横浜が世界に扉を開いたのは1859年。以後、貿易港として発展した。戦前は日本の輸出品の半分が絹製品、その3分の1が群馬県産だった。両毛鉄道など鉄道網が整備されると、生糸や絹織物の東京方面への輸送に大いに貢献した。横浜港から輸出される絹製品は、当時の国家予算の3分の1に迫るほどだったという。
横浜の赤レンガ倉庫は、当時の様子を今に伝える貴重な建物である。群馬県から運ばれた絹製品はここに貯蔵された。現在は倉庫としての役割は終えたが、中に洒落たショップやカフェが多数入り、観光横浜のシンボルとなっている。様々なイベントも開かれる。この日はアニメか何かのコスプレ衣装に身を包んだ若者が大勢いた。女装した男性が異様に見える。中年世代の私には、何が楽しいのかさっぱり分からない。
日本を支える産業のさらなる発展を、という桐生市民の願いが叶い、織都・桐生に高等染色学校(現群馬大学工学部)が誕生したのは1916年だった。多くの市民も寄付をし、大きな期待を背負った学校だった。創立時の正門や講堂などが大学に保存されている。講堂内は長椅子が並び、高い天井にシャンデリアが下がる。まるでキリスト教の教会のようだ。厳粛な雰囲気の中で勉強していたであろう、当時の学生の姿が目に浮かぶ。
講堂入り口の脇にある銘板が気になった。よく見ると戦没学生の芳名録だった。太平洋戦争で戦死した学生の名前が並ぶ。学徒出陣により、学業半ばで戦場に散った先人達である。戦争の悲劇がここにもあった。青春を謳歌することもなく、志を断たれた秀才達の無念はいかばかりか。
県内には大小1万ほどの古墳があり、古墳王国と言われる。貴重な出土品も多く、太田で発掘された武人埴輪は国宝となっている。毛の国(群馬、栃木の古代名)に支配体制が形成されたのは4世紀頃と推定される。5世紀には東国随一の勢力を誇る大国となった。この頃から大規模な古墳が県内各地に造営された。県一帯は古代東日本の政治、文化において重要な地位を占めていた。 総社古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られた。JR群馬総社駅で降り、南東に5分ほどで民家に囲まれた総社二子山古墳が見える。6世紀の築造とされ、全長90㍍もある前方後円墳で、古墳群の中で最大を誇る。頂上にはこの墓の主、毛の国を支配した毛野氏の始祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の碑がある。しかし伝説上の人物ゆえ、ここが本当にその墓かどうかは分からない。
さらに南東の愛宕山古墳は、一辺が約56㍍の方墳で7世紀のものという。石室は見学出来る。石棺の埋葬者は誰かと古代へのロマンを掻き立てられる。記録の無い時代ゆえ想像するしかないが、早く全貌が明らかになればと思う。
総社小近くの宝塔山、蛇穴山古墳は古墳時代の終末期の方墳とされる。この頃になると大型の古墳は総社地域に限られてくる。大和王権の勢力がこの地域にも及んだ証拠で、総社地区の豪族が王権と結びつき、勢力を誇ったことを意味するという。これらは畿内の古墳や寺院と共通する先端技術で造られている。
毛の国が大きな勢力を誇った理由として、渡来人の貢献が考えられる。高崎の剣崎長瀞西遺跡からは、大陸の文物が多数発見された。轡などの馬具は特筆ものだという。古代日本人は馬を知らなかったので軍事、輸送・交易面で圧倒的な優位を誇ったに違いない。カマドも伝来し、食生活は飛躍的に向上した。上古の群馬人は極めて開明的だったのだ。その気風はぜひとも受け継いでいきたいものだ。
1850年12月21日(旧暦)、1500人の人々が見守る中、国定忠治は大戸の刑場で磔にされた。この罪人が処刑されて安堵した者はいなかったに違いない。皆悲しみ、無念さを抱えていた。処刑された瞬間、大きな慟哭がその場を支配し、泣き崩れる姿があちこちに見られたことだろう。
反骨を貫いた博徒国定忠治は、沢山の映画や舞台になり、有名な俳優が演じ続ける国民的ヒーローである。二十歳で佐波郡周辺を縄張りとする賭博集団「国定一家」を旗揚げした。殺人、関所破りを犯し、お尋ね者になった。権力側からみると大悪人である。しかし天保の大飢饉の時に、私財を投げ打ち、日本中で餓死者があふれる中、人々を救った。また灌漑用の磯沼の浚渫を行い、農民救済に励んだ。
大戸の関所破りは、信州で殺された義弟の仇を討つためだった。関所は外観が一部復元されている。前に立って忠治の心中を想像した。「博徒である自分に関所越えの許可など下りるはずがない。関所破りは死刑だ。しかし義弟の仇を討たねば男が廃る。ならば世法より義理人情を取ろう」。だが心の葛藤はあったらしい。近くの松の下で、関所破りをするかどうか逡巡したという。
処刑場所には忠治地蔵が建てられている。今なお参拝する人がいるのだろう。線香の煙が立ち込めていた。私も隣接する店で線香を買い求め、供えて冥福を祈った。磔になるまで実に16年間も逃げ延びた。捕まったのは脳溢血で倒れ、療養中の時だった。緻密な捜査手法のない時代とはいえ、対立する博徒や遺恨を持つ人間は相当いたであろうに。
今は女性の間で歴史がブームで、歴史に詳しい女性を「歴女」というそうである。特に戦国武将は注目の的で、六文銭の旗を掲げた真田氏も中々の人気だそうだ。真田氏は信州上田の小豪族に過ぎなかったが、武田信玄についた幸隆の卓越した諜報戦で、信濃の猛将村上義清を攻略し、勢力を伸ばした。
信州という土地柄、ゲリラ戦が得意でスパイを駆使した。弱小軍団が巨大な敵に挑むための知恵から生まれた、こうした戦法が「真田の兵法」である。真田のスパイ群像は沢山の物語になった。私も子供の頃、猿飛佐助や霧隠才蔵など、真田十勇士に夢中だった。上田城址を訪れた時は雨だった。しかし忍者が空想を駆け巡り、心が躍った。
沼田城も真田ゆかりの城である。1532年頃、沼田顕泰(あきやす)が築城した。沼田は関東と信州、越後を結ぶ要衝で、上杉、武田、北条といった戦国大名により、激しい争奪戦が繰り広げられた。戦いを制したのは武田方、真田昌幸だった。沼田を征服すると、長男信幸が沼田城主となり城を整備した。1597年に五層の天守も完成した。
1681年、5代目真田信利は江戸・両国橋の架け替えを命じられたが、台風と重税に苦しむ領民の反発で材木の納入が遅れ、期日に間に合わなかった。それが幕府の逆鱗に触れ、領地没収、改易となった。翌年、城は天守もろとも壊された。名城と謳われただけに、今あれば群馬の象徴になっていただろう。
徳川家康は真田との戦いで、何度も屈辱にまみれた。上田城攻めでは、圧倒的な戦力を誇ったが、昌幸の智謀に敗れた。大阪冬の陣でも、幸村率いる真田軍の奇襲戦法に辛酸をなめた。真田の旗印、六文銭は三途の川の渡し賃である。決死の覚悟で敵に立ち向かった。劣勢でも知略を巡らし強敵を苦しめる。この痛快劇が人々の心を捉えるのだろう。公園となった沼田城址を歩き、石垣を見ながら真田の盛衰に思いをはせた。
沢渡温泉は昔から、草津の上がり湯として知られる。強酸性の草津温泉で荒れた肌を戻す、「なおし湯」「仕上げの湯」と言われる。熱くて肌に突き刺すような草津と違い、柔らかな透明な湯で、肌に優しいのでそう言われる。源頼朝、木曽義仲などがこの湯で疲れを癒したと伝えられている。
ここは若山牧水が来遊したことでも知られる。1922年10月、軽井沢から水上を目指した牧水は、花敷温泉に一泊し、沢渡温泉へ向かう。途中暮坂峠で「枯野の旅」を詠んだ。 「長かりしけふの山路 楽しかりしけふの山路」(一部を抜粋) 歩いて峠に差し掛かったのだろう。紅葉の盛んな頃である。景色の美しさに旅の疲れも忘れ、感動したに違いない。それを「楽しかりし」と表現したのだろうか。現在峠には、マントを羽織った牧水の像と歌の碑がある。
沢渡温泉を目指し、峠を下ると旧大岩学校の校舎に出逢う。明治から昭和にかけて小学校として使われた。記念館になった、県内の昔の学校を何件か見ているが、みな近代的で瀟洒な校舎だった。茅葺屋根は初めてだ。ここでも牧水は歌を残した。 「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて垣よりぞ見る」(同) 人が来ると珍しそうに覗きに集まる、人懐っこい子供の姿が浮かぶ。私が小学校の頃、学校にたまに人が訪ねてくると、みな見物に窓際に集まったものである。子供の好奇心のなせる業だろう。人と人との繋がりが濃かった時代の光景である。
沢渡温泉は十軒ほどの宿が立ち並ぶ静かな温泉である。時折、杖をついた高齢者とすれ違う。温泉治療で有名な病院があるので、そこの患者だろう。リハビリテーションに励んでいるのだろうか。私の母親は田舎で一人暮らしである。介護の心配が頭をよぎる。自分の老後も心配だ。今の日本は介護が大きな社会問題となっている。安心して老後を迎えられる国にして欲しい。新政権に切に願わずにはいられない。
安中原市の杉並木は江戸時代初期に、中山道を整備する際に植樹された。冬は風よけ、夏は日陰になるようにとの、地元の人々の心遣いである。かつては1㌔ほどもあり、旅人の憩いの場となっていた。しかし時代が下るにつれ、立ち枯れ、風雨による倒木などで減っていった。今では十数本ほどしか残っていない。
バイパスが出来、中山道は旧道となった。しかし車社会の群馬ゆえ、車がひっきりなしに行き来する。車を降り、並木を見上げた。相当な高さである。一番高いものは40㍍以上だという。400年の歳月とは小さなものではない。かつて杉並木としては、日本最大を誇っていた。現在は新たな植樹が進み、並木の様相は保っている。
このあたりは、安政遠足マラソンの見学スポットになっていて、並木横のタンクにもマラソンの絵が描かれていた。元々は安中藩主板倉勝明(かつあきら)が、家臣鍛錬のために始めた。勝明は先取の気性に溢れた殿様だった。西洋軍制を採用し軍隊の近代化を図った。種痘を先駆けて実施し、また漆産業を興して窮民救済に励んだ。さらに新島襄の天賦の才能を見出し、勉学の後押しをした。先見性に勝れた名君であった。
次の藩主板倉勝殷(かつまさ)も新島に期待し、箱館遊学の援助をした。 そして西洋に憧れていた新島のアメリカへの密航を黙認した。当時、密航は重罪に値した。 ましてや板倉氏は幕府直結の譜代大名である。どんな刑罰があるか分からない。しかし保身ではなく、混迷深める日本の将来を考えたのだ。
安中藩は石高わずか3万石、家臣団300人ほどの田舎の小藩にすぎなかった。城は取り壊されたが、武家屋敷などが一部復元され残っている。武家屋敷は茅葺の長屋で、裕福とは言えない藩士の質素な生活ぶりがうかがえる。貧しい小さな藩であったが、近代日本の礎となり、日本の発展に貢献した安中藩の功績は決して小さくはない。
8月は終戦の月。戦争を知る人が少なくなっているだけに、その記憶を留める努力が一層必要だろう。昔のことは美化されやすい。戦争の記憶も例外ではない。戦争を正当化する人々がいる。軍国主義者に尊敬の念すら抱く人もいる。そのような考えを許してはならない。憎しみと争いでは何も解決しない。それを人類の共通認識にしなければならない。
玉村町の玉村八幡宮にある国魂神社は、玉村小学校にあった奉安殿を移築したものである。奉安殿とは戦前の学校にあった、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた建物のこと。四大節(紀元節、天長節、新年、明治節)の式典の際に、職員生徒全員で御真影に最敬礼をし、教育勅語が奉読された。普段でも登下校時や前を通る時は、敬礼が要求された。
雨上がりの昼下がりに訪ねた八幡宮の境内では、様々なセミの声が交錯し、夏の到来を感じさせる。しかし今年は梅雨が長引いた地方が多い。しかも激しい雨が降る。連日報道される豪雨被害に心が痛む。眩しい太陽に照らされる、暑い夏が待ち遠しい。終戦の日も暑い日だったというが、どんな様子だったのだろうか。
戦後、GHQの神道指令(国家神道の廃止命令)により、多くの奉安殿は解体された。神社は今では戦争の記憶を留める貴重な遺産である。現在は戦没者慰霊の神社となっている。玉村小では友好の印として戦前、アメリカから全国の小学校に贈られた青い目の人形「ルースちゃん」も健在である。戦争中、人形の焼却命令が出たので、これは奇跡と言える。
1945年9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリで、降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵(まもる)全権、連合国側はマッカーサー元帥が調印し、日本は新たな道を歩むことになった。アメリカでは、この日を終戦の日としている。ミズーリは現在、真珠湾に係留されており、一般に開放されている。巨大な大砲を何門も擁し、アメリカの力を誇示しているようだった。ミズーリは湾岸戦争に出撃した後、退役している。 戦後、中島飛行機の技術者達は、リヤカー、乳母車などを作り、糊口をしのいでいた。しかし中島飛行機が富士重工として再出発すると、技術者達は輝きを取り戻す。ラビットスクーターのヒットがあり、会社も復活の道を歩み始めた。1958年には、日本を代表する国民車「スバル360」を生み出し、モータリゼーション時代の幕を開けた。この車は戦後復興の象徴となった。それまで高嶺の花だったマイカーが、庶民の手の届くものになった。昭和の人々に夢を与え、車社会の到来を実感させた。 太田市郊外の利根川近くに、中島邸が残っている。少年の頃家出した知久平が、出世した後、両親のために建てたものだという。くすんだ肌色の壁が広い敷地を囲んでいる。中は木々が茂っていて見えない。他にも中島飛行機ゆかりのものはないかと探したが、見つからなかった。 高崎市の群馬の森にある、歴史博物館にスバル360が展示されている。なだらかな曲線の白い車体に、かつて世界一の飛行機を造った、最高の技術が凝縮されている。飛行機と同じ情熱を、技術者達はこの小型車に注いだ。今度はこの小さな車に、日本人の希望を乗せようとしたのだ。
常夏の島、ハワイは11月下旬でも暑い。照りつける太陽の下、様々な人種の人々が行き交う。日本人が多い。毎日3千人の日本人観光客が押し寄せるそうだ。真珠湾を訪れた日は、澄み切った青空が広がっていた。自然と心が弾む。ここは昔、真珠の養殖をしていたのでそう呼ばれる。 真珠湾に浮かぶアリゾナ記念館は、真珠湾攻撃で撃沈された、戦艦アリゾナの上に造られた「鎮魂碑」である。白い長方形の建物の中には慰霊堂があり、銘板に犠牲者の名前が書かれていた。その数1177人。前でじっとたたずむ車いすの老人がいた。友の慰霊に訪れた元兵士だろうか。70年近くたった今も傷は残る。海底に眠るアリゾナからは、油がわずかずつ漏れ、今も浮かんでくるという。犠牲者の涙と、アメリカ人は言うそうだ。 南部忠一中将率いる、ゼロ戦部隊約350機が、奇襲をかけたのは1941年12月7日(アメリカ時間)。容赦ない攻撃が真珠湾を襲った。兵士はなすすべもなく逃げ惑う。抵抗もかなわず、多数の兵士が海の藻屑と化した。日本軍はアリゾナ、オクラホマなど、21隻の軍艦を撃沈。2390人の米兵が死んだ。 奇襲部隊の主力である中島飛行機のゼロ戦は、大空に夢を懸けた中島知久平の下に集った、若き技術者の苦闘の結晶だった。1917年、従業員9人で、尾島(現太田市)の養蚕小屋から出発した、研究所がその原点である。技術者達は、大空に羽ばたく夢を持ち研究を重ねた。失敗ばかりで、「お米は上がる。なんでもあがる。あがらないぞい中島飛行機」と揶揄された。世界一の飛行機を造るという、執念と夢だけが彼らを支えた。