正直だ。町役場前で一服。一気にペットボトルの茶を飲み干したが、汗は引かない。今年の暑さには参る。

雄川堰沿いの町並みに着いた。盛夏がいまだに続いているようなせみ時雨だった。雄川堰は、昔は貴重な生活用水だった。昔の屋敷が立ち並ぶ。こういう古い屋敷というのは、保存するために使われていないのが普通だが、ここには人々が生活する「生きた空間」がある。無造作に置かれた自動車、散策している親子・・・人々の息遣いを感じる。春には、桜並木が町を彩り、大変美しいという。その時にまた来たいものだ。

武家屋敷の並ぶ中小路に行く。静かな時が流れ、石垣と白壁の塀が、私を江戸時代にいざなう。広い道を大名が練り歩く光景が浮かぶ。封建時代、下級武士は大名との鉢合わせを避けなければならなかった。「食い違い郭」があるのはそのためだ。江戸中期には、放漫財政がたたり、藩財政は困窮する。藩政改革を試みるが、藩主信邦は無能で重臣達の対立が激しくなるばかり。改革は一向に進まない。ついに幕府は織田氏を見限り、小幡から追放してしまう。しかし町の礎を築いたのは間違いなく織田氏であったと思う。町の宝とも言うべき貴重な遺構のほとんどは、織田氏ゆかりのものだという。
 
新島襄渡航の碑(函館港)
周辺MAP
新島襄の旧宅(安中市)
安中市HP(新島襄旧宅)
 安中藩の下級武士に生まれた新島襄は、自由の国アメリカを目指し、北海道・箱館から密航を企てた。アメリカのペリー提督の浦賀来航で、長い鎖国からやっと目覚めた日本が、海外に門戸を最初に開いた地、箱館。箱館の諸術調所の教授で、五稜郭を設計した武田斐三郎に学ぶため新島は当地に渡る。そこで接した高度な技術、海外事情なども、一層海外雄飛の思いを膨らませたに違いない。

1864年、ベルリン号で日本を発った。現在、函館港には、新島襄渡航の碑が建てられている。
函館を訪れたのは、8月初旬。快晴だったが、風が爽やかで心地よい。普段、北関東の異常な暑さを経験している身には、まさに別天地。街を散策すると、洋風の建物があちこちにあり、当時の面影がまだ残る。碑は観光コースからは少し外れ、倉庫の横に目立たないように立っていた。「ここから見る港の景色が一番綺麗だよ」と地元の人が教えてくれた。

新島の旧宅が、安中市中心部の静かな住宅街に残る。質素な萱葺きの木造家屋だった。入口を入るとすぐ縁側が目に入る。そこにたたずみ思索する時もあったのだろうか。和室二間が新島の生活の場だったという。母親が茶を点てた炉があった。10年ぶりに故郷に帰り、束の間の安らぎの時間を家族と過ごした場所だ。唯一心許した所だったに違いない。しかしここには3週間あまりしかいなかったという。

大志を抱き新たな旅についたのだ。
離れても故郷のことは忘れなかった。安中の知人に頻繁に書簡を送り、悩める人々の灯台役を務める。故郷への思いは安中教会、新島学園へと結実する。床の間に辞世の句が掛かっていた。

「いしかねも透れかしとて一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地」。

虚飾などないストレートな決意が伝わる。彼の生涯をそのまま表現した句だった。自分もかくありたしと何回も繰り返した。
 

太田市HP(天良七堂遺跡)のページ1

太田市HP(天良七堂遺跡)のページ2

 奈良・平安時代の新田郡の郡衙(ぐんが=郡役所)跡といわれる天良七堂(てんらしちどう)遺跡(太田市天良町)。上野国(こうずけのくに)には14郡が置かれ、ここの郡衙は全国最大規模であったという。大和朝廷に反目する東北の蝦夷を監視する、前衛基地としての性格もあったといわれる。郡衙の建物跡が確認され、説明会をするというので参加した。東武桐生線の治郎門橋(じろえんばし)駅から南西に20分ほど歩いた。

現地は、住宅地の中にぽっかりと空間が出現したようだった。朝早くから大勢の人が詰め掛けていた。東京など県外からの人もいた。ここのように古文書の記述と、建物位置が一致している例は珍しいという。説明員の後について見学する。柱跡が2列に整然と並んでいる所は、中心的な建物だったらしい。それは3棟発見された。地中にある、柱を支える石から想像すると、柱は直径約30pで、木造としてはかなり大きいという。建物の長さは50mほどで、昔の田舎の小学校の木造校舎くらいはありそうだ。ここは住民から取り立てた税(当時は米が中心)の保管場所でもあった。米蔵だったと想像される建物跡もあった。それを見ながら、税に悩むのはいつの時代も同じかと思う。

大化の改新以降、中央集権国家を目指した日本は、律令制度の下に支配体制を整えていく。地方に国司を派遣し、その下の郡司には地元の豪族を任命した。徴税を効率化し、国の中枢に財を集める制度を作ったのだ。その結果、奈良・京都の貴族文化が栄えた。しかし地方は山上憶良の「貧窮問答歌」のように、重税に苦しみ疲弊する人々も多かった。都で貴族が政治を忘れ、権力闘争に明け暮れている間に、地方では武士団が台頭する。関東でも平将門らが勢力を伸ばした。いつの時代でも、民衆の支持を失った時、権力は崩壊する。武士の時代になるのは、必然的な歴史の流れだったのかも知れない。
 
お問い合わせ
県立つつじが岡公園
TEL:0276-72-9122
周辺MAP
 日本初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんの故郷として有名な館林。美智子皇后の父方の実家があり、江戸幕府5代将軍、徳川綱吉が藩主だったことでも知られる。5月の連休に、有名なつつじ祭りに行ってみた。東武館林駅から、直通バスに乗り、15分ほどでつつじが岡公園に着いた。天候にも恵まれ、大変な人出だ。公園には沢山の出店が並んでいた。名物のうどんや名産品を売る店が軒を連ねる。売り子の明るい声が、心地よく響いていた。

赤やピンクのつつじが満開だった。五十余種、1万株が広い公園に植えられているという。そのスケールの大きさに驚いた。古いものは樹齢800年を越えるという。普段は仕事に忙殺される日常ゆえ、花に親しむ余裕などない。しかしこの日は、目がまぶしくなるほどの、鮮やかなつつじに心を奪われ、しばし楽しんだ。

館林のつつじの歴史は古い。古代から野生のヤマツツジが群生していた。そして歴代の城主が保護し、地元の人々が丹精こめて育て、少しずつ増やし、大切にされてきた歴史がある。近くの城沼の湖面に写るつつじの姿の美しさが、古文書にも記されているという。 ここのつつじは、向井さんによって、1994年、スペースシャトルで宇宙に行ったことで話題になった。そのつつじは現在、向井さんの記念館で順調に育っているという。

明日からは、また忙しい日常に戻る。かつて世界一治安が良いと言われた日本だが、昨今、それを揺るがす事件が相次ぐ。警官、公務員、教師など最も正義、倫理を重視しなければならない人々の犯罪が続く。今や人殺しのニュースを聞かない日はないほどだ。現代はストレス社会だ。性急に成果を求められる。日常の中で、普段の自分の姿を見つめ、反省している暇などない。そんなことをしていたら競争に負け、敗残者の烙印を押されるからだ。こんな時代だからこそ、つつじを愛でる心の余裕を大切にしたいと思った。
 

周辺MAP
(地図は新町駐屯地)

 戦国時代の最大規模の戦いの舞台が、高崎市新町にあったと聞いて行ってみた。JR新町駅から国道17号沿いに埼玉方面に歩く。東京に繋がる大動脈だけあって、ひっきりなしに車が飛び交う。排ガスを吸い込むようで、息をするのも嫌になる。 やがて自衛隊の駐屯地が見えた。 イラクに自衛隊員が派遣され、防衛省が出来、さらに憲法の改正論議が喧しい昨今、高崎も歴史の流れの大きなうねりと、無関係とはいくまい。 今は駐屯地の横(埼玉側)に、碑があるのみだが、近くの神流川周辺で戦国時代を通じ、最も凄惨な戦いである「神流川の戦い」があった。織田信長が天下を統一、関東に臣下の滝川一益(かずます)を派遣し、関東支配の基盤を着々と整えつつあった。

しかし元々関東の有力戦国大名である北条氏を差し置き、近江(今の滋賀県)の滝川氏が重用されたことに、北条氏の嫉妬は募る。1582年、本能寺で明智光秀が信長を殺害。北条氏一族の氏政らはこの機に乗じ、関東奪還を目論み、滝川一益に戦いを挑んだ。

同年夏、双方の死力を尽くした合戦が繰り広げられる。滝川軍1万8千、北条軍5万6千という大軍が激突。戦いは2度にわたり、約4千人の死者が出たという。数に勝る北条軍が圧勝。織田勢力は駆逐され、関東は新たな時代に入る。

現在、神流川は河原がかなり広く、雑草が生い茂っていた。群馬側には水の流れが無く、農家が畑を耕していた。堤防は整備され、サイクリングロードとなっている。そこでジョギングを楽しむお年寄りとすれ違う。都市郊外の静かな光景が広がる。碑文を読む私を、行き交うトラックの運転手が怪訝そうに眺めた。ここが歴史の転換点であり、人間の残酷さを見つめた地だということを、知っている人は殆どいないに違いない。しかし時の流れに埋没させるには、あまりにも犠牲の大きい戦いだと思った。
 
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 群馬県にも幾つか城はあったが、往時の姿のまま残っているものはないようだ。箕輪城(高崎市箕郷町)も現在は城址公園となり、わずかに井戸跡が当時を偲ばせる。箕輪城は約500年前の戦国時代に築城され、わずか80余年で歴史の舞台から姿を消した幻の城だ。築いたのは平城天皇の分家筋の長野一族、長野業尚(なりひさ)と言われ、1510〜20年ごろに完成した。
入口から九十九折の坂道を上り、公園に着いた。春先だったこともあり梅が満開だった。「本丸」「二の丸」などの標識があり、どんな建物があったかを教えてくれる。城というと天守閣を思い浮かべるが、この城にはなかった。あちこちに石垣が残る。堀跡はかなり深く約6mほどだという。丘陵を利用した城で、周囲を歩くと起伏が激しいので疲れた。

高台なので眺望が良く、眼下に高崎市街を望む。視野が広くなったようで開放感に浸った。ただし視界を遮る杉の木立が少し気にはなったが・・・。平成の大合併で高崎は広くなった。遥かに広がる市域を見てそれを実感した。ところで戦国の武士は城下の景色をどんな思いで見ていたのだろう。戦乱の世に生まれ、明日をも知れぬ我が身を嘆きながら見たのだろうか。もちろん知る術もないが、ふとそんなことを想像した。

1566年、武田信玄が箕輪城に総攻撃をかける。何度も信玄の攻撃に耐えた長野氏だが、信玄をも畏怖させた名君業政(なりまさ)の死後、14歳で家督を継いだ業盛(なりもり)では城を守れるわけがなく、箕輪城はあっけなく陥落。業盛は自害し、長野氏は滅ぶ。
箕輪城は何代か城主が変わり、井伊直政の時の1598年、高崎城が完成し、廃城となる。

沢山の人の血や涙が流れ、憎しみや悲しみが渦巻いた箕輪城。今は何もない公園にたたずみ、平和な時代に生きられる我が身の幸せに感謝した。
 
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 日本の近代化に大きな貢献をした養蚕業。北関東はその中心地だった。藤岡も日本の養蚕業を支えた拠点都市として、貴重な歴史を刻んだ街である。その藤岡にあって、私財を投げ打ち、養蚕技術の改革を進め、その技術を全国に広めたのが、高山長五郎である。

当時、蚕はデリケートで、安定した育成が困難だった。病害で危機に瀕することもたびたびだったという。他に産業のないこの地で、養蚕業を育成しなければ、人々の幸福はない・・・長五郎は、研究に研究を重ねた。失敗を繰り返し、周囲の嘲笑も浴びた。しかし諦めなかった。約8年を費やし、ついに湿気や温度を一定に保ち、安定して蚕を育てる「清温育」という飼育法を考案した。その技術普及のため1884年、教育組織「高山社」を設立した。

高山社設立の2年後に長五郎は逝去する。しかし遺志を受け継いだ町田菊次郎らの尽力により、学校は発展する。分教場も、県内各地に造られていった。生徒は全国から集まった。中国や朝鮮からも来たという。在学生は、徴兵が免除されたというから、いかに国も重要視していたかが分かる。その技術は瞬く間に全国に広がり、養蚕業の黄金期を築く。そして高山社は1927年、日本の養蚕業の礎としての使命をひとまず終え、廃校となる。市内の高山地区に残る、高山社だった建物には、今、長五郎の子孫が住んでいる。

現在、養蚕業は中国、韓国などアジア諸国にとって代わられている。桑畑は宅地や商業地に転用され、もう面影はない。市内の諏訪神社にある長五郎の顕彰碑も寂しそうだ。上毛カルタに「繭と生糸は日本一」と誇らしげに詠われた群馬の養蚕。そこには長五郎のような先達の、血の滲むような苦闘の末に、実現された歴史があることを忘れてはならない。経済のグローバル化や人口減少の影響で、地方は地域の活性化に苦しむ。新たな街作りが課題だが、藤岡も長五郎の精神を受け継ぎ、再び元気な街を作ってもらいたい。
 
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 みどり市のJR両毛線・岩宿駅から、北西に30分くらい歩くと岩宿遺跡がある。木が生い茂った、ごく普通の小山だが、ここで1946年、日本の歴史を180度変える大発見があった。発見されたのは黒曜石で出来た小さな石ヤリ。それは日本には存在しないと言われていた、約2万年前の旧石器時代の遺物だった。この発見により、日本の歴史は大変革を遂げることになる。

発見したのは無名の考古学者、相沢忠洋。納豆売りの行商をしながら、たった一人で発掘作業をしていた。遺跡など、どこに埋まっているのか分からないのだから、作業は気の遠くなるような忍耐が必要だったに違いない。しかも学歴がなく、日本の考古学界からはバカにされ、相手にもされなかった。東大中心の当時の考古学界では、日本には旧石器時代は存在しないというのが定説だった。ましてや火山灰の降り積もった、生成期の関東ローム層では、人間が生活できるわけがないと、決め付けられていたのだ。

相沢の情熱を支えたものは何だったのだろうか。功名心だけでは、作業は苦しいだけだ。未知の歴史の真実を説き明かそうという使命感か。それでもまだ説明がつかない。意志など超越した、人智のうかがい知れない、何かの啓示だろうか。だが考古学界のパイオニアを、この国はいじめ抜く。学歴のないものは信用できないと、彼の功績を認めようとはしない。その後、相沢に注目した学者の調査により、岩宿遺跡が世紀の大発見として確認された時も、協力してくれたアマチュアの愛好家とされてしまった。それでも相沢は研究に励んだ。世間の評判など眼中になかったのだ。

やがて旧石器時代の詳細な研究で大きな業績を残し、相沢の存在はゆるぎないものになる。彼の生き様を知る理解者の協力もあり、相沢の名は世界に紹介される。ついに高慢な象牙の塔を打ち崩したのだ。あくなき挑戦を続けた相沢忠洋。「天は自らを助けるものを助ける」。遺跡を前にして、この言葉をかみ締めた。
 
太田市立
高山彦九郎記念館
TEL:0276-32-5632
お問い合わせ
太田市尾島総合支所
TEL:0276-20-7090
(ダイヤルイン)
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 京都旅行に行ったとき、三条京阪駅前にある、御所を望んで土下座している像を見た人は多いと思う。これは江戸時代、寛政の3奇人と言われた高山彦九郎(1747〜1793年)の坐像である。彦九郎は、新田郡細谷村(今の太田市)で生まれた。天皇中心の国家を説く尊王思想家で、幕末の維新を担った吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文ら、多くの草莽の士に、多大な影響を与えた人物である。

市井のまま生涯を終えたが、その記念館が現在、東武伊勢崎線の細谷駅から、南に歩いて10分ほどの畑の中にひっそりと立っている。

彦九郎が生きた時代は、田沼意次が権力を握り、賄賂政治が横行していた頃。天明の飢饉があり、疫病が流行し、世情不安が増大した。一揆、打ちこわしも続発しており、幕藩体制は揺るぎ始めていた。彦九郎はそのような時代にあって、上杉鷹山、前野良沢、林子平など当時の著名な学者、政治家に積極的に会い、新しい日本のあり方を議論していった。しかし逗留先の福岡・久留米の地で自刃している。理由は分からない。

その人生は旅の一生であった。京都を中心に、四国と蝦夷以外、ほとんどの地域を訪ねたという。各地の地理、経済、風俗などを、膨大な日記に残しており、現在では、当時の人々の生活をうかがい知る、貴重な歴史資料にもなっている。

毎日のように起こる家族同士の殺人、絶えない戦争、広がる人々の経済格差、そして異常気象。悲惨な出来事が毎日続く現在の世情不安は、当時より深刻かも知れない。日本の針路を示すべき政治家は不祥事続き。政治の貧困が我々の生活を苦しめる。新しい時代のあり方を説いた彦九郎だが、新しい政権が盛んに唱える、「美しい日本」という言葉を、今聞いたらどう思うだろうか。
 
富岡製糸場
お問い合わせ
世界遺産推進部
富岡製糸場課
TEL:0274-64-0005
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 高崎駅から上信電鉄に乗車、田園風景の中をのんびり30分ほど走り、上州富岡で降りた。富岡製糸場に行くためだ。こじんまりとした、どこの田舎にもありそうな、質素な駅舎が迎えてくれた。しかし改札口横の看板に、富岡市の人口が5万5千とあり、意外に多いことにびっくりした。富岡は西毛地区の、紛れもない中核都市の一つなのだ。

明治維新後の日本近代化の象徴。富国強兵・殖産興業政策の代表格−それが富岡製糸場だ。小、中学校の教科書に必ず載っているから、県外の人にもおなじみだろう。その功績を歴史に留めるため、世界遺産にしようという動きもある。

頑丈そうなレンガ造りの倉庫を始めとする建物群は、フランス人の技師が設計したそうだ。メートル法での設計だったので、それを全て尺貫法に計算し直して施工したという。電卓のある現代でさえ、換算計算は苦労するのだから、大変な労力だっただろう。当時としては例のない、大工事だったそうだ。しかもセメントもレンガも、ほとんどの日本人は見たことのない時代、悪戦苦闘の連続だったに違いない。しかし、100年以上風雪や地震に耐えた、堅固な建物がそこにあるわけだから、職人の腕は確かだったのだ。本当に昔の人はすごい。

明治時代は、まだ外国人が珍しかったので、その生活ぶりも注目されていたらしい。フランスから来た、製糸場設立の中心者、ポール・ブリューナ氏が、赤ワインを飲むのを見て「外国人は、若い娘の生き血を飲む」という噂が立ったそうである。その噂が災いし、女工を集めるのに大変苦労したという話も伝わっている。

1987年まで操業していた。意外なことに、必ずしも儲かっていたわけではないそうだ。しかし産業振興の先導役は、間違いなく果たしたと思う。ここから巣立った技術者、労働者たちが、各地で中心となり、日本の生糸産業は世界一となったのだから。かつては日本の代名詞だった生糸産業。それを支えた幾多の先人達の苦労を、風化させないためにも、世界遺産になったらいいなと思った。
 
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 高崎に住んで、早いものでもう8年目。群馬県に全く縁など無かったので、住む前は、地図を見ながら、「どんなところなのだろう」と不安に思ったものである。しかし住めば都という言葉がある通り、快適な生活を送らせていただいている。
群馬といえば、温泉。草津、伊香保を始めとして、全国に知られる名湯がたくさんある。温泉巡りにはもっぱら電車を利用している。車社会の現代だが、旅情を味わうには、やっぱり電車に揺られ、車窓を楽しむに限る。幸い高崎は、交通の便が良いので、大変助かっている。

先日は伊香保温泉を満喫した。万葉集にも読まれた、歴史ある温泉だけあって、さすがに情緒たっぷり。実は私も温泉街育ち。石段街を見たときは、少年の頃にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。行き交う人の中から関西弁や東北弁が聞こえたり、さらには外国人がいたりで、伊香保の人気が分かる。石段街は一番下からてっぺんまで、300段以上。上りきったが、普段運動とは無縁の生活なので、さすがにこたえた。

石段街を下りて左側に曲がり、やや下ったところに「ハワイ公使別邸」というのがあった。旧ハワイ王国の駐日代理公使だったアルウィン氏が、避暑のために住んだ家だそうだ。質素な和風建物なので、看板が無ければ、気づかなかったかも知れない。ハワイへの日本人移民事業に尽力した人だという。1894年以降、移民事業終了までにハワイへ渡った日本人は約3万人。そして現在はハワイの3分の1が日系人だそうだ。
日本とハワイの友好の基礎を築いたこの先人も、伊香保の湯を愛したのだろうか。伊香保の人々との交流もあったに違いない。思わぬ歴史の一コマに触れ感動を覚えた。
どんな土地にもこのような歴史のドラマはあるものだ。これからも県内を「旅」し、温泉を満喫し、地酒を楽しんで、歴史に埋もれた群馬の小さなドラマに触れてみたい。
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