●~二城を構えた桃井の里~
吉岡町の桃井城と同じ頃に存在したもう一つの桃井城が榛東村にあった。吉岡町にあったものは東城、榛東村にあった城は西城と呼ばれていた。一方が攻撃を受けるともう一方が助けるというように二つの城が互いに補い合う関係で、この様な形態を「別城一郭」と言うそうである。
昔は、吉岡町と榛東村は一緒の村であり、桃井の里と呼ばれていた。平安時代の地頭で源頼朝に随兵した藤原八郎は桃井と改姓し、さらに鎌倉時代、清和源氏の一族足利義胤(よしたね)が支配するようになると、やはり桃井に姓を改めている。以後その子孫の桃井氏が支配したが、戦国時代には長野氏の配下になった。その後、武田氏、北条氏が治め、北条氏が滅ぶと両城とも廃城となった。
新田義貞が鎌倉幕府討伐の挙兵をした際、従ったものはわずか150人にすぎなかった。その中に桃井義胤の末裔、桃井尚義がいた。尚義は義貞によく従い、戦を共にした。同志だった足利尊氏は後醍醐天皇に背いたが、新田義貞、桃井尚義は天皇に従った。しかし越前(福井県)、藤島の戦いで二人とも戦死したと伝えられる。
吉岡町の東城同様、ここも城は残っていない。しかし東城の方は城のあった丘が目立つのでまだ城の存在を意識させるが、ここは平地だったためか、城跡に民家が立ち並び田畑もあって城の形跡すらない。わずかに鳥居と社が「記念碑」としてあるだけだ。
▲城跡の鳥居と社
「城跡」にある白梅がちょうど満開だった。今年は春の歩みが遅く、冬がいつまでも居座っていたが、やっと暦通りになって来たようだ。しかしコートは脱げない。私は北国育ちで寒さには強いと思っていたが、体がいつの間にか関東の気候に馴染んでしまい、子供の頃のように寒風の中でも平気とはもういかない。人間が変わるように土地も変わっていく。しかし自分を育んでくれた大地を忘れようはずがない。郷土を大切にする意味でも、かつてあった城の記憶は残していって欲しいと願う。
▲城跡の満開の白梅
●周辺MAP
※「榛東村中央公民館(榛東村山子田797)のすぐ北」