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 このページでは、そのような事情で、「こぼれてしまった話」「うら話」「業界だけのないしょ話」などをご紹介したいと思います。

大々的に報道されなかった話・・・でも、これが実は面白かったりするんですよ♪
アイドルと横浜   (2008年8月11日更新)

 その人が入場してくると、目ざとくその存在に気がついた数人から「真理ちゃん!」と声がかかった。

  100人も入れば満杯の小さな映画館で、居合わせた客はまばらな、30人ほどだろうか。真っ赤な夏ジャケットをまとい、小太りの、小柄なその女性はスクリーンを真近かに見上げる前列2列目中央席に、白髪の男性とともに座った。周囲を意識したか、小さく会釈をして手を振った。表向きは、「お忍び」と言うことだったが、ファンからの声に思わず反応してしまうのは、その「生い立ち」を考えれば、当然の習い性であろう。上映前のわずかな時間だったが、彼女のかつてのヒット曲が流され、館内に漂う空気は何やら30年前の、「昭和」である。

  7月の終わりから8月にかけて、横浜にある映画館「ジャック&ベティ」で「第1回横浜黄金町映画祭」が行われた。黄金町−つい数年前まで特殊飲食店が立ち並び、かつて水路とだるま船、水上生活者の目立った、マイナスイメージで知られたこの場所だが、その失せかけた妖気に何を感じたか、若者たちが集まって映画祭を開いた。映画が主体のイベントではあるが、その先にあるのはこの街の、過去をベースに未来を模索する、新たな文化づくりである。

  “アイドル”天地真理がここを訪れたのは、彼女の絶頂期に製作された映画「虹をわたって」(1972年、松竹)が久しぶりに上映されるからである。沢田研二、萩原健一(なんと端役!)ら当時の人気者が共演しているのは、それだけ「天地」人気がすさまじく、それを当て込んだからで、さすがに気が引けたか、客寄せ映画で終わらせないために有島一郎、武智豊子ら大物俳優でしっかり脇を固めた。裕福な令嬢がだるま船に紛れ込んだために巻き起こる騒動を描く、オール横浜ロケで、ストーリーは取るに足らない。

  ただし、映像には横浜の風景がふんだんに登場し貴重である。戦後混乱期にありがちな、上層、下層市民とにきっちり腑分けされた、この街の仕組み、「かつて」を教えてくれる。巨匠・黒澤明の描いた映画「天国と地獄」は黄金町が舞台になった。この映画祭がこの地で開催されたのはそういう事情もひとつ、あったからである。

  「若いときの私を見て、どきどきしちゃいました。ありがとうございます」。上映後、天地真理は感激の面持ちで、もう一度、客に会釈をし、お忍びではあったが、ファンの申し出に気軽に応じて、ちょっとしたサイン会の様相になった。

  映画祭の、本来の趣旨とはいささか場違いな風景ではあったが、しかしそれは、「天地真理」の罪ではない。

「ガンバレ」記念日   (2008年6月28日更新)

 先日、神田神保町の、老舗の洋食屋で待ち合わせをした。2階の4人席、ガラス張りのここは古書店街を見渡す、毎度お目当ての特等席である。注文もせず、ぼんやり人の流れを眺め、知人の到着を待っていたら、店の女将と思われる人物が「お暇つぶしになれば」と小冊子を届けてくれた。こういう気の利いた、ちょっとした所作が下町風で、いかにもうれしい。
  
  それはともかく、小冊子を取り上げると「月刊文化情報誌・ほんのまち」とある。神保町あたりのタウン誌であろう。パラパラとめくっていたら、「『前畑がんばれ』は何回叫んだか?」という見出しに思わず手が止まった。筆者は山川正光さん、書き出しに「日本では毎年八月十一日を『ガンバレの日』としています」とある。

  1936年(昭11)のこの日、ドイツで開催されたベルリンオリンピックの、女子200b平泳ぎ決勝で、前畑秀子さんが優勝した。その時の、NHK河西三省アナウンサーが「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」と何度も叫んだ実況中継が話題になり、制定されたそうだ。

  勉強不足でお恥ずかしい限りだが、初めて聞く「記念日」だった。山川さんの、記事の一部を引用したい。

  当時の、ラジオの普及率は約20lで、しかもこのレースは時差の関係で、日本では深夜午前2時頃に「号砲一発」。この快挙は翌日の新聞やラジオで伝えられるのだが、当然、「再放送!」との声が国民からあがり、ただし「その頃のNHKには録音する装置がなくいろいろ探したところ、ポリドールレコードのエンジニアがレコード盤に録音していた」ことが判明した。当時のラジオは雑音がひどく、さらに短波放送で送られてくる実況は電波の状態が安定せず、エンジニアたちは苦労してこの放送を収録したそうだ。

  さて、その河西アナは一体何回「がんばれ!」を絶叫したのか。

  「単語としては『がんばれ』『リード』『勝った』に分かれ、その前に『前畑』がつくのとつかないのとが入り乱れて六十回以上になります」。前畑さんの、このときのタイムが3分3秒6だから、単純に計算して3秒に1回の「がんばれ」ということになるか。資料をみると、これまでの「がんばれ」伝説は「36回」が定説だったようだから、この山川さんの記事の「六十回以上」は新説ということになるのだろうか。放送された以外の部分をもレコード盤は収録しているのかもしれない。

  北京五輪が近づいている。「着れば世界新」という魔法の水着が登場し、なにやらかまびすしいが、それはそれ。テレビ桟敷の住人は前畑さん、河西さんにあやかって、「がんばれ」を連呼してみたい。

地域格差 】  第70号  

 東京はすっかり葉桜になってしまったが、やはり日本は広い。山形へ4月7日、取材を兼ねて行ってきた。天童近くの町だったが、桜はまだ、つぼみの状態で、地元気象台の開花予想は13日ということだった。

取材を終え、そのまま帰京という手もあったが、せっかくここまで来たのだから、と新庄、酒田へ足を伸ばした。作家・藤沢周平さんが亡くなってもう10年が経とうとしている。その故郷・鶴岡へ、そして出羽三山の月山、羽黒山、湯殿山も眺めてみたい、と欲張ってみたが、一泊二日でが叶わない。とりあえず酒田で宿を取った。

予約を入れたホテルは予想外というか、市街地から遠く離れ、タクシーで、そこそこの料金を取られる。夕刻、チェックインし、町までのバスの時間を調べてもらったら、最終便が午後5時半すぎである。「こりゃ、不便な。町からの帰りは、またタクシーか」と少々不機嫌になった。まぁ、東京並みのサービスを要求するのが間違いで、しぶしぶ最終バスへ乗り込んだ。

繁華街は「中町」である。初めての土地で、しかも港町なら、うまい魚も食べられるだろうと胸をふくらませたが、停車場を降りて驚いた。町は暗く、シャッター通りとはこのことかと目を丸くした。人通りも少なく、ネオンサインも見えるが、明かりだけで、営業しているのかも判然としない。

とりあえず、1軒の赤提灯に入ったが、引き戸を開けると、店の主人と思われる男性が煙草をふかしており、突然の客に慌てて灰皿を隠した。「毎日、こんなものなの?」と尋ねてみたら「(統一地方選の)投票日前日でしょ。昔なら饗応が当たり前だったから、飲み屋も忙しかったんだけど、今頃そんなことをやったら、警察のお世話になっちまうからね。それにしても、中町も寂れたものですよ」。

「魚のうまいヤツ」と頼んだら、烏賊の刺身を作ってくれた。おいしかったが、亭主と2人だけのカウンターでは気勢が上がらない。

「地方都市はみんなこんなものですよ。なんとか打開策を見いださないと、と我々もキャンペーンを張っているのですが、なかなか活性化への決め手も無くってね」と地元記者が後日、話してくれた。

格差、格差と言われるご時世。給料ばかりではない。東京に居てはわからない、地域格差を思うと、飲んでいる酒も、味が今ひとつだった。

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【仲間由紀恵さん】  第65号 −その2− 

 見知らぬ土地へゆくと、まず地元の市場、図書館、博物館を訪ねる。市場の人いきれで概ね街の活気が知れるし、うまいものもわかる。図書館、博物館ならばその土地の歴史をかいま見ることもできる。

取材で先月末、沖縄・石垣島へ行って来た。初めての土地で、例によって地元探索「3点セット」を回ってみた。市場でマグロ、タコの刺身(これが実にうまい、安い)、かまぼこ(1個70円だった)を立ち食いし、図書館でガイドブックに目を通し、博物館で遺跡を見物した。

小さな郷土博物館で、訪ねたのは私ひとり。館員もひとりだけで、白髪の、年の頃なら70代といったところだろうか。いかにも博物館員という風貌で、背が低く、髪は大きく乱れ、容姿には関心がなさそうである。円形の土器のようなものを虫眼鏡でのぞき込み、いかにも研究中という風情だ。

いくつかの発掘された遺跡を眺めていたら、こんな記述にぶつかった。

「仲間第一貝塚は、石垣島の仲間川の北側河口近くにあり 、海抜約4mの砂丘上に形成されている。石斧・叩き石・磨石などの石器が出土し、土器が一片も見つかっていないことから、無土器遺跡ということで新石器時代の無土器貝塚と判明した」

目を引いたのは「仲間」という地名である。仲間、といえばタレントの仲間由紀恵。つまらない発想をしたものだ。とはいえ彼女は沖縄出身だよなぁ。なにか関係があるのではと、くだんの館員氏にお尋ねした。声をかけると一瞬「ギョェ!」という表情を浮かべ、なんだか狼狽している。見るからに研究者っぽいし、人擦れしていないんだよなぁ。

「仲間って、あのタレントと関係があるんですか?」

「仲間という地域がありまして。正確には『中間』と書くのですが」

そう言えば福岡に中間市というのがあった。関係ないのかな。それにしても石垣島から福岡まではいかにも遠いし、日本人南方説はそれなりの説得力もあるけど、どんなもんだろうか。

「中間(なかま)という支配者がありまして、上間、中間、下間と3つに分かれていたそうです。この地名を取ったのですが、その時、支配者に遠慮して中間には人偏(にんべん=仲間)をつけたそうです」(多分そんなことを言ったような気がするが。違っていたらごめんなさい)と館員氏。

「ふーん。じゃあ仲間由紀恵とも関係ありそうですね」と言ったら

「ええ、あの地域は美人が多く出る土地として有名でして」

研究者然とした館員氏、破顔一笑。なんだ「石部金吉」(女に迷わないような人、という意味だよね)かと思ったら、なかなか楽しいじゃん、石垣島。

【明けましておめでとうございます】  第65号 −その1− 

 11月の異動で、17年ぶりに再び現場に出ています。やはりこの手の商売は現場が何よりです。いろいろな場所を訪ね、いろいろな人たちに会って生き返ったような気がします。管理職生活で少々傲慢になっていた自分がちょいと恥ずかしい気もしています。

 さて、1年の終わり、新年の始まり。皆さんはどう過ごされたことでしょう。実は毎年、正月に読み直す詩があります。僭越ながらご紹介したいと思います。有名な詩ですからご存じの方も多いかも知れません。このように生きたら素晴らしいとは思うのですが、正月も三が日が過ぎるとどこへやら、凡人の悲しさです。

ささやかなお年玉のつもりで。エドガー・A・ゲスト、素晴らしい詩人です。

私はこうありたい――より勇敢で 大胆に
もう年なのだから いま少し賢く
出会う人々に もう少し優しく
敗北に対して もっと雄々しく
これが新年の私の願い 私の祈り
神よ 真の人間に なさしめたまえ

私はこうありたい――いま少し洗練され
もっと微笑み ぐちを少なく
立ち上がりにもがいている人々へ
より早く 手をさしのべたい
これが新年の私の祈り
神よ 真の人間に なさしめたまえ

私はこうありたい――いま少し公平に
より優れ より正確に
すぐ咎め立てや 非難することなく
あらゆる人を助け
人の欠点に むきにならない人
神よ 真の人間に なさしめたまえ

私はこうありたい――いま少し誠実に
願うだけでなく 行う人に
より広く より大きく 進んで人に与え
隣人に手を貸しつつ ともに生きる人
これが私の新年の願い 私の祈り
神よ 私を真の人間に なさしめたまえ

追伸 1月から日刊スポーツ社会面で連載を書きます。精神は、このコラムの延長線のつもりです。お暇でしたらご一読を。


【椎の実、拾った】  第64号 −その2−
 11月21日の各紙は、奈良・西大寺旧境内からクリやカブなど季節の食材名や、産地を記した10世紀末ごろの木簡が見つかったと報道している。ウメ、クルミ、トウガンなど植物の種子も大量に出土。さらには酒を支給した記録もあり、奈良文化財研究所では「ひと仕事終えた後に、僧侶たちも酒をたしなんだのでは」と推測している。

先日、取材のため都内のある郷土博物館を訪ねた。武蔵野台地の南西、縄文時代の土器などが多く出土している地域である。野球の話題を追っての訪問で、遺跡とは無縁の取材ではあったが、終了後学芸員の女性が「博物館の裏に大きな椎の木があります。昨晩の大風で椎の実がたくさん落ちていますよ」と声を掛けてくれた。

ふと子供の頃を思い出した。大きな寺の裏にひょうたん池があり、その周辺に椎の木が密集していた。秋になると紙袋を携え、この森に入り込んだ。両手に一杯拾い、それを持ち帰ってフライパンで煎ると、なんともおいしいおやつになった。クリのようでもあり、落花生の甘みもあった。後年、同じフライパンではあったが、最後にバターを溶かし込んだら絶妙の、酒の肴になった。

縄文時代は椎の実のほかに、ドングリも食べた、と古い資料にある。土を練り土器の底になる小さな円形の土台を作る。残った土を太めの糸状に伸ばし、これを土台からとぐろ状に巻き上げてゆくと円筒形の原型ができあがり、ならした土器の表面に縄で文様をつけてゆく。これが縄文土器という。なぜ縄状の紋を付けたのか、解明されていないはずである(と、教えられているが)。

これを乾燥させ、仕上がったところで水を張り、ドングリなど木の実を煮る。実際に縄文人よろしくやってみた事があるが、ドングリだけはまずくて食べられなかった。「こんな味が縄文時代には受けたのかね」と考古学を専攻する知人に尋ねたら

「団栗の 寝ん寝んころり ころりかな」

と、かわされた。一茶の句だそうだ。まぁ、そんなつまらんことなど考えずに、どすんと土手に寝ころんで、秋の空でも眺めながら「寝んころり」ということか。

郷土博物館裏の椎の実は思いのほか拾えて、ふた握りほどになった。

会社からの帰り道、日雇いの、労働者達の集まる酒場で試しに煎ってもらったら、居合わせた男達が、子供時代の、田舎の思い出話を次々と開陳し、椎の実もうまかったが、ひとしきり酒宴の盛り上がったのは、何よりの酒の肴だった。

 

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【消えた名前】  第64号 −その1−
 ある地方紙のスポーツ欄に奇妙な記事が掲載された。中学生の運動大会の記録なのだが、優勝者と、3位入賞した選手の名前はあるものの、準優勝した選手の名前、記述が見当たらない。もっとも、その日の紙面には他の大小あまたの、スポーツ大会の記録がぎっしり詰め込まれていて、ザッと目を通したくらいでは、その欠落は気が付かないだろう。

案の定、読者からの問い合わせはなかったようである。だが、編集した新聞社側はこの体裁による記載掲載に頭を抱えたはずである。なにしろ準優勝した選手自身から記録掲載を断られたのだから。これまでの常識ならば考えられない事態ではある。1、3位だけ掲載して、備考として「本人の希望により」と付け加えるか、それとも大会自体を無視するか。さまざまな論議が社内でなされた。

関係者は言う。「実は大会前のエントリーの時点から、この選手は実名掲載を断ってきていたのです。それも大会パンフレットへの実名すら断っていたようです。さすがに大会関係者の説得で名前は掲載されましたけどね」。それほどまで記名を拒むのならば、大会自体への出場を断念すればよさそうなものだが、本人は大会に意欲を見せており、関係者は首をかしげるばかりなのである。

当該の地元紙は当然ながら、その経緯を取材したはずだが、表向きは「本人の強い希望」ということで落着、それ以上はせんさくしなかったということになっている。「しかし、新聞社たるもの、この重要な問題を『本人の希望』というだけで終わらせるはずがない。事情を知っているはずですよ」と関係者は続ける。

「個人情報」があらゆる事象の免罪符になりつつある。なにか問題があれば「個人情報」である。社会面では珍しくない現象だが、一般事件とは異なるスポーツ面でも、とあれば紙面作りさえ出来なくなってしまう。「名前」がスポーツ記事の見出しになるからである。

「ところが、これがいかにも現代を象徴するような理由なんですよ。実名拒否の理由が」。当該の選手は母親と2人暮らし。父親の家庭内暴力に耐えかね、2人で家を飛び出し、別の街で暮らし始めた。中学生は新しい学校に通い始め、家庭は曲がりなりにも安定してきた。スポーツにも打ち込める環境が整ってきた。そこで今回の大会出場だった。

「ただ、新聞に名前、学校などの所属名が出ると父親に所在場所を知られる恐れがある。まさかとは思うが、あり得ない話ではありませんよね」。それ故の実名拒否であった。これがどうやら真相のようだ。取材を進めると、今回のような事象はまだレア・ケースとはいえ、各県でも見られる現象だという。

【海ゆかば】  第58号 
 今年のこのコラムは追悼記事ばかりが並ぶ。昨年末仰木彬が急逝し、年が明けた1月2日、近藤貞雄が亡くなった。

2月9日は藤田元司。球界にとってかけがえのない人たちが彼岸へ渡った。そして、5月26日。アマチュア野球の総本山、日本野球連盟の会長を長年務めた山本英一郎が逝った。さほどつきあいがあったわけではないが、一瞬の接点にもこの手の大物は何かしらの印象を残す。

小柄な老人(会った頃は、おそらく80歳前後であったと思う)だったが、その背筋はいつもピンと伸び、矍鑠(かくしゃく)そのものだった。「いい姿勢ですね」と声をかけたら、我が意を得たりとばかり元気の良い返事が戻ってきた。

「君、僕は海軍出身だよ」

昔、明治政府が軍隊を作った時、大ざっぱに言えば陸軍はドイツ(プロシア)型、海軍はイギリスを手本とした。紳士の国とはイギリスの代名詞だが、たとえ軍隊といえども「紳士」を尊ぶ空気がここにはあった。終戦から時は久しいが、山本の言う「海軍」はピンと伸びた背筋となってその後の人生を支えてきたのだろう。

毀誉褒貶はともかく、会長時代には世界のアマチュア球界と積極的に交流し、IBAF(国際野球連盟)第一副会長に就任、野球の五輪採用に貢献し、強豪キューバには何度も足を運び日本球界とのパイプ役を果たした。一方、国内のプロアマ問題解決にも尽力した。島国根性丸出しの日本プロ野球機構幹部とは大違いの仕事ぶりは、決して軍国主義的な解釈ではなく、ただ公のために自己犠牲を払ったという意味で、山本の言う海軍ならずとも「海ゆかば」の精神に満ちあふれている。

訃報を伝える紙面を読むと、王貞治のコメントが目を引く。「(早実時代の)春の甲子園で優勝したときに審判を務められ『王君、王君』と言ってかわいがってもらった」。山本が高校野球、都市対抗の審判員であったことは不覚にも知らなかった。

詩人・寺山修司のこんな記述を、ふと思い出した。

「野球は、大の男たちがホーム(家庭)へ駆けこむのを競うゲームだが、サードはいつも、ホームへ駆けこんでゆく男のうしろ姿を見送っているのだ」

審判生活の長かった山本は三塁塁審を務めたこともあったろう。三塁手同様ホームに駆けこんでゆく男の背中を眺めたに違いない。そして自らの、ホームへ駆けこむ時がきた。

享年87歳。自宅のテレビをつけたまま、椅子に腰掛けて眠るように息を引き取った、と日刊スポーツには書いてある。

(敬称略)

【腰巻きとパンティ】  第54号
 キャンプ宿舎といえばホテル住まいが当たり前の時代になったが、私が野球記者になりたての頃は旅館が担当記者の住処(すみか)だった。巨人宮崎キャンプ、グラウンドがあるのは市街からタクシーで30分ほどの青島である。かつてフェニックス・ハネムーンという言葉があり宮崎・青島は新婚旅行のメッカであった。もっとも海外旅行が盛んになるとこの町はすっかり斜陽になった。年に1回、巨人のキャンプで活気づき潤う、といった風だった。

  4人で取材チームを組む巨人担当だが、宿舎となった旅館の6畳間はキャップ格の先輩記者が独占し、「兵隊」の私たちは10畳間に押し込まれる。男3人がキャンプ期間中の1ヶ月を同じ部屋で過ごす。ここに臨時電話と原稿を送るファックスが設置されており、新米の私は電話番である。何しろ深夜まで東京の野球デスクは電話をかけてくるし、ニュースを抜かれると朝っぱらから罵声を浴びる。

  この旅館に「おさきさん」と呼ばれる年配の女性(当時で60歳は超えていようかという)がいた。男所帯にウジがわくではないが、なにせ殺伐とした毎日である。おさきさんは脱ぎ捨てたズボン、ワイシャツから果てはパンツまで拾い集め、そして洗濯をしてくれた。原稿の締め切り時間がいつも旅館の夕食時間とかち合った。ふすまをあけて、小さな声で「ご飯の用意が…」と声をかけてはくれるが、こちら男どもは原稿に必死で返事もしない。それでも9時過ぎまでお櫃(おひつ)の前で待っていてくれて「ご苦労だったねぇ」とご飯をよそってくれた。

  おさきさんの奇妙な習慣に気が付いたのは、キャンプが始まって10日ほどたってからだろうか。毎日物干し場に洗濯物が(もちろん当方のパンツも混じっている)満艦飾となるのだが、白一色の下着に混じって見るも鮮やかな紫の腰巻き、真っ赤なパンティが混じる。「あのお婆ちゃんが身につけてるわけじゃ…」と男達はつまらぬ妄想たくましくする。ところがひょんな事からこの腰巻きとパンティの謎が解けた。青島にただ1軒、ストリップ劇場があり、何かの拍子に(そんな訳あるまいに)木戸をくぐった。その踊り子を見て驚いた。紫の腰巻きに真っ赤な…である。「まさかあの踊り子は娘さん」と恐る恐るおさきさんに聞いたが「ふふふ」と意味深な笑みを浮かべて答えてはくれなかった。

キャンプも終わりに近づいた頃、お世話になったお礼に旅館でささやかな宴をひらいた。

「強いばかりが男じゃないと いつか教えてくれた人…」

興ののったおさきさんは酔って、歌った。終戦直後に流行った「浅草の唄」だと後になって知った。

東京の人であったのかも知れない。
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