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上州をゆくTOPへ>上州をゆくバックナンバー61~70

●~ 球都・桐生を築いた名監督 ~

 球都という。桐生は戦前から県の高校野球界を牽引し、全国にその名をとどろかせた。県史上初の全国制覇を遂げたのは、1999年の夏、桐生第一である。球都・桐生の礎を築いたのは、桐生高校を春夏合わせて24回も甲子園に導いた一人の名監督であった。

 名将・稲川東一郎は当時珍しかった筋力トレーニングや足の速い選手の左打者転向など、今日では普通に行われていることをいち早く導入し、バントに盗塁といった「甲子園戦術」を確立させた。センバツでは1936年、55年の準優勝2回を誇る。東映フライヤーズ(現・日本ハム)で活躍し、通算三塁打日本記録を築いた毒島章一など、多くのプロ野球選手も育てた。

 55年のセンバツ。豪打・坂崎一彦(巨人、東映)擁する浪華商との決勝戦。桐生は坂崎の敬遠策に出た。あと一歩で何度も優勝を逃していた稲川監督が、非難覚悟で取った「必勝作戦」である。しかしエース今泉喜一郎(大洋=現・DeNA)にもプライドがあった。1点リードの6回裏、監督の指示を無視し、勝負に出た。打った坂崎の打球は無情にも右翼をはるかに超え、逆転本塁打となってしまった。桐生の優勝はまたもや夢と消えた。

寂寞とした桃井城址
▲県球界をリードした桐生

 ある学校の練習風景を見学した。甲子園目指し、練習に熱がこもる。グラウンドに掛け声が響く。汗まみれになり投球練習する投手、ノックの球に飛びつく選手…。金属音と共に打球が飛ぶ。応援団も練習に頑張っているのだろう。太鼓の音が聞こえてきた。

 私の同級生が母校で監督をしていた。今はその息子がエースとして活躍している。我が母校の戦いも気になる。勝者と敗者に必ず分かれるのが勝負である。非情とも言えるが、そのコントラストが人々を引きつけるのだろう。稲川監督は67年4月、伊勢崎球場での春季県大会の試合中、突然倒れ、ユニホーム姿のまま脳出血で息を引き取った。享年61。野球の神様に導かれた様な生涯であった。

発掘調査の進む城址
▲全国制覇を遂げた桐生第一

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●~ 渦まく風に― 郷土詩人の思い~

前橋の苗ケ島(旧宮城村)出身の詩人・東宮七男(かずお)は、萩原朔太郎と親交を持ち、群馬師範(現・群馬大学教育学部)を出ると宮城小、大胡小などに奉職した。後には群馬ペンクラブの会長、県文学会副会長を務め、上毛カルタの編集にも携わった県文壇の重鎮である。功績を称え80歳の時、詩碑「花なればこそ」が広瀬川にかかる久留万(くるま)橋近くに建てられた。

寂寞とした桃井城址
▲奉職した宮城小学校

夕焼け熟れ
わくらば花のごとく燃え
渦まく風に
追われつ追いつ
きびしきあらがい夢と化す
うつせみの花を求めつ
今日もまた
暮れゆく川辺をさまよう
(花なればこそから抜粋)

 「夕焼け」で始まるこの詩は、晩年に差し掛かった自己の生き様を詠ったのだろうか。「渦まく風」とは不条理に満ちた社会、いやそこで生きねばならない自らの運命か。詩人としての人生を選択した以上、歌詠みとしての高みを目指す苦悩が続く。詩作とは人生の真実に迫る作業だ。人生の真実を探すことは何と苦しいことか。うつせみ(セミの抜け殻)の花を求めるような難事に違いない。

発掘調査の進む城址
▲詩碑「花なればこそ」

老衰したと他は嘲うが
わたしは
冬の赤城山が好きだ
(略)
カスリーンやアイオン、キティを恨まず
頭の白髪や禿げあがりを
気にもとめず
颯爽と
とぼけているではないか
(冬の赤城山から抜粋)

 冠雪した赤城山を自身に例えているのだろうか。年を重ねると淡然としてくるものだ。それを世間では「枯れた」などと言う。しかし詩人はそれを良しとしない。県を襲い甚大な被害をもたらした台風は、人生に襲う試練を表しているのだろうか。それらを乗り越え、詩人は颯爽と詩の道を行く――何が起きてもびくともせず、悠然と下界を見下ろす赤城山こそ、詩人の求める姿なのである。

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●~無名の偉人が成し遂げた大偉業~

 みどり市大間々博物館(別名コノドント館)は、1921年に建築された旧大間々銀行本店営業所だったものである。1883年に開業し県下では前橋と館林にあった国立銀行に次ぐ3番目の銀行だが、私立銀行としては群馬県で最も古い。

 全体がこげ茶色のタイルで造られた洋風建築で、窓や玄関に横に走る白い模様が印象的である。これは御影石(花崗岩)をアクセントとして用いたそうである。大間々銀行は群馬大同銀行(後の群馬銀行)と合併し、その支店となったが、支店が移転する際、大間々町(当時)が買い取り改装して博物館とした。

寂寞とした桃井城址
▲元は銀行だったコノドント館

 コノドントとは聞きなれないが、何のことかと思い同博物館に行って調べてみた。 19世紀にラトビアのパンターという学者が世界で初めて発見し、円錐状の歯という意味のコノドントと命名した化石のことだそうである。6億年前~1億8千万年前の地層にある微細な歯状の生物の化石だという。その生物の正体は何かと世界中で研究されたが、現在ではヤツメウナギに似た海洋生物だとされている。日本では1958年、群馬大の学生だった林信悟さんが旧黒保根村の山中で初めて発見した。

 展示写真を見ると手か何かの骨のようだった。実際には1ミリにも満たない化石で、よく発見出来たものだと思う。その執念と観察眼に驚嘆せざるを得ない。当初は信じてもらえず、証明に苦労したそうだが、外国の研究者に本物と断定された。この発見により日本列島の形成の謎が解け、列島の誕生は約2億年前と判明した。

 コノドントは、脊椎動物と無脊椎動物の中間にある生物の歯と考えられ、生物の進化の謎を解くカギとして注目されている。この発見は岩宿遺跡の旧石器の発見に劣らない偉業ではないかと思う。教職に就きながら生涯をコノドント研究に捧げた林さんの功績はもっと讃えられていい。本当に偉大な人とは脚光を浴びることはなくとも、自ら信じた道を貫き通した人のことを言うのだと思う。

発掘調査の進む城址
▲コノドントの拡大写真

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●~二城を構えた桃井の里~

吉岡町の桃井城と同じ頃に存在したもう一つの桃井城が榛東村にあった。吉岡町にあったものは東城、榛東村にあった城は西城と呼ばれていた。一方が攻撃を受けるともう一方が助けるというように二つの城が互いに補い合う関係で、この様な形態を「別城一郭」と言うそうである。

 昔は、吉岡町と榛東村は一緒の村であり、桃井の里と呼ばれていた。平安時代の地頭で源頼朝に随兵した藤原八郎は桃井と改姓し、さらに鎌倉時代、清和源氏の一族足利義胤(よしたね)が支配するようになると、やはり桃井に姓を改めている。以後その子孫の桃井氏が支配したが、戦国時代には長野氏の配下になった。その後、武田氏、北条氏が治め、北条氏が滅ぶと両城とも廃城となった。

 新田義貞が鎌倉幕府討伐の挙兵をした際、従ったものはわずか150人にすぎなかった。その中に桃井義胤の末裔、桃井尚義がいた。尚義は義貞によく従い、戦を共にした。同志だった足利尊氏は後醍醐天皇に背いたが、新田義貞、桃井尚義は天皇に従った。しかし越前(福井県)、藤島の戦いで二人とも戦死したと伝えられる。

 吉岡町の東城同様、ここも城は残っていない。しかし東城の方は城のあった丘が目立つのでまだ城の存在を意識させるが、ここは平地だったためか、城跡に民家が立ち並び田畑もあって城の形跡すらない。わずかに鳥居と社が「記念碑」としてあるだけだ。

寂寞とした桃井城址
▲城跡の鳥居と社

 「城跡」にある白梅がちょうど満開だった。今年は春の歩みが遅く、冬がいつまでも居座っていたが、やっと暦通りになって来たようだ。しかしコートは脱げない。私は北国育ちで寒さには強いと思っていたが、体がいつの間にか関東の気候に馴染んでしまい、子供の頃のように寒風の中でも平気とはもういかない。人間が変わるように土地も変わっていく。しかし自分を育んでくれた大地を忘れようはずがない。郷土を大切にする意味でも、かつてあった城の記憶は残していって欲しいと願う。

発掘調査の進む城址
▲城跡の満開の白梅

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※「榛東村中央公民館(榛東村山子田797)のすぐ北」

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●~足利尊氏に対抗した南朝の英雄~

 鎌倉幕府を滅ぼし、天皇親政の理想に燃えた後醍醐天皇は新しい政治を実現させた。これを建武の新政という。しかし倒幕に協力した武士勢力は自分達の武家政権を望み、天皇に反旗を翻した。その中心者・足利尊氏は光明天皇を立て、征夷大将軍となり室町幕府を開いた。

 後醍醐天皇は大和の南、吉野に逃れ自分こそ正統な天皇であると主張し、幕府と対立した。ここに約60年にわたり二つの朝廷が並立、日本が二分された南北朝時代が到来した。吉野の朝廷は京都の南にあることから南朝と呼ばれ、それに対し幕府の後ろ盾のある朝廷を北朝という。

 吉岡町にはかつて、地元の豪族、南朝の武将・桃井直常(もものい・ただつね)が築いたと伝えられる桃井城があった。今はただの小高い丘にしか見えない。上ると笹がうっそうと茂り、そこを抜けると土塁跡があった。周りは畑になり、そばに浄水場もあった。建物の土台に使用されていたと思われる穴の開けられた石が露出していて、わずかに城の名残を留めている。

寂寞とした桃井城址
▲寂寞とした桃井城址

 発掘調査をしているのだろう、作業個所にはブルーシートが被せられていた。当時の生活を伝える文物など出土しているのだろうか。寂寞とした土塁跡の隅に一本の木があった。その横の説明版には「城跡は農地開放のため開発が進められ、殆ど原型を残していない」とある。少し切ない思いがした。歴史の風化を防ぐためにも何とか復元出来ないものだろうか。

桃井直常は足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅亡させたが、後に尊氏と対立し南朝について尊氏方と戦うことになる。一時は尊氏を京から敗走させるなど勇猛果敢に戦ったが、1371年、力尽き幕府軍に敗れた。その後の消息は不明で、終焉の地についても判明していない。一説には桃井城に隠棲したとも言われる。吉岡町の南下田中には直常夫妻の供養塔がある。北朝と南朝の対立は長引き全国的な動乱が続いたが、1392年、3代将軍・足利義満の時代に統一された。

発掘調査の進む城址
▲発掘調査の進む城址

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●~「相撲の神様」と埴輪のお話~

相次ぐ不祥事で人気に陰りが見える大相撲だが、私の少年時代は柏鵬の全盛時代で今よりもはるかに注目度が高かった。しかし一方の雄柏戸は怪我が多く休場がちで、実際には大鵬の独壇場だったように記憶している。それでも大鵬の他、起重機明武谷、後の横綱北の富士など私と同郷の個性派力士が暴れ回り、場所中はテレビにかじりついていたものだ。

 藤岡市の土師(どし)神社は相撲の始祖として、日本書紀などに登場する野見宿禰(のみのすくね)を祀った神社である。境内には「土師の辻」と呼ばれる土俵があり、明治以降は利用されていないが、江戸時代までは出世力士がここで披露相撲を行うのが慣例だった。それは晴れて幕内に昇進した力士だけに許された特権だったという。

力士晴れの場「土師の辻」
▲力士晴れの場「土師の辻」

 野見宿禰は埴輪の考案者とも言われている。それまでは王が死去すると、家来まで生きたまま埋葬されていたが、これでは残酷極まりないと、人形(埴輪)で代用することを提案したそうである。実際に人間を生き埋めにする風習が日本にあったかどうかは疑わしいが、野見宿禰の「人情味」を伝える「お話」ではある。

 藤岡市一帯は良質な粘土層に恵まれ、古代から瓦の生産が盛んであった。現在でも特産品の一つとして知られる。瓦は埴輪にも利用され、神社近くの本郷埴輪窯址は5世紀後半~6世紀後半に使われたことが確認されている。県内各地の古墳にも副葬品として多数供給されたことだろう。

「本郷埴輪窯址」(ほんごうはにわかまあと)
▲今に残る「本郷埴輪窯址」(ほんごうはにわかまあと)

 野見宿禰の功績で一族は土師(はじ)姓を賜り、古墳や埴輪作りの中心を担った。埴輪は人物、家屋、武具・農具などをかたどり2千年近く前の古代人の生活を現代に伝える。実物を見た人は誰でもその精巧さと芸術性の高さに驚愕するに違いない。窯址は小屋の中に一部保護され保存されている。当時はもっと広く多数の職人が働いていたのだろう。現代人をも魅了する卓越した技を持つ職能集団の、軽やかな手さばきが見えたような気がした。

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▲小栗が身を寄せた東善寺
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●~ 近代日本を開いた信念の「幕臣」 ~

「費用をかけて造船所を造っても完成する頃には幕府がどうなっているか分からないではないか」「幕府の運命に限りがあろうと、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが日本のためになって、徳川の仕事が成功したのだと言われれば徳川の名誉ではないか」――幕臣と小栗上野介は激論を重ねた。

 徳川幕府は1860年、日米通商条約締結の批准書交換のため使節をアメリカへ派遣した。その一人が34歳の小栗上野介忠順(おぐりこうずのすけ・ただまさ)である。巨大な文明国で、民主主義や株式会社、銀行、通信・郵便制度などを学び、明治政府に引き継がれた。帰りはアフリカ~インドネシア~香港を回った。目の当たりにしたのは列強に蹂躙され奴隷として売られるアフリカの人々、占領され外国人が我が物顔で闊歩する香港だった――「日本がこうならない保証などない」

 アメリカで見た造船所は、造船だけではなく大砲、小銃、砲弾などを造る総合軍事工場であった。「必ず日本に必要なものになる」――確信した小栗は反対を押し切って横須賀に造船所を建設したのだった。

 晩年は、倉渕(現・高崎市)の東善寺に身を寄せた。しかし謀反の恐れありと無実の罪を着せられ、1868年、官軍により烏川の水沼河原で斬首された。一切弁解しなかったという。東善寺には遺品やその生涯をたどった写真、絵画が展示されている。横須賀市から寄贈されたという胸像は随分若く見えた。処刑時は私よりはるかに年下、当然か。

 寺の裏山の、竹林の中にある急な石段を上り、墓に対面した。近代日本の礎になった悲劇の偉人である。手を合わせ冥福を祈った。斬首から44年後、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が遺族に謝辞を述べた。「日本海海戦でロシアに勝てたのは、小栗さんが造船所を造ってくれたおかげです」。汚名を晴らした瞬間であった。今はここ倉渕の地で、この国の来し方行く末を静かに見守っている。


▲小栗上野介胸像

▲反戦の象徴「雲昌寺」
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●~「ビルマの竪琴」その後~

反戦文学の名作「ビルマの竪琴」の主人公、水島上等兵のモデルとなった中村一雄さんは昭和村にある雲昌寺の住職だった。出身は松井田町(現安中市)で、13歳で仏門に入った。1938年に召集されフィリピン、タイなどで戦闘に参加、多くの同僚を失った。生き残った戦友と共に終戦はミャンマー(ビルマ)で迎え、英国軍の捕虜となった。

 中村さんが所属した部隊は元オーケストラの楽団員を中心にコーラス隊を結成し、「うたう部隊」と呼ばれた。戦時下では禁止された「埴生(はにゅう)の宿」「オールド・ブラック・ジョー」など「敵性音楽」も歌い、中村さんはコーラス隊の中心メンバーとして活躍した。捕虜生活の中でも中村さん達は歌を歌い、戦死者を供養する日々を過ごしたという。

 文学者の竹山道雄の教え子が同じ隊におり、中村さんのことを聞いた竹山が中村さんをモデルに書いた小説が「ビルマの竪琴」と言われる。小説の水島上等兵は贖罪と戦没者の供養のため現地に残るが、中村さんは復員し雲昌寺の住職となった。そしてミャンマーに慰霊塔を建立し、小学校を寄贈するなど慰霊と友好に尽くした。

 境内で住職の家族らしい婦人が庭の花の手入れをしていた。「ビルマの竪琴のモデルになった方の寺院がここですね」「群馬県にこんな立派な人がいて誇らしいです」と話すと、少しはにかみながら微笑んでいた。今の住職は何と23代目だそうである。ここは江戸時代から続く由緒ある寺院なのである。

 雲昌寺には江戸時代、大火から寺を守ったとされる大ケヤキがある。大火の語り部としての大樹を見ながら、中村さんも平和の尊さを後世に伝えねばと思っていたのだろうか。筆舌につくせぬ恐怖と苦しみを味わっただけに、戦争の残酷さは人一倍身にしみていたに違いない。後年、自らの体験を元に児童文学の傑作「ビルマの耳飾り」を出版され、戦争について後継に伝えようとされた。


▲復興を見守った大ケヤキ

▲名曲「丘を越えて」歌碑
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●~名曲「丘を越えて」誕生の地~

 戦前に青春を謳歌した世代には懐かしい「丘を越えて」の歌碑が浅間山を望める北軽井沢(長野原町)の浅間牧場にある。この曲は古賀政男が母校明治大学のマンドリンクラブの合奏曲として作曲し、それに島田芳文が詞をつけたものである。1931年に藤山一郎が歌い大ヒットした軽快なリズムを懐かしむ人も多いだろう。

さすがにここまで来ると浅間山は大きな山である。どっかりと腰を下ろし我々を見下ろしているようでもあった。歌碑は牧場の丘の上にある。牧場を見渡せる歌にふさわしいロケーションで、歌の世界に入り込んだような気持ちになる。訪れたのは 月の中旬だったが、秋だというのに日差しが強く汗ばむような陽気だった。何組かの親子連れも散策を楽しんでいた。

詞を書いた島田芳文は福岡県出身で早稲田大学に学び、在学中は弁論部に属していた。政治家に興味があったようだが卒業後は詩人となった。農民の生活を多く詠みながら、一方で当時のコロムビアレコードの専属作詞家として流行歌の作詞も手掛けた。他にも「キャンプ小歌」「スキーの歌」が藤山一郎の歌唱でヒットした。

島田芳文は北軽井沢に愛着を持ち、何度も訪れたこの地をイメージして「丘を越えて」を作詞したそうである。歌碑から牧場の向こうを見渡すと遥か彼方まで高原が広がる。見ているだけで解放感に浸ることが出来、気持ちが良く心も弾む。この光景から着想を得たのだろうか。

不況は長引き閉塞感が漂い、将来に夢の持ちにくい時代となってしまった。しかしこういう時代だからこそ「希望」を失いたくないものだ。希望を持つ限り青春は終わらない。「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」(サミエル・ウルマン「青春」から)。老いとは年を重ねることではない。「丘を越えて」は現代の我々に送られたエールの様な気がしてならない。


▲緑の美しい浅間牧場
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