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古都巡りTOPへ>古都巡りバックナンバー1〜29
2012年9月「古都巡り」出版決定!詳しくはこちら


先斗町
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先斗町の飲食店
【アクセス】阪急京都線「河原町」下車。徒歩10分。
●歴史の裏舞台を見届けた花街
先斗町(ぽんとちょう)とは鴨川に沿った三条通りの一筋南から四条通まで続く、石畳の細い通りの花街をさす。江戸時代初期、ここは元々鴨川の州であったが護岸工事で埋め立てられた。その頃は高瀬川を通る高瀬舟の船頭や旅客目当ての水茶屋位しかなかったが、安政年間に芸者稼業の許可が下りると祇園と並ぶ花街として発展していった。

 ここの人家が河原の西側に建ち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれるようになった。語源についてはポルトガル語のPont(先の意)から来たとか、通りを鴨川(皮)と高瀬川(皮)に挟まれた鼓に見立て、叩くとポンと音がするというのをもじったなどと言われる。この細い通りに100軒以上の飲食店がひしめきあっている。

 幕末争乱期の抗争の舞台でもあった。近くには土佐藩邸、坂本龍馬が身を寄せていた材木屋などがあった。新時代を夢見た維新回天の志士達が闊歩していたに違いない。見回りの新撰組の目を逃れて、どこかの店で倒幕の密談などをしていたのだろうか。時には佐幕派と勤皇派が白刃を立てた血なま臭い地でもあった。

 先斗町の歌舞練場で春と秋に行われる「鴨川おどり」は、東京遷都後、沈滞した京都の繁栄を願って京都博覧会で舞妓さんや芸妓が舞ったのが始まりである。今も「一見さんお断り」の老舗があるやに聞いているが、そんな店には用(縁)はない。普通の市井の庶民がそんな所に行っても窮屈なだけだ。気楽に入れる店にも良い雰囲気の所はあまたある。

 京の夏といえばやはり鱧(ハモ)。先斗町の馴染みの店で、吸い物に舌鼓を打つと京都に来たことを実感する。お造りも中々の味わいである。店の板前さんや女将さんの京言葉を聞くのも楽しい。酒に弱い私はビール2本でもうほろ酔い機嫌。日常から離れた束の間の贅沢な時間が流れる。夜も更けお客もまばらになった頃、やっと重い腰を上げた。

【メモ】
●土佐藩邸
木屋町通にあった。元の立誠小学校あたり。
●材木屋
今は材木の商いは別の所で、ここは木材の食器やアクセサリーを扱う店になっている。
●舞妓さん
技芸見習いの少女を言う場合が多い。
●鱧
料理人は鱧の「骨切り(3センチ幅に28筋に包丁を入れる)」が出来て一人前となる。

老舗の屏風祭り
周辺MAP

鉾の上から祭りを眺める
【アクセス】 地下鉄烏丸線「御池」下車(最寄駅)

 ●もう一つの祇園祭り――屏風祭り
京都の夏を彩る祇園祭りは、7月1日から31日まで様々な行事が続く長い祭りである。17日の山鉾巡行は祭りの一コマに過ぎないとも言える。14日から16日までの前夜祭の3日間、山鉾町の旧家や老舗の商店では、代々伝わる秘蔵の屏風絵などの絵画、工芸品を玄関に飾り、祭りに訪れた人々に披露している。これが屏風祭りである。これも祇園祭の風物詩の一つである。
京の町衆はその財力で世界中の珍品を集めたという。また京の芸術、文化を守り、育てる役割も果たしてきた。屏風祭りとは、そうした町衆が今日まで大切にしてきた芸術品を一般の観光客にも公開する行事である。大寺院や博物館にある芸術品にも引けを取らない見事なものが一般家庭にあったりするのだから、流石は京都である。
地下鉄を「御池」で降り、新町通りや西洞院通りを南へ歩きながら見学した。格子越しに芸術品を覗けるようにしている家や商店もあるが、玄関を解放し直に見学出来る所が多いのには驚いた。高価なものゆえ見る方が緊張してしまう。「円山応挙作」という屏風もあった。有名な芸術家の作品も多いに違いない。通り沿いには巡行前の山鉾が町内ごとに待機しており、壮観な光景である。上に上れる鉾もあって、しばし町衆の気分を味わった。
露店が所狭しと並び、威勢のいい関西弁で呼び込みをしている。焼き鳥やアユの塩焼きが美味しそうだ。小物やアクセサリーを売っている店に金魚すくいもある。こうしたお祭りの光景は全国共通なのだろうか。暖廉を売っている店を見つけた。家の暖廉を替えようと思っていたので丁度よかった。幾つか物色し、カブの描かれたシンプルな藍色のものを買った。
14日を宵々々山(よいよいよいやま)、15日を宵々山、そして16日を宵山と呼ぶ。日が立つごとに宵が取れていく。前夜祭を3日も前から行うのは、祭りを待ちきれない京の人々の抑えがたい感情の表れだろうか。気分は確実に高揚していくに違いない。夕暮れとともに人出も増えて来た。一年の内で最も華やかで賑わう京の夏の宴の開幕である。

【メモ】
●町衆(まちしゅう)
自治的な共同体を組織した商人や職人。中世の民衆文化の担い手だった。
●新町(しんまち)通り
平安京の「町尻小路」が起こり。商業の中心地だった。豊臣秀吉の「天正の地割」以降、新町通りと呼ばれるようになった。
●西洞院(にしのとういん)通り
通りに沿って流れていた西洞院川に由来する。昔の官庁街で、公家の屋敷も多かった。
●円山応挙
江戸時代の画家。西洋画の遠近法を研究し、伝統的な日本画に新風を吹き込んだ。

囃子方と音頭取り
周辺MAP

山鉾巡行
【アクセス】 (出発点)地下鉄烏丸線「四条」下車。

 ●災厄退散の祈りを込めて――祇園の大祭
夏の京都は酷暑で有名だが近年は地球温暖化の影響で、全国的に夏が暑くなっているためか気にならない。今や「日本で一番暑い」北関東の人間にとっては、むしろ心地よい感じすらする。地元の人が「今年は暑いなあ」と言うのを聞いて、「え、これで」と驚いてしまった。
京の夏の風物詩といえば祇園祭。貞観年代、日本全土で疫病が流行し多数の死者が出た。さらに東北では大地震(貞観地震)に襲われ壊滅的な被害を被り、日本中が深い悲しみに覆われていた。国家存亡の危機と悲痛な思いを抱えた清和天皇が、大地震のあった貞観11(869)年、京の神泉苑に当時の国の66本の鉾を立て、祇園の神を祀り災厄退散の神事を行ったのが祭りの始まりと言われる。
祭りのハイライトは山鉾巡行である。色鮮やかなタペストリー(胴懸け)を纏った32基の鉾と山が京の町を練り歩く。山鉾巡行は2010年、世界遺産(ユネスコ無形文化遺産)となった。名実ともに日本が世界に誇る祭りとなったのである。長刀(なぎなた)鉾を先頭にパレードは始まる。長刀鉾は「くじ取らず」で、常に巡行の先頭を切る。この長刀には疫病、邪悪を断ち切ろうという人々の願いが込められている。
大きな鉾は重量12トン、高さは26メートルもある。それを40人ほどで曳いていく。鉾の前面で2人の男性が扇子で音頭を取り、上の舞台では笛や鉦でお囃子を奏でる。「コンチキチン」と形容される音色が優しく響いた。巡行は四条烏丸を東へ、そして四条河原町から北、御池通りで西に進む。目の前を通る山鉾の鮮やかなタペストリーに目を奪われた。海外の情景を描いた絵が多い。曳き手に外国人もいる。強い日差しが夏祭りを盛り上げる。
巡行中奏でられる祇園囃子は、それぞれの鉾独自のもので30曲はあるという。巡行の意味は山鉾の美しさを神の目に、そしてお囃子の楽しさを神の耳に届け、荒れる神に鎮まってもらおうということである。千年以上続く祭りに込められているのは国家の平安と社会の安寧である。千年に一度と言われる東日本大震災。やはり未曽有の大災害に襲われた千年前の我々の祖先は、祇園祭を契機とし力強く乗り越えていった。

【メモ】
●貞観年代
859〜877年。貞観地震では東北の太平洋側を大津波が襲い、甚大な被害が発生。
●清和天皇
56代天皇。源氏の初代・源経基(つねもと)は皇族から離れた清和天皇の孫。
●当時の国
今の都道府県に相当。66あった。北海道と沖縄はまだ日本ではなかった。
●タペストリー
インド、ペルシャ、中国といった海外製の絨毯も使用。重要文化財もある。

遣唐使船(復元)
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大極殿(復元)
【アクセス】
近鉄奈良線・京都線「大和西大寺」下車。徒歩20分。

 ●「まほろば奈良」の夢の跡
平城京への遷都は710年。708年に、元明天皇により遷都の詔が出されてからわずか2年で、東西6.3キロ、南北4.7キロ、人口約10万人にもなる巨大な首都が建設された。それまで田んぼが広がり、何もなかった奈良盆地の北に、突如として国家の威信をかけた日本初の本格的な王城都市が出現したのである。
この地は、北に山、南に池、東に川、西に道が理想とされる中国の陰陽思想に叶っていた。それぞれ四神である玄武(丘陵)、朱雀(湖沼)、青龍(流水)、白虎(大道)に守られた地とされた。また、淀川を下れば大阪湾から西日本へ、宇治川を遡れば東日本へ通じる琵琶湖と、物資の輸送に好都合で、資源や人が集まる「みやこ」に最適だった。
せんと君が話題となった2010年の「平城遷都1300年祭」のメーン会場、平城宮跡では復元された大極殿がひと際目を引いた。大極殿とは、天皇の即位や外国の使節を歓迎する儀式の際に使われたイベントホールであった。天皇の高御座があり、それを四神の描かれた壁画が四方を囲む。当時まだ途上国扱いだった日本が、海外に国力を誇示するために建築された言わば日本の顔であった。
私はそれよりも復元された遣唐使船に心引かれた。遣唐使は約260年間に20回ほど派遣されたと言われる。4艘で一組だった。船が複数なのは、何隻かは沈没しても仕方がないというほど困難で壮絶な航海だったからだ。8世紀の遣唐使で、全船無事に往復出来たのは、たった1回だけだった。怖じ気づき、仮病を使い拒否した輩も多い。しかし祖国のためと、命を懸けて渡航した人々の名は燦然と歴史に輝く。
我々の祖先は大昔から、生きて帰れるとは限らない過酷な旅を繰り返し、中国から様々な技術、文化を学んだ。中国のお陰で日本の進歩はあった。遣唐使船は全長30メートルほどで、大型船とは言えない。多くの人々が航海の途中で犠牲になった。建国に命を懸けたいにしえの人々の労苦に報いる国を、我々は築いてきたのだろうか。遣唐使は日本の国力向上に伴い、危険を冒してまで派遣する必要はないとして、894年に廃止された。

【メモ】
●元明(げんめい)天皇
4人目の女性天皇。遷都計画は、藤原不比等が中心に進めたと言われる。
●陰陽思相
森羅万象は、昼・夜、寒・暑、明・暗など全て陰と陽で構成されるという思想。
●みやこ
天皇の住処である宮(みや)に周辺を表す「処(こ)」がついたものが語源とされる。
●遣唐使
最澄、空海、吉備真備(きびのまきび)、山上憶良など。阿倍仲麻呂はその才能を見込まれ、中国で高級官僚にまで上り詰めたが、帰国の船が遭難し、二度と日本の土は踏めなかった。

旧有栖川宮邸
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平安女学院の制服
【アクセス】
地下鉄烏丸線「丸太町」下車。徒歩5分。
●宮様の家と日本初のセーラー服の学校
有栖川宮(ありすがわのみや)家は江戸時代の1625年、第107代、後陽成(ごようぜい)天皇の第7皇子好仁(よしひと)親王により創設され、以後約300年にわたって親王家として存続した。しかし1913年、10代目の威仁親王が逝去し、1923年に慰子妃が亡くなると絶家となってしまった。
京都御所の建礼門前にあった有栖川宮邸は、明治以後、京都裁判所の仮庁舎として使用されていた。1891年、裁判所所長官舎として現在地に移築され、2008年からは平安女学院大学が所有している。立派な門構えがいかにも皇族のお屋敷という感じである。中は授業や市民講座に利用するため改装されているが、部屋の多さにやはり皇族の優雅な暮らしぶりが偲ばれる。
有栖川宮といえば幕末、討幕側の総大将となった有栖川宮熾仁を思い出す。公武合体のために、徳川家茂と結婚した皇女和宮の婚約者であった。元の婚約者とは、言わば敵同士になったことになる。家茂亡き後、和宮は徳川存続に力を尽くしていた。しかし1868年1月、討幕派は京都御所で徳川の処遇を話し合い(小御所会議)、ここでの会議が徳川との戦争への分岐点となった。熾仁の胸中はどのようなものだったのだろうか。
女子中高生の制服といえば、一昔前までセーラー服が定番だった。セーラー服を日本で最初に制服として採用したのが平安女学院である。近年はブレザー派も増えたが、時折セーラー服姿に遭遇するとやはり懐かしい。男子の制服が陸軍の影響を受けた詰襟が多かったので、女子は海軍のセーラー服にしようと広まったそうである。
セーラー服を巡っては、ちょっとした逸話がある。かつては福岡女学院(福岡市)が1921年に日本で初めてセーラー服を採用したと主張していた。しかし大手制服メーカーの調査により、同校より1年早く平安女学院がセーラー服を採用していたことが判明した。突然脚光を浴びる形となった平安女学院だが、実は近年付属の中学校で復活するまで、セーラー服は廃止されてしまっていた。
●有栖川宮威仁(たけひと)
熾仁親王の異母弟。海軍軍人となった。
●威人親王妃慰子(やすこ)
旧加賀藩主、前田慶寧(よしやす)の四女。
●有栖川宮熾仁(たるひと)
東征大総督となり、戊辰戦争では幕府軍攻撃の指揮を執った。
●平安女学院
1875年、大阪で照暗女学校として設立。1894年、平安女学院と改称し翌年京都にて開校。

郡山城
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旧奈良県立図書館
【アクセス】
近鉄橿原線「近鉄郡山」下車。徒歩15分。

●「日和見の殿様」が築いた大和の名城
「洞ヶ峠を決め込む」とは、有利な方へ付こうと形勢をみること、つまり日和見を決めこむことである。この諺の元になったといわれる人物が筒井順慶である。1582年、織田信長を討った明智光秀の軍と羽柴(豊臣)秀吉の軍が、山城国山崎で激突した(山崎の戦い)。明智、羽柴双方から援軍を要請された筒井順慶は、山崎の南方にある洞ヶ峠まで来ながら、どちらにつくか様子眺めをしていたといわれる。
奈良・大和郡山にあった郡山城は筒井順慶が整備した城である。平城京の南方は東大寺の寺領で「郡山」と呼ばれていた。室町時代には、地元の豪族が砦を築いていたが、戦国時代になると、信長の家臣となった筒井順慶がこの地を征服し、城を大幅に拡張、天守も完成した。筒井氏が秀吉によって郡山を追放されると、秀吉の弟・豊臣秀長が城下町として郡山を整備し、大和の中心地として栄えた。
明治に入って城は取り壊されたが、その後、市民運動により追手門などいくつかの建物が復元された。城跡は県立郡山高校となり、新たな歴史を刻んでいる。かつて県立図書館だった建物が移築され、今でも利用されている。「明治」らしい古風だが威厳を漂わせる木造二階建ての瓦葺きで、正面屋根の鬼瓦が印象的だった。玄関に理科実験の授業計画らしき看板が掛かっていた。
市役所近くの入り口から城址公園に入ると、なだらかな坂道となる。お堀ではイケチョウガイという真珠貝の一種を養殖していた。プランクトンを食べるので、水の浄化に役立つそうだ。歴史遺産を保護するためには、光の当たらないこのような地道な作業が必要不可欠なのだ。
江戸時代には、徳川綱吉の側用人を務めた柳沢吉保の子吉里が入城し、幕末まで柳沢15万石の居城であった。現在でも、大工町、鍛冶町、材木町など職業集団ごとに形成された集落の名残が町名として残っている。街を歩いていると、晴れ着に身を包んだ一家とすれ違った。本日は元日。近くの源九郎神社に初詣に行くのだろう。年頃の娘さんの周りを、弟らしき幼い男の子がはしゃぎ回っていた。後ろをほほ笑んだ両親がついて行く。その様子を眺め、久しぶりにほのぼのとした気分を味わった。

【メモ】
●筒井順慶
洞ヶ峠について、子孫のSF作家筒井康隆は、戦いを一望する様が誤解されたと主張。
●豊臣秀長
秀吉の異父弟といわれる。秀吉の全国統一に大きな貢献をした。
●柳沢吉里
郡山移封の際、金魚職人も多数連れ、以後、郡山は金魚養殖で有名となった。
●源九郎神社
源九郎義経が吉野に落ち延びた際、静御前を送り届けたとされる白狐が祭られている。

京都霊山護国神社
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パール博士顕彰碑
【アクセス】
阪急京都線「河原町」下車。徒歩20分。

●「被告人は全員無罪」――法の正義に殉じたパール判事
パール博士という人をご存じだろうか。本名ラダ・ビノード・パール、インドのベンガル州出身で、カルカッタ大学の総長を歴任した法学者である。そして日本の戦争犯罪を裁いた極東軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事を務めた人物である。
「被告人は全員無罪とすべきである」。博士の主張に世界中が驚いた。この裁判は日本の軍国主義の首謀者を裁くものであり、日本軍に蹂躙されたアジアの人々も「極悪人」たる戦争遂行者には、裁判官全員が厳罰を下すであろうと思っていたからだ。「何故だ・・・」。世界中の人々が驚愕の声を上げた。

博士は、この裁判の最大の犠牲者は「法の正義」であると喝破した。「戦争とは、力のある者が弱い者を征服するに過ぎない」「負けたが故の犯罪というなら、もはや正義も法律も真理もない」。これが博士の主張であった。暴力の優劣だけが全てを決定する社会に、信頼も平和もあろうはずがない――博士は述べた。
厳正なる法の番人、パール博士の正義の審判は「そもそも戦争に善悪などあろうはずがない。戦争は巨大な人殺しにすぎない」という博士の平和思想から導き出されたものである。決して日本の軍国主義を肯定したものではない。敗戦国だけが裁かれるのは戦勝国の復讐にすぎない――裁判の欺瞞性に組みすることに、法の番人としての良心が許さなかったのだ。
博士の顕彰碑が京都霊山護国神社の「昭和の杜」にある。インドの独立50周年を記念し、1997年に建立されたものである。そこには腕組みをし、唇を真一文字に結んだ博士の肖像写真がある。厳しい視線の博士は何を見つめているのだろうか。東京裁判では博士の意見は無視され、絞首刑7人を初め、被告25人全員に有罪判決が下された。
パール博士の審判を聞き、東条英機は次のような辞世の句を残している。
「百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼の当たりに見る」
法の正義に殉じたパール博士は何度か来日し、日本の奇跡の復興を見届け、1967年、82歳で逝去した。

【メモ】
●極東軍事裁判(東京裁判)
判事団は米英豪中など戦勝国11カ国、11人で構成。原爆投下など連合国側の行為は審議されなかった。
●京都霊山護国神社
1868年(明治元年)、幕末、維新の志士を祀るために創建された招魂社。現在では第二次世界大戦までの、京都府出身の戦没者も祀られている。
●東条英機
東京出身。太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣。極東軍事裁判で絞首刑となった。

▲八大神社の武蔵像
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▲八大神社
【アクセス】
叡山電鉄叡山本線「一乗寺」下車。徒歩10分。

●剣豪宮本武蔵、悟達の神社

剣豪宮本武蔵は生涯で60回以上の決闘をし、一回も負けなかったという。数多い決闘の中でも、京都・一乗寺下り松(さがりまつ)での吉岡一門とのはたし合いは、武蔵が悟達の境地に達した特別の戦いとして伝えられている。この時、武蔵弱冠21歳であったという。

2010年の大晦日は、西日本が大雪に襲われ、特に山陰地方は車が長時間雪に閉じ込められるなど、甚大な被害に見舞われた。この年の夏は記録的な猛暑で、日本列島が炎暑に喘いでいたのに、天気の変貌ぶりは信じられないほどである。この日は京都でも大雪となり、市内の北部では10aほども積もっていた。 八大神社にある武蔵の銅像にも雪が降り積もり、厳しい修行に明け暮れた武蔵にふさわしく、孤高の日々を思わせる。雪の降りしきる中での訪問となってしまったが、こんなに雪の多い京都を訪れたのは初めてかも知れない。殆ど毎年来ているはずだが、私の記憶の中にはない。

武蔵は吉岡一門との決闘に臨む前、通りかかった八大神社で祈ろうとした。しかし祈ることをやめてしまった。「我神仏を尊んで神仏を恃まず」。恐怖心を突き抜けて、このような境地に到達したのだろう。雪を頂いた若き武蔵の像はまだ少年の面影さえ残る。「こんな年少者が悟る様な境地ではないだろうに・・・」。50歳を過ぎても、今だに迷いっぱなしの私は思う。

武蔵は己の中に不動心を築くことを目指していたのだと思う。他力本願ではなく、強靭な精神を心の中に確立することを理想としたのであろう。武蔵にとって神仏とは、自分の決意を見届ける証人のようなものだったのだ。宮本武蔵の戦いの数々は史実だったとはもちろん言えない。しかし他人と比較し、周囲にどう見られているかばかり気にする日本人には、非常に示唆を与える生き様かも知れない。自分の信じた道をひたすら貫き、昨日の自分と比較して今日はどうであったかを顧みる――歴史に名を残す偉人に共通する生き方のように思う。

【メモ】
●宮本武蔵
その生涯は小説や映画により脚色されているが、今なお武道の達人として知られる。
●一乗寺下り松
比叡山へ西から登る、登り口辺りの呼称。一乗寺という寺があったとされる。
●吉岡一門
足利将軍家の剣術師範を務めたと言われる。しかし詳細は不明。
●八大神社
1294年創建。応仁の乱で焼失するが、1596年に再建。

▲鈴虫寺(京都市)
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▲鈴虫寺の庭園(京都市)
【アクセス】
>阪急嵐山線「松尾」下車。徒歩15分。

●鈴虫が招いた?意外な触れ合い

鈴虫といえば秋。家でも鈴虫を飼っていた時期があり、秋になると「リーン、リーン」というはかなく美しい鳴き声に心が癒されたものである。その鈴虫の鳴き声が一年を通して聞くことが出来、京都の寺院には珍しく、若い人々が途切れることなく訪れる寺院がある。「妙徳山華厳寺」――通称、鈴虫寺である。

鈴虫寺と呼ばれるきっかけは1920年代までさかのぼる。当時の住職が鈴虫の声を聞き、「人間は虫のように無心になって生きていくことが大切」と悟ったことで、鈴虫の飼育を始めた。鈴虫の寿命は4カ月余り。綺麗な羽音を響かせるのは、20日ほどに過ぎない。鈴虫が生きやすい環境を整えるために、冷暖房や湿度、照明の管理に気を使い、遂に毎日孵化させることに成功した。実に30年に及ぶ努力と工夫の賜物だという。

1万匹の鈴虫の鳴き声が響く客殿には、住職の説法に耳を傾ける若者が大勢いた。若い人はあまり宗教に興味がないのでは、という先入観を持っていた私には驚きの光景が広がる。茶菓を頂きながら話を聞くのだが、若い人が長時間座ってじっと聞き入る姿に感心した。よく成人式での新成人の蛮行が話題になり、自分勝手な若者の態度が批判されるが、それと対極の姿がここにはあった。

帰りに近くの茶屋に立ち寄った。みたらし団子と抹茶を頼んだ。店の人がなにやらこちらを見つめている。気になったので訪ねてみると、私の持っている旅行雑誌に注目していたのだという。私が利用しているのは、1999年発行の古いものである。何故それを見ていたのか聞くと、それに店が紹介されているとのこと。最近見かけなくなったので、懐かしくてつい見入ってしまったそうだ。

旅行雑誌はどこの出版社でもどんどん新しいものに更新されるが、私はこの古い本が一番使いやすく、ずっと持っていると言うと、店の人も嬉しそうな顔をし、礼まで言われてしまった。思いがけない「触れ合い」を体験し、いい旅の思い出になった。近いうちにまた来ようと思った。

【メモ】
●妙徳山華厳寺(みょうとくざんけごんじ)
京都の洛西にある臨済宗寺院。江戸時代の中期(1723年)、華厳宗復興に尽くした鳳潭(ほうたん)上人が開創した。後、衰退したが、1868年、慶厳が入山し、臨済宗に改められ現在に至っている。願い事を一つだけ叶えるという幸福地蔵が若者に人気である。

▲地蔵院・参道(京都市)

▲境内の竹林(京都市)
【アクセス】
阪急嵐山線「松尾」下車。徒歩20分。

 「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治せよ(と将軍が命令した)」「では捕まえますから虎を屏風から出して下さい」。「このはし渡るべからず」「この端渡るべからずなら、真ん中はいいでしょう(と真ん中を渡った)」。「真ん中も駄目である」「橋に乗らねばいいのでしょう(と敷物を敷いてその上を歩いた)」。これらは一休さんのとんち話に出てくる小話である。

日本人なら誰でも知っている一休さんは、室町時代の禅僧一休宗純がモデルである。しかし「とんちの一休さん」が有名になったのは、死後200年も経った江戸時代前期の元禄年間。しかも話の作者は不詳である。「とんちの一休さん」は史実とは言い難い。戦国の世が終焉し、天下泰平の世を謳歌していた庶民が、娯楽として生み出した話と思われる。また支配者階級への皮肉話が多く、人々の権力者へのささやかな抵抗でもあっただろう。

京都・洛西の地蔵院は一休宗純が幼少の頃修行した寺である。ここは竹林で覆われ、竹の寺として親しまれている。竹に包まれた薄暗い参道をしばらく歩くと、堂宇の並ぶ境内に出る。方丈に上がらせてもらうと畳が冷たかった。京都の底冷えがこたえる。子坊主の一休さんはここで裸足で修行したのだろうか。小さな子には厳しい毎日だったに違いない。

庭園を見ながら抹茶を頂いた。茶道の心得などないが静かな寺院のゆえか、一端の風流人になったような錯覚を覚えるから不思議なものである。市街地の寺院は人混みに閉口するが、少し郊外に足を延ばせば、静かな環境の寺院がたくさんあるのが京都の魅力である。

実際の一休さんは奇行の多い破天荒な人物だった言われる。真偽のほどは不明だが「平然と戒律を破り飲酒、肉食にふけった」「頭にドクロをしつらえた杖を持って歩いた」など様々な逸話が残っている。こうした常識破りの、権威に媚びない生き方が後世の人々に感銘を与え、「とんちの一休さん」像を作り上げたのかも知れない。

【メモ】
●一休宗純
臨済宗の僧。応仁の乱で荒れ果てた大徳寺の再興に尽くした。
●元禄年間
1688〜1704年。上方の商人が担い手となった町民文化が栄えた。
●地蔵院
1368年、室町幕府の武将、細川頼之によって創建された。
●方丈
僧の居室。インドの僧維摩居士の部屋が一丈四方、四畳半だったという故事から生じた。

▲松尾大社・拝殿(京都市)
周辺MAP

▲松尾大社・庭園(京都市)
【アクセス】
阪急嵐山線「松尾」下車。徒歩5分。

 平安京遷都以前の京都盆地は、幾つかの有力豪族がすでに支配を固めており、それぞれの豪族が信仰する神社や寺院が点在する信仰の郷であった。その中で、渡来系の有力豪族である秦氏は、地盤の嵯峨野一帯の開発に力を入れ、盆地随一の有力者にのし上がった。秦氏の長(おさ)の墓とされる蛇塚古墳は、奈良・飛鳥の石舞台古墳に匹敵する規模だという。

政争が続き、謀略が渦巻く平城京に別れを告げ、新たな政治の舞台を求めて桓武天皇が平安京に遷都したのは794年。その造営に大きく貢献したのが、大陸伝来の技術を持つ秦氏だった。その秦氏が先祖代々信仰してきた神を祭るために、8世紀初めに創建したのが松尾大社である。

この地は古代から、近くの松尾山信仰の根付いた地であったが、秦氏はそれを否定することなく、自分達の信仰神と融合させ、地域との一体感を演出した。秦氏は進んだ土木技術を持っていたので、土着の人々も秦氏を歓迎したと思われる。

阪急嵐山線の「松尾」で降りると、まもなく大きい赤い鳥居が目に入る。そこをくぐり境内に入った。かつて能舞台だったという建物に、全国の酒蔵から奉納された酒樽が積み重ねられていた。醸造技術を日本にもたらしたのは秦氏だと言われており、酒の流通が盛んになった室町時代から、松尾大社は酒の神様として信仰されるようになった。

宝仏館に安置されている女神像(中津島姫命=なかつしまひめのみこと)が非常に興味深い。正面から見るとふくよかで柔和な日本的な女性である。しかし見る角度を変えると鼻筋の通った西欧風の顔、さらに怨念を抱えた夜叉のような顔と変化していく。実に不思議なこの像は、女性の心模様の変化を鮮やかに表現しているようだ。この女神は元々、海上守護の神とされている。海のない京の都に何故と思うが、大陸からは命がけの危険な航海を経て来るわけだから、秦氏が信仰の対象にするのは当然とも言える。殆どの人はここを素通りして嵐山へ向かうが、途中下車し松尾大社もじっくり見学して頂きたい。

【メモ】
●秦氏
朝鮮から渡来したと言われる豪族。「ハタ」という読みは、朝鮮語のバダ(海)や機織りが由来と言われる。
●桓武天皇
母親は百済王家の末裔である。今上天皇が「韓国とのゆかりを感じています」と言及したことがある。平清盛に代表される桓武平氏の祖。
●松尾山信仰
松尾山は古くから、神が降臨する山として崇敬されていた。
●中津島姫命
天照大神の子とされる海を守る女神。

▲西大寺・本堂(奈良市)
周辺MAP

▲西大寺・東塔基壇(奈良市)
【アクセス】
近鉄奈良線・京都線「大和西大寺」下車。徒歩3分。

 茶道をたしなむ人にとってはおなじみの西大寺。名前から連想されるように、かつては東大寺と対をなす大寺院であった。764年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)により発願された。この年、藤原仲麻呂(恵美押勝)のクーデターがあり、心痛の天皇が鎮護国家と平和祈願を祈り建立を決意したといわれる。

元々は東西に五重塔がそびえ、百を超える堂宇が立ち並んでいた。壮観な景観だったに違いない。しかし平安時代になると、度重なる火災に見舞われ、創建当時の建物はほとんど焼失してしまった。鎌倉時代中期になって、叡尊が復興に着手してから蘇り、真言律宗の総本山として再び人々の信仰を集め、現在に至っている。

西大寺は「大茶盛」の寺として知られる。直径30a以上、重さ6〜7`の大茶椀と長さ35aの茶筅でお茶を点て、参拝者にふるまわれる。その起源は1239年、正月の修正会(説法や供養の集会)の結願(会の終了)のお礼参りで、西大寺鎮守八幡宮に献茶し、その折に参拝の民衆にもお茶をふるまったことに始まる。大茶盛とは、西大寺では戒律により酒は飲まず、酒盛りに代わって「茶盛り」を催したことに由来する。

本堂には献納された灯篭が何段にも重ねられ、お堂の内部を囲んでいた。暗闇の中にたくさんの灯が浮かび上がる、幻想的な雰囲気に引き込まれた。今は防災のため灯は電球になっているが、昔はもちろんロウソクである。ゆらゆら揺れる炎を見ながら、人々は何を祈ったのだろうか。

大茶盛を体験した知人によると、大きな茶碗はとても一人では持てず、運ぶのは二人がかり。お茶を頂く時も、何人かに茶碗を支えてもらう。年配者は無理をしない方が良さそうだ。大茶盛はお茶の普及に大いに貢献したといわれる。称徳天皇は道鏡を寵愛した。道鏡とは西大寺建立にも深く関わった僧である。彼は自ら天皇になろうと野心を抱き、政治を混乱させ、やがて失脚した。繰り返される権力闘争――それが平城京の歴史である。

【メモ】
●藤原仲麻呂
皇族以外で初の太政大臣となり権勢を振るう。恵美押勝とは淳仁天皇から賜った名。道鏡を重用した孝謙天皇と対立した。
●叡尊
当時疎かになっていた戒律の復興に努めた。各地の国分寺の再興にも尽力した。
●道鏡
政治に祈祷を持ち込み混乱させたことから、ロシア崩壊の原因を作ったラスプーチンと対比される。

▲唐招提寺・金堂(奈良市)
周辺MAP

▲唐招提寺・戒壇(奈良市)
【アクセス】
近鉄橿原線「西の京」下車。徒歩15分。

 薬師寺から北へ10分ほど歩くと、唐招提寺がある。2009年に平成の大改修を終え、新たな歴史を刻む。御影堂に安置されている鑑真和上坐像は、目を閉じ静かに思索しているような表情が印象的である。和上は唐の沿岸部、揚州の大明寺の高僧であった。遣唐使として派遣された留学僧栄叡、普照から聖武天皇の要請を聞き、来日を決意した。渡航を5度試みるが、船の難破や大嵐に遭遇し、ことごとく失敗。過酷な運命に翻弄され、遂には失明してしまった。  

危険な航海ゆえ、多くの高僧が尻込みする中、なぜ和上は無謀ともいえる日本行きを決断したのだろうか。理由については、留学僧の招請の熱意、日本の仏教興隆への感銘と使命感などが言われているが、視力を失ってまでとは、まさに命がけである。日本とは、そこまで価値のある国だったのだろうか。  
当時の日本は、勝手に僧侶を名乗る者が後を絶たなかった。厳しい税金や重労働に苦しめられていた庶民が逃亡し、大した修行もせず僧になっていた。このため仏教の形骸化は深刻であった。授戒の出来る高僧を招き、勝手に僧侶になれなくする授戒制度の確立は、国家の喫緊の課題だった。  

意を決した和上の6度目の航海も、荒波や暴風に見舞われたが、それらを乗り越え今度は成功。鹿児島にたどり着いた。遂に宿願叶い、日本の土を踏んだのだ。渡航を決意してから12年。和上は66歳になっていた。同行者の内200人以上が離脱、36人は死亡、上陸を共にしたのは24人にすぎなかった。  

唐招提寺の境内西隅の戒壇の前で足を止めた。ここはほとんど観光客の姿が見えない。中心部が丸い形状で、イスラム教のモスクを連想させ、仏教寺院の建物に見えなかった。授戒は東大寺で行われた。この戒壇は鎌倉時代に造られたという説もあるので、ここが授戒の儀式で使われたかどうかは分からない。しかし和上は授戒僧として招かれたという事実を考えると、戒壇こそが最も神聖な場所なのである。

【メモ】
●唐招提寺
759年創建。金堂は、現存する金堂としては、唯一の奈良時代のもの。
●栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)
唐に着いてから鑑真に面会するまで9年を要した。栄叡は唐で死去し帰国出来なかった。
●授戒制度
高僧に、宗教者として保つべき戒律(戒は道徳的規範、律は僧の行動規範)を守ると誓って、初めて僧侶として許可する制度。
●戒壇
授戒の儀式を行う場所。東大寺の他、下野国薬師寺、筑前国観世音寺に常設の戒壇が設けられた。

▲薬師寺・西塔(奈良市)
周辺MAP

▲玄奘三蔵院伽藍・礼門(奈良市)
【アクセス】
近鉄橿原線「西の京」下車。徒歩すぐ。

 ゴダイゴの歌う「モンキーマジック」「ガンダーラ」が懐かしいテレビ番組「西遊記」。三蔵法師は夏目雅子、孫悟空は堺正章だった。女優が三蔵法師を務めるというキャスティングが、当時は新鮮に映った。西遊記物は数限りなくあるが、夏目雅子の「西遊記」が一番親しまれたのではないか。  

三蔵法師のモデルは、唐時代の名僧玄奘三蔵である。当時の仏教経典は、翻訳者によって内容に違いがあったため、真実の釈迦の教えを求め、正しく伝えようと、鎖国の禁を破ってまでインドへ旅立った。何度も命の危機に瀕した、その17年の求道の旅を記した「大唐西域記」が、西遊記の元になったといわれる。  

奈良の薬師寺は法相宗の大本山で、始祖として玄奘を崇める。玄奘の旅を、平山郁夫が薬師寺で大壁画として描いた。ヒマラヤ山脈の迫力に圧倒される。昼は灼熱地獄、夜は極寒の世界のタクラマカン砂漠、天山山脈では希薄な空気に苦しんだ。旅は困難を極めた。苦難の連続の中で仰ぎ見たヒマラヤの白い峰々が、須弥山を連想させただろう。

壁画の完成に20年を要した。 壁画を見て約30年前に放送された「シルクロード」というNHKの番組を思い出した。楼蘭の遺跡や敦煌の莫高窟の壁画に、人の世の栄枯盛衰を思い、古代の人々の有様を想像した。シルクロードはローマから始まり、サラセン、唐を経て日本で終わる。柱のエンタシス、仏像の台座の唐草模様・・・薬師寺ではシルクロードでもたらされた、ギリシャやペルシャの影響が随所に見られる。日本の文化は世界の英知の結集とも言える。

境内北にある玄奘塔には、左手に経、右手に筆を持つ玄奘像が安置され、その上には「不東」の扁額が掲げられている。「天竺に至らざれば、ついに一歩も東帰せず」。こう話した玄奘三蔵の不撓の決意を象徴している。しかし本当の求道の戦いは帰国後に始まった。持ち帰った経典2万巻の翻訳に、帰国してから死去するまでの19年間の生涯を捧げた。

【メモ】
●薬師寺
天武天皇が発願、遺志を継いだ持統天皇が飛鳥で建立。平城京遷都の際、移転した。
●法相宗
人間の深層心理を探求し、認識世界は人間の意識が作り出したとする。ゆえに十人いれば、十の世界がある。
●須弥山(しゅみせん)
世界の中心にそびえる仏教で説く山。
●シルクロード
東西交易路の総称。中国の絹がこの道を通り西方に渡ったことから、19世紀のドイツの地理学者リヒトホーフェンが命名した。

▲清水寺(京都市)
周辺MAP

▲坂上田村麻呂の墓(京都市)
【アクセス】
◆清水寺…京阪本線「清水五条」下車。徒歩25分。 ◆坂上田村麻呂の墓…地下鉄東西線「椥辻」下車。徒歩15分。

 その年の世相を漢字一字で表す「今年の漢字」は、年末恒例の行事としてすっかりおなじみになり、テレビなどでもよく取り上げられる。書いているのは、清水寺の貫主である。最近2年の字は「変」「新」であった。現代に充満する閉塞感を何とか変革、一新したいという人々の願いが表れている。  

東北出征で有名な坂上田村麻呂は、清水寺創建時の有力なパトロンであった。清水寺の南苑の一画に、アテルイとモレの顕彰碑がある。アテルイとは、田村麻呂の遠征軍と激闘を繰り広げた東北の勇者である。モレはその腹心であった。当時、東北地方は蝦夷(えみし)と呼ばれ、まだ大和朝廷に服属しておらず、蝦夷から見ると、朝廷の遠征軍は平和を乱す侵略者だった。アテルイ達の独立と尊厳を守る抗戦が続いていた。  

抵抗に手を焼いた朝廷は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東北征伐に当たらせた。アテルイ達の奇襲も、老練な田村麻呂の知略に叶わず、激戦のはてついに降伏。東北を大和朝廷に組み入れることに成功した田村麻呂だが、それまでわずかな兵で、朝廷の大軍をことごとく撃破していた、アテルイ達の勇敢な戦いに敬服し、その助命を朝廷に願い出た。だがそれは却下され、アテルイとモレは河内(大阪)で処刑されてしまった。  

京都・山科の勧修小学校の北隣の児童公園に、坂上田村麻呂の墓がある。ここは平安遷都1100年を記念し、その功績を称えて整備された。英雄の墓にしては随分ひっそりした所にある。都から離れたこの地で、一人敵から都を守っているようだ。孤高の雄姿を見る思いである。  

アテルイとモレは天皇に反逆したとして、歴史の表舞台から抹殺されていた。しかし平安遷都1200年祭のさい、両雄の故郷、岩手県水沢・江刺地方ゆかりの人々によって、碑が建立された。1200年の時を経て、アテルイ達の名誉が回復され、田村麻呂も安堵しているに違いない。

【メモ】
●清水寺
賢心(後に延鎮と改名)が778年に開創。坂上田村麻呂の帰依により発展した。
●坂上田村麻呂
54歳で死去し、甲冑姿で剣や弓矢を携え、京に向かい立ち姿のまま葬られたという。
●アテルイ、モレ
平安時代初期、20年以上朝廷と戦った。漢字では阿弖流爲(アテルイ)、母礼(モレ)。
●征夷将軍(大将軍)
太平洋側から蝦夷を攻めた軍の責任者。日本海側から進軍した遠征軍の隊長は鎮狄(ちんてき)将軍。
「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲金閣(京都市)
周辺MAP
▲「陸舟の松」(京都市)
【アクセス】 
市営バス59系統「金閣寺前」下車すぐ。

 金閣は修学旅行の訪問先の定番でいつも込んでいる。本当は鏡湖池からじっくりと観賞したいのだが、それは不可能である。今日も写真の順番を待つ外国人に催促されているようで、また満足のいく写真が撮れなかった。しかしこれからは、日本は観光立国を目指すそうなので、外国人に悪い印象を与えては悪いと思い、すぐ場所を開けた。

金閣が放火されたのは、1950年のこと。放火犯は、金閣の徒弟だった。動機について、「美にたいする嫉妬」だと言い、その理解不能な言葉に世間は騒然とした。三島由紀夫や水上勉が小説にしたほどの衝撃だった。しかし金閣の屹立した美を悟りの極致と理想化し、それを自分の中に体現しようと苦行している身であれば、醜い自分と比べて、その美しさに嫉妬することはあるのかも知れないと、的外れなことを考えてみたりもする。

金閣は将軍足利義満が自らの力を誇示し、晩年を過ごすために建立した別荘、北山殿にあった。北山殿には豪華な建物が並び、「極楽浄土に勝る美しさ」と謳われた。義満は武士や貴族を連日招いては宴を催し、富と権力を誇示した。その象徴が金閣である。天皇をも凌ぐ権勢に、人々をひれ伏せさせ喜んでいたという。

将軍職を息子の義持に譲った後も実権は手放さなかった。しかしそれが義持の父への憎悪を生みだすことになる。義満の愛妾の子、つまり義持の異母弟、義嗣に対する義満の溺愛への嫉妬も義持の父への憎悪を増幅させた。義持の心の中は、父と弟への憎しみが渦巻いていたに違いない。義満が51歳で没すると、義持は義嗣に謀反の罪を着せ殺害した。そして北山殿の建物の大部分を破壊した。

義満、義持親子の人間模様は、富も権力も人間の幸福には結びつかないというドラマを見ているようだ。富にも権力にも無縁の我が身だが、これまで家族仲良く生きて来られたことがどんなに幸福かと感謝する。義持は金閣だけは残した。あれだけ父を憎悪していたのに、父の権力の象徴ともいえる金閣を何故残したのだろう。贖罪だろうか。もしそうなら、親子の情とはやはり普遍的な人間の感情なのであろうか。

 
【メ  モ】
金閣
 

鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿。「金閣寺」は通称。

   
足利義満
 

室町幕府3代将軍。その治世に栄えた文化を北山文化という。

   
足利義持
 

義満の嫡男。皇室に近づいた父の政治を否定した。

   
足利義嗣
 

義満の側室の子。幼い頃から聡明で、父義満に愛された。25歳で兄の義持に殺される。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲青蓮院・薬医門(京都市)
周辺MAP
相国寺・瑞春院(京都市)
▲青蓮院・庭園(京都市)
【アクセス】 
地下鉄東西線「東山」下車。徒歩10分。

 京都・東山の青蓮院の起源は、天台宗の開祖最澄が比叡山延暦寺を開いた、平安時代までさかのぼる。延暦寺の僧侶の住坊の一つ、青蓮坊が始まりといわれる。坊の12代住職玄行が鳥羽法皇の帰依を受け、法皇の皇子が弟子になった際、京の現在地に殿舎を造営し、青蓮院となった。その後明治まで、門主は皇族か五摂家が務めるのが慣例となった。

青蓮院は、平安時代に制作された仏画、青不動で名高い。高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)の赤不動、三井寺(滋賀県大津市)の黄不動と共に、日本の三大不動に数えられ、国宝に指定されている。院内での一般公開に偶然にも遭遇し、拝観出来た。憤怒の表情は、人々を救わんとする固い決意を表わしているという。右手の剣で人々の煩悩を断ち切り、左手の羂索(けんさく=縄状の仏具)で悪を縛り上げるといわれる。

南隣には知恩院があり、八坂神社や清水寺も近い。この地区は京都観光の中心スポットでもある。この辺りの寺院には、二十代の頃から何度も来ているが、年齢を重ねるに従い、感じ方に変化を感じる。若い頃は古いものが、ただただ珍しかった。今は不安や苦悩を背負いながら、生きねばならない人々が、救いを仏に求めた心情がよく分かる。自分もまた苦悩の人生を歩んでいるためだろうか。

独裁政権の印象が強い封建時代だが、実は「談合」政治が長く続いた。例えば室町時代は、有力大名の「寄合」と呼ばれる談合で国家政策は決定された。最高権力者の将軍の選出でさえ同様で、4代将軍足利義持の後継は、4人の候補者の中から、なんとくじ引きで決められた。“当選”は「青蓮院准后」、つまり青蓮院の門主、足利義教であった。本人が歓喜したか愕然としたかは知らないが、これも争いを回避するための知恵か。

談合の横行は現在、大問題である。景気低迷の中、この悪弊は国や地方の中枢機関にまで及び、日本の低迷の元凶でもある。談合事件も頻繁に報道されている。はたして日本人は、長年に亘って染み付いたこの悪弊を、断ち切る勇気を持てるのだろうか。

 
【メ  モ】
青蓮院(しょうれんいん)
 

天皇や摂関家が門主になる門跡寺院の一つ。三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡といわれる。

   
五摂家
 

藤原氏を祖とする、近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家。

   
足利義持(あしかがよしもち)
 

金閣寺を造った3代将軍足利義満の子。

   
足利義教(あしかがよりのり)
 

義持の弟。出家して義円と名乗っていた。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲橘寺(奈良県明日香村)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲聖徳太子生誕の碑(奈良県明日香村)
周辺MAP
【アクセス】 
近鉄橿原線「橿原神宮前」から岡寺前行きバス乗車。「川原」下車。徒歩10分。

 聖徳太子は、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと=用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とし、厩戸皇子(うまやどのみこ)、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と称した。聖徳太子というのは死後の贈り名とされる。太子が生まれたといわれる地に立つのが橘寺である。寺の名は垂仁天皇の命により、田道間守(たじまもり)が不老不死の薬を中国で探し求め、持ち帰ったのが橘の実であったという日本書紀の故事に由来する。

寺伝によれば、推古天皇の命により、太子がこの地で勝鬘経を講義した時、蓮の花が降り、南の山に千の仏頭が現れ、太子の冠が輝くなど不思議な現象が起きたので、天皇はここに寺院を作るよう命じた。それが橘寺であるという。たびたび火災や落雷にあい、創建時の物はほとんどない。現在の建物は江戸時代に、徐々に再建されたものである。

境内ではあちこちで、白やピンクの可憐な花が咲いていた。寺の人に聞くと芙蓉の花だという。訪れた時がちょうど盛りの頃だった。北国育ちの私には、芙蓉というのは馴染みがなく、初めて見る花だった。芙蓉は昔から美しい女性の例えに用いられたそうだ。日本書紀には、680年の、橘尼寺という寺の火事の話が出てくる。日本書紀の記述や芙蓉の花から想像すると、ここは元々尼寺だったのかも知れない。

日本の歴史に大きな足跡を残したとされる聖徳太子だが、実は実在しなかったともいわれる。例えば中国の歴史書には出てこない。功績とされる十七条の憲法には、後世の役職名の表現がある。また死後100年経ってようやく文献に登場する、という不自然さなどから、後世の人々が作った架空の人物だとする学者がいる。

旧一万円札や教科書などでおなじみの、肖像画の冠や衣服なども、当時の物ではないとされる。もし聖徳太子が後世の創作なら、何故そのような人物を作ったのだろう。疑問が増すばかりである。古代とは謎だらけの時代である。それゆえ人々の想像を掻き立て、惹きつけるのかも知れない。
 
【メ  モ】
橘豊日命
 

第31代の天皇。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)ともいった。

   
穴穂部間人皇女
 

巡行中、厩の戸口で聖徳太子を産んだとされる。

   
田道間守
 

橘の実を持ち帰った時、垂仁天皇はすでに亡く、悲しみの中、この地に橘の実を撒いたといわれる。

   
勝鬘(しょうまん)経
 

在家の女性信者、勝鬘夫人が釈迦に誓った事を説いたとされる経典。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲飛鳥仏(奈良県明日香村)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲蘇我入鹿の首塚(奈良県明日香村)
周辺MAP
【アクセス】 
近鉄橿原線「橿原神宮前」から奈良交通バス「飛鳥駅」行き乗車、「飛鳥大仏前」下車。

 自転車を漕ぎ、日本最古の寺院、飛鳥寺を目指した。観光地図では粗すぎて、今どこを走っているのかさえ分からない。出会う人々に道を聞きながら、やっとの思いで辿り着いた。「こんな小さな寺なのか」。寺を見て、いささか失礼ではあるが、拍子抜けしてしまった。だが創建時は回廊を巡らし、五重塔や金堂を配した大寺院だった。本尊の飛鳥仏(釈迦如来坐像)は、鞍作止利が作った日本で最も古い仏像である。飛鳥寺は蘇我馬子の発願により、596年に建立された。

日本書紀によると、552年(538年とする説もある)、百済の陽明王から欽明天皇に仏像や経典が贈られ、初めて仏教が日本に紹介された。この大陸の先進文化である仏教導入に熱心だったのは、蘇我稲目を中心とする蘇我氏であった。それに対し、仏教の導入は、日本古来の神々をないがしろにし、伝統的精神を放棄することだと、反対したのが物部尾輿などである。

疫病が流行すると、「原因は仏教導入に反対したからだ」「いや、古来の神々を軽んじたせいだ」と互いにののしり合い、対立は遂に武力衝突となってしまった(丁未の変)。戦いには蘇我氏が勝ち、蘇我氏と結びついた推古天皇や聖徳太子らが、仏教興隆を目指し寺院建設に取り組む。

飛鳥仏は、度重なる火災で修復が繰り返され、原型を留めているのは、顔の一部と右手の指だけである。しかし紛れもなく1500年にわたり、民衆の信仰を集め、人々を救ってきた仏像である。飛鳥仏は朝鮮風の仏像で、他の日本の仏像のような、ふくよかさはない。厳しい表情で、厳父を思わせる。肌寒い本堂で仏像と対峙していると、自分の弱さを見透かされたようで思わず背筋を伸ばした。

寺のすぐそばに、大化の改新で、暗殺された蘇我入鹿の首塚がある。若い女性達が、無邪気な笑顔で記念写真を撮っているのが見えた。栄枯盛衰は世の常であるが、田んぼの中にポツンとある首塚を見て、滅びた蘇我氏の運命に、人の世の無常を重ねるのは私だけだろうか。

 
【メ  モ】
鞍作止利(くらつくりのとり)
 

渡来系の仏師。奈良・法隆寺の釈迦三尊像などを制作。

   
蘇我稲目(そがのいなめ)
 

天皇を補佐し、王権の中枢を担った。大和朝廷で最大の権勢を誇った。

   
物部尾輿(もののべのおこし)
 

軍事、警察の最高責任者であり、蘇我氏の対抗勢力。

   
丁未(ていび)の変
 

対立は各々の子の蘇我馬子、物部守屋まで引き継がれ、蘇我氏が物部氏を滅ぼした。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲石舞台古墳(奈良県明日香村)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲古墳の石室内部(奈良県明日香村)
周辺MAP
【アクセス】 
近鉄吉野線「飛鳥」下車。
徒歩30分。

 飛鳥時代とは、6世紀から8世紀にかけて、奈良・飛鳥の地に都が置かれた頃を中心にした時代をいう。聖徳太子が活躍し、国の基礎を築いた時代である。遣隋使の派遣が始まり、中国の影響を大きく受けた。大化の改新により、初めて元号が定められた。対外的には、朝鮮との戦争(百村江の戦い)があり、また皇族同士が覇権を争った内乱(壬申の乱)も勃発し、激動の時代でもあった。

現在の飛鳥の地は静かな農村で、すっかり歴史の表舞台からは遠ざかっている。その地で、今なお人々の注目を集め、飛鳥時代を代表する建造物が石舞台古墳である。外国人にも関心が高いようで、熱心にカメラを向ける姿も見られた。私もその大きさに目を見張った。埋葬者は不明で、謎に包まれた古墳である。蘇我馬子の墓であるとも言われているが、定かではない。

上部が平らで、舞台のように見えるので、昔から石舞台と呼ばれている。出来た当初は盛り土があり、普通の古墳だった。何故土が取られてしまったのかは分からない。埋葬品は全て盗掘にあい、何も残っていない。恐らく国宝級の文物が、大量に眠っていたに違いない。

積み重ねられた石は、高さ約5b、長さ約7b、幅は約4bにもなる。横穴式の石室は見学出来る。中に入ると天井は高く、意外に広かった。かつては一辺が55bもある日本最大級の方墳だったという。埋葬者はかなりの権勢を誇った人物だったのだろう。どんなドラマが隠されているのだろうか。

これだけ大規模なものゆえ、確かに蘇我馬子のものでも不思議ではない。石の前に立ち揺籃期の日本を思う。馬子は「改革派」だった。積極的に海外に学び、国造りに邁進した。当時の日本の目標は、「先進国に追いつけ、追い越せ」。明治時代や戦後の日本と同じである。やっと追いついた今、新たな針路を定める時であるのだが・・・・

 
【メ  モ】
聖徳太子
 

日本初の憲法を制定した。隋(当時の中国)と国交を開き、日本の近代化に尽くした。

   
百村江(はくすきのえ)の戦い。
 

663年。唐と新羅(しらぎ)は百済(くだら)を攻撃し、百済の同盟国の日本は、参戦を余儀なくされた。日本は大敗し、大きな犠牲を払った。

   
壬申(じんしん)の乱
 

672年。天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継を争い、国内戦争に拡大。大海人皇子が勝ち、天武天皇となった。

   
蘇我馬子(そがのうまこ)
 

推古天皇などの時代、天皇の外戚として絶大な権力を振るった。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲水落遺跡(奈良県明日香村)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲水落遺跡の一部(奈良県明日香村)
周辺MAP
【アクセス】 
近鉄橿原線「橿原神宮前」下車。自転車で30分。

 外国人が日本に来てまず驚くのは、日本人の時間に対する厳格さだそうだ。交通機関の時刻表は分刻みで表示され、電車が5分でも遅れようものなら、お詫びのアナウンスが流れる。私自身もバスが2、3分遅れただけで、もうイライラしている。ハワイに行った時、バスはいつ来るか分からないので、停留所で延々と待ち続ける、という話を聞いて驚いたものである。

日の出とともに働き、日の入りとともに休んでいた日本人の生活に、時間の概念が導入されたのは斉明天皇の頃(660年)である。日本書紀には、皇太子の中大兄皇子が初めて水時計を造り、人々に時刻を知らせたとある。場所は書かれていなかったが、1981年に、奈良県明日香村北部の飛鳥川東岸近くで、その水時計の遺構が発見された。

時間の支配は、国土と民衆を統治するための重要な手段だった。秩序と規律を生み出す源泉となるからだ。発見された水時計は「漏刻」と呼ばれ、一定に水を流し、その水量によって時刻を知る装置であった。時刻を管理するため、漏刻博士という職が置かれた。せわしい日本人の始まりである。

最寄りの駅前で自転車を借り、遺跡を目指した。市街地を離れると、突然、鮮やかな稲の緑が眩しい田園風景が広がった。時が一気に1400年さかのぼったような錯覚を起こした。現在の遺構は一辺22bほどの方形で、一列各5本で5列の石柱が並んでいる。説明板にある水時計の図を見ると、大きな建物で、現代の時計のイメージからは想像も出来ない。建物は2階建てで、1階に時計、2階に時を知らせる鐘が設置されていたという。
当時は中国からは倭国と呼ばれ、まだ日本という国名もなかった。国家としての諸制度を整えるために、積極的に中国から先進文化を取り入れていた頃である。「時計装置の製作と運用は、

当時の、最新かつ最高の科学技術を結集した国家的な大事業であった」(説明板から)。時計の設置とは、天皇の統治を完成させ、統一国家形成のための大プロジェクトだった。力の支配から、政治による統治の幕開けとなったのだ。

 
【メ  モ】
斉明天皇
 

37代の女性天皇。皇極天皇の重祚(再度の即位)。

   
中大兄皇子
 

大化の改新で中臣鎌足と共に、蘇我氏を滅ぼし政権を奪回。後の天智天皇。

   
漏刻
 

唐(618〜907年)の呂才が考案した。サイフォン式といわれる。

   
倭国
 

後漢(25〜220年)の歴史書「漢書」に初めて記述が出てくる。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲泉涌寺仏殿(京都市)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲本坊前の庭(京都市)
周辺MAP
【アクセス】 
JR奈良線「東福寺」下車。徒歩20分。

 泉涌寺(せんにゅうじ)は平安時代に、弘法大師が東山の月輪山(つきのわさん)の麓に、庵を結んだことに始まると言われる。都の中心をなす大寺院となるのは、朝廷の帰依を受けた鎌倉時代からである。四条天皇や、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇までの全ての天皇、皇后の菩提所として定められ、天皇家とのかかわりは深く御寺と呼ばれている。

戦後まで約700年にわたり、一般に公開されていなかったため、近くにある清水寺や東福寺などに比べると知名度は低い。しかしかえってそれが幸いし、京都の中心街にあるとは思えないほど静かな環境の中にある。総門から木々に囲まれた緩やかな坂道を上っていくと、ハイキングの途中の年配夫婦とすれ違った。こうしたところが、他の観光地化した寺院とは違う。向こうから挨拶をしてきたので、あわてて返礼をした。

仏教が日本に伝来し、各地で布教が進むにつれ、神仏習合が進んでいく。古来の日本の神々も仏教により救われるという考え方が広がり、神社の中に寺院が建立されたり神前で読経されたりした。さらに、仏は日本では、神の姿を借りて現れた、という本地垂迹説が唱えられるようになる。阿弥陀如来が八幡神となり、大日如来は伊勢大神である、というような考え方である。

こうした思想背景から、天皇が仏教寺院を菩提寺にすることに抵 抗はなかったのであろう。しかし明治時代になると、神仏分離政策が取られる。天皇を頂点とする中央集権国家の形成を目指し、神道を国民統合の精神的支柱にするためである。以後、皇族の祭礼は神式となったが、私的には泉涌寺での法事、焼香などの行事は続けられている。一般でも神仏分離は徹底することなく、曖昧なまま今日まで続いているようなものである。

境内の奥にある御座所は現在、皇族参詣の際の休憩所として使われている。金色をふんだんに使った襖絵が高貴さを漂わせる。皇族ゆかりの品々も陳列されていて、必見の価値はあるだろう。名の由来になった泉は今も涌き出ているという。

 
【メ  モ】
泉涌寺
 

創建した際、清らかな泉が涌いたのが名の由来。

   
神仏習合
 

仏教が主で神道が従だった。奈良時代には神社を運営する寺院が現れた(神宮寺)。

   
本地垂迹説
 

本地とは「本来」、垂迹は「後」。八百万(やおよろず)の神々は本来の仏の化身という考え方。

   
神仏分離
 

中世から神道復古として、神仏分離は見られた。狭義では明治政府の政策を言う。

「国定忠治の古都巡り」 -4-
相国寺・法堂(京都市)
▲即成院本堂(京都市)
相国寺・瑞春院(京都市)
▲即成院山門(京都市)
周辺MAP
【アクセス】 
JR奈良線「東福寺」下車。徒歩20分。

 那須与一と言えば、平家物語に登場する弓の名手である。讃岐(香川県)屋島の戦いで、瀬戸内海の沖に浮かぶ、平家の船の上に掲げられた扇子を馬上から射抜き、両軍から喝采を浴びる場面は有名である。その那須与一の墓がある寺院が、京都の洛東にある即成院(そくじょういん)である。
皇室ゆかりの大寺院である、泉湧寺目当ての観光客が多いので、すぐそばにあるにも関わらず訪れる人は少ない。本堂には阿弥陀如来と楽器を奏でる二十五菩薩坐像が安置されている。二十五菩薩が揃った来迎図像は、日本では唯一のものだそうである。

那須与一の墓は、傘のついた巨大な石の墓で、誰でも見学出来る。与一の墓は全国に数ヵ所ある。伝説上の人物の墓は、後世のゆかりの地域の人々が、記念碑的に作るので、どれが本物かは分からない。しかし人々の心の中の誇りを象徴しているものであるから、どれも偽物と断じるわけにはいかない。作った人々の思いを尊重しなければならない。

即成院は、992年に恵心僧都が伏見の地に建立した光明院を始まりとする。移転を繰り返し、明治時代に現在の地に落ち着いた。那須与一は下野(栃木県)に生まれた。9人の兄は平氏につき、兄弟で袂を分かった。源義経に従い、屋島の合戦に参加したのは弱冠17歳の時である。従軍のため都に入った時、病に伏した。即成院の阿弥陀に霊験があると聞き、祈願したところ健康を得たという。戦いで武勲を上げ、丹波、信濃、若狭など五州を受領した。後年、即成院に庵を結び、そこで生涯を過ごした。 

那須与一が病気を治したと言われることから、ここは病気平癒を願って参拝する人が多い。医学の進歩は日進月歩なのに、病める人は増えている。ストレスのかさむ現代は、精神を病む人も多い。苦しみの多い世界に生きる我々に、どう生きたらいいか指針を与えるのが本来の宗教の役割だと思うが、現代の宗教界はそれに応えているのだろうか。

 
【メ  モ】
平家物語
 

昔は琵琶法師によって語られた。後に数々の源平の軍記物が派生した。

   
屋島の戦い
 

源義経を守り、矢面に立った佐藤継信の最期が有名。貧弱な矢を落とし、平家に悟られまいと右往左往する義経の姿も描かれている。

   
那須与一の墓
 

栃木県大田原市、神戸市須磨区にもある。供養塔は山形県米沢市、岡山県井原市にある。

   
恵心僧都
 

源信。「往生要集」を著わす。浄土思想に大きな影響を与えた。

 
相国寺・法堂(京都市)
▲羅城門(京都市)
周辺MAP
相国寺・瑞春院(京都市)
▲千本通り(京都市)
【アクセス】
市バス16系統「羅城門」下車すぐ。

 京都になじみのない人がよくする勘違いがある。現在のメーンストリートである烏丸通りが、昔からの中心通りであると思いこむことである。確かに烏丸通りには、銀行、大企業の支店が並び、都市機能の中枢をなしている。また地下鉄烏丸線が地下を通り、京都の交通網の中心ともなっている。

平安京が造営された当時、市街地は現在より西にずれていて、鴨川を挟んでいなかった。朱雀大路という幅84bの大通りが中心を南北に走り、都を右京(西側)と左京(東側)に分けていた。今の千本通りがそれに重なる。通りの南端には、都の入り口として羅城門(羅生門ともいう)が設けられていた。二層からなり、幅32b、奥行き8b、朱塗りの柱、瓦葺の堂々たる建物だった。しかし816年と980年に暴風雨で倒壊し、その後は再建されなかった。

平安時代の後期になると都は衰退し、社会の乱れとともに門も荒廃した。盗賊の棲家となり、羅城門にまつわる奇談が多数生じた。映画「羅生門」はそれらに題材を取ったものだ。現在、門跡は児童公園になっており、標石が立っている。都の表玄関として、きらびやかさやを誇っていたことを考えると、物悲しい光景である。

右京は桂川から広がる湿地帯のため、住みにくく過疎化した。一方、左京は過密がひどく、市街地は東に広がっていった。13世紀には内裏が焼失し、14世紀に現在の位置に御所が造られると、朱雀大路はメーンストリートの役目を果たさなくなった。

都市とは生き物である。時の流れとともに、表情が変わるのは当然だが、昔の面影が無くなっていくのは寂しい。しかし千年以上にわたり、変貌を繰り返しながらも、連綿と人々の営みが続いているのは、驚嘆すべきことだ。京都の人は今でも、天皇はいずれ戻って来るので、東京は仮の都に過ぎず、こちらが本当の都だと言う。この京都人のプライドがこれからも町を支えていくのだろう。

【メモ】
●烏丸通
「からすま」と読むが、平安時代は「からすまる」と言った。京都駅開業により発展した。
●右京、左京
天皇の住まいの内裏から見て、右が右京、左が左京。地図で見ると、右が左京区で、左が右京区になっているのはそのため。
●朱雀大路
中国、朝鮮の王城都市は碁盤の目のように道路を配した。中心の南北の通りは、南の守護神・朱雀にちなんで命名された。
●羅城門
羅城とは城壁のこと。異民族による侵略の心配がない日本では、城壁はなく門だけだった。
相国寺・法堂(京都市)
▲相国寺・法堂(京都市)
周辺MAP
相国寺・瑞春院(京都市)
▲相国寺・瑞春院(京都市)
【アクセス】
地下鉄烏丸線「今出川」下車。徒歩3分。

 京都御所の真北にある相国寺は、臨済宗の相国寺派の大本山である。室町幕府3代将軍足利義満が創建し、夢窓疎石を開山とする。金閣寺と銀閣寺は、同寺の境外塔頭である。「五番町夕霧楼」「飢餓海峡」などで知られる直木賞作家の水上勉は、相国寺の塔頭瑞春院で小僧として修行をしていた。

同志社大学と同志社女子大学の間の、今出川通りに面した道を北に歩くと総門がある。門をくぐると静寂な世界が広がる。松の林に包まれた広い境内には、堂宇が点在し、大寺院の風格が漂う。豊臣秀頼が寄進したという法堂は、仏殿が焼失した同寺にあって、本尊のある中心的な場所である。境内の数ある建物の中で、一番端正で、その華麗さに魅せられ何枚も写真を撮った。

水墨画の雪舟も同寺で修行をした。絵ばかり描いて修業をさぼり、柱に縛り付けられた雪舟が涙で書いたネズミが、本物と見まがうほどうまく、絵の修業を許されたという物語は、雪舟が神格化された江戸時代に出来た話らしい。本当の経緯は分からないが、絵の修業のため相国寺に入山し、当時の有名画家周文に学んだ。

寺宝を収めている承天閣美術館に、創建時の金閣寺の頂にあった鳳凰像がある。1950年の金閣寺焼失前に、取り外されていたという。金箔は剥がれ落ちているが、損傷はない。目が大きくマンガチックな顔をしており、手塚治虫の漫画の火の鳥に似ている。義満の権力の象徴として、屋根の頂に取り付けられていた。

足利義満は南北朝を統一し、室町幕府の全盛期を築いた。その幕府跡地は、相国寺のすぐ西隣の室町通りに面していた。現在、建物はなく石碑で当時をしのぶだけである。花の御所と言われたほど、華やかな花に囲まれた建物だった。栄華を極めた義満だったが、これまで自分が滅ぼした、数々の対峙した有力者のように、いつ自分がやられるかといつもおびえていたに違いない。そんな心を安定させるため、自分のすぐそばに相国寺を創建したのかも知れない。

【メモ】
●足利義満
山名氏、大内氏ら敵対する豪族を滅ぼし、幕府の全盛期を築く。晩年に金閣寺を建設。
●夢窓疎石
室町幕府の初代将軍足利尊氏の帰依を受ける。そのため室町時代は、夢窓門下が隆盛した。
●豊臣秀頼
豊臣秀吉の次男。大阪夏の陣で、徳川家康に攻められ、母淀殿とともに自害した。
●南北朝
足利尊氏の立てた光明天皇の皇統(北朝)と、後醍醐天皇の皇統(南朝)が並立した時代。
二条城・二の丸御殿(京都市)
▲二条城・二の丸御殿(京都市)
周辺MAP
二条城・二の丸庭園(京都市)
▲二条城・二の丸庭園(京都市)
【アクセス】
地下鉄東西線「二条城前」下車。徒歩1分。

 京都は歴史の大きな荒波にいつも翻弄されて来た。しかし現在まで、厳として日本の精神の中心として存在し続けている。そして約1100年の間、日本の首都であった。その風格は世界のどこの古都にも負けないであろう。今も日本の歴史上の、変革期の重要な舞台が数多く残る。二条城も日本の新たな出発のドラマを見届けた、貴重な歴史遺産である。

二条城は徳川家康によって築城された。家康が天下人として、朝廷や大名に力を誇示するため築城されただけに、豪華で華やかな城である。きらびやかな装飾の唐門をくぐり、二の丸御殿に入った。「柳の間」「若松の間」と呼ばれる目付役の部屋があり、さらに大名の控え室である「遠侍の間」と続く。廊下を歩くたびに、「鶯張り廊下」がキュッキュッと鳴く。城の中央にある「二の丸庭園」は、小堀遠州作と言われる。

変革の波が押し寄せた激動の幕末期、新しい日本を造ろうと、決起した若き志士達がいた。その波にあらがい、幕藩体制を守ろうとする勢力もあった。互いに反目し争う中、徳川幕府は統治能力を失い、末期症状にあった。幕府は長州征伐に失敗し、薩摩、長州は討幕の動きを強めた。限界を悟った将軍徳川慶喜は、大政奉還を決断。大政奉還の舞台が、ここ二条城である。

幕府は後の復権を目論み、討幕派は今後の主導権を握るため、様々な思惑を抱いた各藩の権力者が集った。慶喜が大政奉還を有力大名らに告げた大広間では、その様子が人形で再現されている。武士の時代の終焉を宣言する慶喜の言葉に、諸藩の大名重役が頭を下げ聴き入っている。歴史の変わり目を目の当たりにしたようで興味深い。

中国大陸では清がアヘン戦争に敗れ、領土を西欧列強に浸食されていった。アメリカのペリー率いる黒船の来航以来、日本人は自らの未熟さを思い知らされた。世界に取り残され、侵略されてしまうと、誰もが焦燥感に駆られた。日本人同士が争っている時ではない。古い体制と決別し、近代日本の幕は開いた。

【メモ】
●小堀遠州
江戸前期の武将、茶人。遠州流茶道の開祖。
●長州征伐
高杉晋作など討幕派の鎮圧のため、幕府は長州に遠征したが敗北した。
●大政奉還
徳川慶喜が将軍職を辞し、政権を朝廷に返上したことをいう。
●アヘン戦争
清のアヘン輸入禁止措置に対して、1840年にイギリスがしかけた侵略戦争。清は敗れ、香港の割譲に追い込まれた。以後中国は列強の半植民地にされていく。
東寺の五重塔(京都市)
▲東寺の五重塔(京都市)
周辺MAP
西寺跡の碑(京都市)
▲西寺跡の碑(京都市)
【アクセス】
近鉄京都線「東寺」下車。徒歩7分。

 新幹線が西から京都に近づくと、駅近くに東寺の五重塔が見えてくる。京都を感じる瞬間である。旅行で訪れる人達は、これからの京都観光に思いを馳せ、心が躍る瞬間だろう。東寺は京都を代表する寺院として有名だが、東寺と同時に建立された、西寺という寺院があったことを知っている人は、あまりいないに違いない。

桓武天皇が平安京を建設した際、都の入り口の羅城門の東西に、朱雀大路を挟んで、東寺と西寺を配した。両寺院は、国家鎮護を祈る官寺として建立された。東寺は現在でも五重塔を始め、数々の国宝を持ち、京都のシンボルとして君臨している。一方、西寺のほうは時代が下るにつれて廃れ、寺跡の公園にある碑が、わずかに記録を留めるのみである。

東寺の800mほど西にある唐橋小学校とその北の公園が、かつて西寺があったところである。公園内の丘で、子供たちが草ゾリ遊びをしていた。草むらには、建物の礎石が見える。ここにかつて東寺と並び、栄華を誇っていた大寺院があったとは信じられない光景である。記録によれば、990年にほとんどの建物が焼失し、1233年にも火災に遭い、その後二度と再建されることはなかった。

東寺は嵯峨天皇によって空海に下賜され、真言密教の道場となった。こちらも4度の火災に見舞われている。その他に落雷、兵火などの災害に遭遇したが、その都度再興され、現在に至っている。五重塔の高さは、約55mで日本一である。外国人のカップルが塔を見上げ、その高さに感心しきりの様子だった。現在の塔は、徳川家光の寄進という。

西寺は律令国家の官寺という性格のままだったので、律令体制が崩壊すると衰微してしまう。一方東寺では、空海が庶民のための教育機関、綜芸種智院を設置するなどし、信仰は貴族だけではなく庶民にも根付き、現在まで連綿と歴史は続く。空海の命日の21日には、毎月「弘法さん」と呼ばれる弘法市が開かれ、今でも人々に親しまれている。民衆の力を侮ってはならない。歴史を形成するのは、庶民の支持とその底力であることを、つくづく認識させられる。

【メモ】
●桓武天皇
794年、都を平安京に遷都。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、東北征伐に派遣。
●嵯峨天皇
桓武天皇の皇子。能筆で知られ、三筆の一人。
●空海
弘法大師。真言宗の開祖。書に優れ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と言われる。
●律令制度
律(刑法)、令(民法、行政法など)による法治体制。
寺田屋前景
▲寺田屋前景
周辺MAP
宇治川派流
▲宇治川派流
【アクセス】
京阪本線「中書島」駅下車。徒歩10分。

 坂本龍馬が伏見奉行の捕り方に襲われた寺田屋は、京都の伏見にある。京阪の中書島駅の北口から北へ進み、蓬莱橋を渡ると西側に寺田屋が見える。道を挟んだ南の向かい側は、宇治川派流を巡る三十石船の乗り場になっている。ただし移動、運搬手段としての三十石船は、鉄道の発達に伴い、明治中ごろに消えている。現在運航されているのは、観光用として復活したものである。

寺田屋は現在も旅館業をしている。観光名所になっているので、見学客が引きも切らず押し寄せる。この日はずいぶん女性が多い印象だった。若い女性に人気のあったNHKドラマ「篤姫」の影響だろうか。庭に龍馬が少年の頃、詠んだ歌の碑があった。「世の人はわれを 何とも云わばいへ わがなすことは 我のみぞ知る」。愚鈍で蔑まれた少年龍馬だったが、心に秘すものはあったのだろう。「今に見ていろ」と野心を燃やしていたに違いない。その思いをその後の人生の心の支えとして、ずっと持ち続けていたのかも知れない。

客室は2階に6室ある。龍馬の肖像画が掛かっている部屋は梅ノ間といい、龍馬の愛用の部屋であった。肖像画は女将のお登勢が、町の絵師に描かせたものだと言われる。幕末の動乱期、薩長連合に奔走する龍馬の身を案じたお登勢が、龍馬の姿を残すため描かせたという。龍馬自身も、自らの運命を悟っていたゆえ、承諾したのだろうか。

1866年1月23日、龍馬は捕り方に襲撃される。この時、宿の奉公人お龍のお陰で難を逃れることが出来た。捕り手に気付いたお龍が、風呂から急いで2階へ階段を駆け上がり、危機を知らせたという。その風呂は小さめの、丸い木造りだった。

元々の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失しており、現在の建物は再建したものだとの説がある。京都市は2008年に調査し、@戦いの際の焼失範囲に含まれるA焼失の文献と焼失を印す碑が存在する−などから再建されたものであるとした。しかし旅館側は、焼失は一部にすぎないと主張している。もっとも私自身は、歴史の重大な転換点に触れることの出来る喜びが、味わえればそれでいい。

【メモ】
●三十石船
旅船は運ぶ重量が、30石が普通だったのでこう呼ばれる。
●お登勢
維新の志士たちを保護した女将。龍馬も多くの手紙を出している。
●お龍
後の龍馬の妻。龍馬の死後は再婚し、1906年に66歳で死去した。
●鳥羽伏見の戦い
旧幕府軍と新政府軍との戦争の緒戦。戦いは箱館・五稜郭まで続く(戊辰戦争)。
常寂光寺の本堂
▲常寂光寺の本堂
周辺MAP
女の碑
▲女の碑
【アクセス】
JR山陰線「嵯峨嵐山」下車。徒歩15分。

 百人一首で知られる嵯峨野の、小倉山の中腹にある常寂光寺は、1596年、本国寺の管主を降りた日禎が、隠栖するために建立した寺院である。隠栖は、豊臣秀吉の建立した方広寺大仏殿への供養要請に対し、不受不施の宗制を守り、応じなかったためと言われる。訪れたのは元日である。あいにくの小雨模様で、肌寒かった。初詣客で賑わう街中の社寺と違い、人影もまばらで静かなので、かえって落ち着く。

角倉了以らが土地を寄進し、小早川秀秋が建立に協力したという。本堂まで長い階段が続く。山門をくぐると仁王門が目に入る。元々、本国寺の南門として南北朝時代に建てられたものだが、1616年に移築されたという。やっとの思いで登りきると、京都市内が一望出来た。様々な形のビルが密集した、巨大都市が眼下に広がる。京都とは、日本有数の近代都市であることを実感する。

本堂より高いところに多宝塔がある。その秀麗さにしばし見とれる。日常の喧騒から離れ、静かな環境にいると、どこかに置き忘れている「我(われ)」を取り戻せるような気がする。普段の生活に戻っても、混迷深まる時代様相に流されることなく、自分を見失わないようにしたい。今自分や他人を粗末にする人が多い。無数の人々によって生かされている自分が見えないからではないか。それが分かれば、自分勝手な生き方は出来ないと思う。

石畳の小道を下っていくと石碑が目に入る。「女ひとり生き ここに平和を希う」と刻まれている。これは「女の碑」という。第2次世界大戦で、200万人もの若者が犠牲になった。その陰で結婚相手を失い、独身のまま生きなければならなかった女性たちが、生きた証を記し、戦争を二度と繰り返してはならないとの思いを、後世に伝えるために建立したものだという。碑文の揮毫は市川房枝である。どんどん風化する戦争の記憶だが、まだ地球上では戦争が絶えない。碑の言葉を心に刻み、常寂光寺を後にした。

【メモ】
●日禎(にっしん)
日蓮宗の高層。18歳で、本国寺の法灯を継ぐ。歌人としても有名。
●不受不施
自宗以外の信者からは布施を受けず、他宗の僧侶には布施をしないこと。
●角倉了以
安土桃山〜江戸時代の豪商。京都の水運事業に貢献。造営した運河の一つが高瀬川である。
●小早川秀秋
関ヶ原の合戦で、西軍を裏切り、東軍に付く。この裏切りにより徳川側が勝利したと言われる。
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