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古都巡りTOPへ>古都巡りバックナンバー30〜39
2012年9月「古都巡り」出版決定!詳しくはこちら

●殉教者の無念を思う ○法然院

作家の谷崎純一郎、経済学者の河上肇など有名人の墓が多数ある法然院は、哲学の道から少し外れた石段を上った静かな所にある。山門をくぐると二つの白い盛り砂で出来た白砂壇(びゃくさだん)が並んでいる。模様が水の流れを表現しているそうで、間を通ることにより心身を清めて入山する。

法然が弟子の住蓮、安楽と共に念仏修行に励んだ草庵が、法然院の始まりとされる。法然の流罪後は、長い間荒廃していたが、1680年、知恩院の管長萬無心阿(ばんぶしんあ)、弟子の忍澂(にんちょう)が念仏道場として再興した。


▲白砂壇( びゃくさだん )−ここを通り、心身を清める

白砂壇の一方の模様が正月らしく「寿」だった。模様は季節に応じて変えるそうである。中には古色蒼然とした伽藍が点在しているが、残念ながら通常は非公開である。しかし庭園を散策するだけでも心休まる。静寂さの中に滝の流れる音が響いていた。束の間の安らぎの時間に身を置いた。

後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女官、松虫、鈴虫の姉妹が住蓮、安楽の影響を受けて剃髪すると、激怒した上皇は安楽、住蓮を処刑してしまった。法然も讃岐国(香川県)に流罪となった。法然一派の隆盛に危機感を抱いた旧仏教側が、上皇に取り入り弾圧の進言を繰り返しており、感化された上皇がこの機に乗じ迫害に乗り出したのだろうと私は考える。

平安末期から鎌倉時代にかけては、貴族中心だった旧仏教に対し平易な教えで庶民の心をとらえた念仏宗や日蓮宗のような新仏教が興隆した。新旧仏教のせめぎ合いが続いた時代でもあった。宗教の歴史は権力者との関係を抜きに語れない。民衆支配の手段として重要な要素だったからだろう。新旧宗派の勢力争いの犠牲になった彼ら彼女らには同情を禁じ得ない。


▲堂宇は未公開の法然院

周辺MAP

【メモ】
●法然
浄土宗の開祖。美作(岡山)の武士の子に生まれる。
●住蓮、安楽
住連は京の六条河原で、安楽は近江国(滋賀県)で斬首されたと言われる。
●後鳥羽上皇
政権を鎌倉幕府から奪還するため挙兵したが敗れ(承久の乱)、隠岐に流罪された。
●松虫、鈴虫
剃髪後の足取りは不明だが、大阪、広島、香川などに伝承が残る。

【アクセス】

市バス「銀閣寺道」下車。南へ徒歩15分。

●「見返り阿弥陀如来」の心を現代にこそ ○永観堂

見返り阿弥陀如来で知られる永観(えいかん)堂は、平安時代の初期、弘法大師空海の弟子真紹が開いた。正式には禅林寺、秋の紅葉で有名な寺である。永観堂という呼び名は通称であり、平安時代の中期に活躍した同寺の中興の祖と言われる永観律師からきている。

言い伝えによると、永観が阿弥陀如来の周囲を行道していると如来が須弥壇から下り、一緒に行道を始めた。永観が驚き棒立ちになると、如来が振り返って「永観遅し」と言ったという。如来像はそれ以来首の向きが戻らず、そのままの姿で安置されているという。

永観は境内に施療院を建てたり梅の木に実がなると薬として貧しい病人に施したりするなど、慈善事業に励んだ。そうしたことからか、今では見返り阿弥陀如来は遅れる者を待つ、周りに配慮する姿を表すとされている。左側を振り返ったままになっている阿弥陀如来像には、不思議な存在感があった。


▲見返り阿弥陀如来へ続く回廊

堂を結ぶ回廊にも特徴的なものがある。「臥龍廊」は山の斜面に沿って造られた回廊である。木組みの急な階段を上り下りするのが、龍の体の中を歩いているように感じるのでそう言われるそうだ。一番高い所にある多宝塔からの眺めは絶景である。京都の町並みが一望出来る。まさに龍に乗って見下ろしているようでもあり、下界でのちっぽけなことに悩む自分を振り返り苦笑した。

不況の影響で職に就けず低所得にあえぐ人々がいる。長寿は本来めでたいはずなのに、老齢人口が増え老人問題は深刻度を増すばかりである。そうした人々への救いの手は足りず、自殺や老人の孤独死が後を絶たない。現代社会の歪みは容赦なく弱者を襲う。不況は出口が見えず、超高齢化社会もすぐそこまで来ている。「見返り阿弥陀如来」の精神は現代社会にこそ必要とされている。


▲多宝塔から京都市街を望む

周辺MAP

【メモ】
●見返り阿弥陀如来
鎌倉時代の作と考えられている。伝承では東大寺にあったが、永観に託されたとされる。
●真紹(しんしょう)
平安時代の真言宗の僧。853年、歌人であった藤原関雄の邸宅跡に禅林寺を造営した。
●禅林寺
真言密教の道場として出発したが、後年、念仏寺院に衣替えした。
●永観律師
「ようかん」とも読む。11歳で禅林寺に入り、授戒後、東大寺で学んだ。

【アクセス】
地下鉄東西線「蹴上」下車。北東に徒歩20分。

●哀しき平氏の影を背負う古刹 ○六波羅蜜寺

鴨川の東、五条大路から七条大路にかけての一帯は六波羅と言われ、昔の葬送地、鳥辺野の入り口に当たった。彼岸(ひがん・あの世)と此岸(しがん・この世)の境界とされ、そうしたことからか信仰修行の場となり空也が951年、ここに念仏道場を創設した。西光寺と呼ばれていた道場は977年に、六波羅蜜寺と改称された。

六波羅蜜寺といえば空也像が有名である。疫病が蔓延する京の街中で病気退散を祈り空也が念仏を唱えると、阿弥陀仏が出現したという故事に基づいた像である。草履履きで鉦を鳴らしながら歩く空也の口から吐き出される6体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の6文字を表している。念仏が視覚的に表現され、人々に強い感銘を与える傑作である。


▲平氏の悲しみを背負う六波羅蜜寺(六波羅蜜寺)

12世紀初め、平清盛の父、忠盛が寺内の塔頭に軍勢を駐留させてから、広大な寺域に平氏一門が邸宅を構えるようになった。清盛の代になると一族郎党の屋敷が5千軒以上軒を連ね平氏の一大拠点となった。しかし時を置かずに、栄華を極めた平氏が滅び去ることになろうとは――。

今は住宅街の中にある六波羅蜜寺の境内は初詣の参拝客で溢れていたが、見果てぬ夢を追い滅びた平氏や権力者の哀しみを背負った寺院である。兵火に翻弄されたその歩みは、京都の歴史そのものとも重なる。念仏の哀音は身勝手な権力者に蹂躙された人々の苦悩を象徴しているようでもある。

世界は諸行無常、栄枯盛衰は世の常。自分を取り巻く現象に一喜一憂していても空しい。人間の一生は様々な縁との触れ合いで築かれていくが、それらに振り回されるのは愚かなことだ。栄華を誇っては消えて行った支配者達はそのことを知らず虚勢を張り続け、そのはてに自分で作り上げた幻影に恐怖し身を滅ぼしていったのかも知れない。


▲初詣では多くの人々が参拝する(六波羅蜜寺)

周辺MAP

【メモ】
●六波羅
六原、轆轤原(ろくろがはら)とも言われた。仏教の修行六波羅蜜からとの説もある。
●鳥辺野(とりべの)
平安時代以前から葬送の地だった。現在は近くに清水寺や大谷本廟がある。
●六波羅蜜寺
空也の死後、977年、比叡山の僧・中信が六波羅蜜寺と改称した。
●空也
平安時代中期の僧。市井の人々の中で活動したので「市の聖(いちのひじり)」と言われる。

【アクセス】
京阪本線「清水五条」下車。川端通りを北へ、柿町通りを東へ。徒歩15分。

●「自分には傘があるのに」――大仏を復興した公慶の決意 ○東大寺

 13歳で東大寺に入山した公慶は、ある時、雨に打たれるままになっている大仏を見上げて涙を流した。「自分には傘があるのに大仏様は風雨にさらされたままだ」――東大寺の大仏は戦国時代に戦火の犠牲となり、頭は焼け落ち体中傷だらけで、その上大仏殿も崩壊してしまっていた。心痛めた公慶は、いつか必ず大仏を復興すると誓ったのである。

 公慶37歳の時、江戸幕府に赴き大仏及び大仏殿の修復を願い出た。再興のための諸国勧進の許可は下りたが、「幕府が関知するところではない」。つまり――勝手にやってくれ。金は出さないよ――という返事であった。普通ならこの時点で動揺するものだが・・・

「本郷埴輪窯址」(ほんごうはにわかまあと)
▲公慶上人の死後再興された大仏殿(東大寺)

 決意は揺らぐことはなかった。公慶は全国行脚を開始。大仏が元に戻るまでは安眠せずと誓った公慶は寝る時も座ったままだった。疲労のため頬はこけ、皺まみれになっても勧進を続ける公慶。その姿に心打たれた人々が、貧しい中わずかな金を握りしめ寄付をしていった。その輪はやがて日本国中に広まり、集まった浄財は今の貨幣価値にして約15億円にもなった。

1692年、大仏の復興が遂に実現した。開眼供養が終わった翌日、公慶は7年振りに横になって眠ったという。歓喜と充実感に満ちた至福の時だったであろう。大仏の復興を決意してから実に32年の月日が流れていた。しかし大仏殿の再興にはさらに莫大な金額が必要だった。公慶の行動はやがて幕府を動かし、幕府は積極的に協力することとなった。公慶の生き様は、一人の人間の決意と執念がどれほどの大事業を成しえるかを教える。

大仏を見上げながら公慶の偉業に感動した。心の奥底に強固な決意があれば、どんな難事もいつか必ず実現する。公慶は58歳で死去するが、その死から4年後の1709年に大仏殿は完成した。今、境内にある公慶堂では公慶上人坐像が静かに大仏を仰ぎ見ている。

力士晴れの場「土師の辻」
▲公慶上人により再建された大仏(東大寺)

周辺MAP

【メモ】
●公慶
丹後国(今の京都府)宮津の生まれ。平安時代に東大寺を再興した重源と並び称される。
●東大寺の大仏
平安、戦国と2度、兵火で焼け落ちている。最初は重源が、2度目は公慶が再建した。
●大仏殿
現在のものは公慶が再興した。財政的な制約で、創建時の建物より小振りとなっている。
●公慶上人坐像
充血した左目、皺の刻まれた尊顔など、写実に優れ公慶の姿をよく表現している。

【アクセス】
近鉄奈良線「近鉄奈良」下車。東へ徒歩20分。

●舎利弗に目連・・・釈尊の教えを継いだ弟子達 ○興福寺

釈尊の十大弟子の一人、舎利弗は智恵第一と言われ、神通第一の目連と共に釈尊の弟子達の中で双壁をなした。初めは他のバラモンの弟子だったが、ある時釈尊の弟子から説法を聞くと、その教えに感銘を受け親友の目連を誘い釈尊の門下となった。舎利弗は学問・人徳に優れ、釈尊でさえも一目置く存在となった。

興福寺の国宝館で舎利弗にまみえた。森羅万象に通じ、あらゆる思想、哲学を論破し釈尊の教えを広めた。粗末な袈裟をまとったその姿は、私を見つめ宇宙の真理を説かんとするかのようだった。その前に俗世界の些細なことに右往左往している浅はかな自分がいる。

他にも説法第一の富楼那、忍辱第一の羅ご羅(※)など十大弟子立像が整然と並んでいた。厳しい修行中であろう姿に、厳かさを感じ襟を正さずにはいられない。弟子達は全員インド人のはずだが、丸顔も多く我々に近い顔立ちで親しみやすい。当時インド人に会った日本人など皆無だったはずなので、おそらく制作者は人種による差異など念頭になかったのだろう。

力士晴れの場「土師の辻」
▲人々の信仰を集める本堂(興福寺)

仏教はやがて世界宗教に成長していく。釈尊の教えの流布に生涯を懸けた後継の弟子達の功績である。師の教説がいかに素晴らしいものでも、それを受け継ぐ弟子の奮闘がなければ広まることはない。敵対勢力の迫害や妨害、人々の無理解を乗り越え一人また一人と信者を獲得していった。3千年にわたって弟子の人類救済の戦いが連綿と続いた。

舎利弗と目連は釈尊より先に亡くなったが、師・釈尊は悲嘆を乗り越え人類の救済の法を残した。その精神は他の弟子に受け継がれ、仏教の教えは日本にまで及んだ。威容を誇る五重塔など、興福寺境内の数々の国宝建築の荘厳さに目を奪われるばかりだが、今日に至るまで数々の殉教者のドラマがあったであろうことにも思いをはせたい。

「本郷埴輪窯址」(ほんごうはにわかまあと)
▲奈良を代表する五重塔(興福寺)

(※)羅ご羅・らごら。("ご"は、ブラウザやPCによって正しく表示されないことがあります。 漢字はこちらでご確認ください。)http://www.weblio.jp/content/%E7%9D%BA

周辺MAP

【メモ】
●十大弟子
釈尊の弟子の中で、特に高名な10人。智恵第一、説法第一などそれぞれに特徴がある。
●舎利弗(しゃりほつ)
釈尊門下、第一位の弟子。他派をよく破折し、多くのバラモンを釈尊の門下に導いた。
●目連(もくれん)
神通力を誇ったが、餓鬼道に落ちた母を神通力では救えず、釈尊の教えに従って救った。
●興福寺
藤原不比等が創建した藤原氏ゆかりの寺院。国宝・阿修羅像のある寺院として有名。

【アクセス】
近鉄奈良線「近鉄奈良」下車。東へ徒歩10分。

●家康にしてやられた本願寺勢力

 1592年、教如(きょうにょ)が本願寺の管長になったが、内紛が起こり弟の准如(じゅんにょ)が取って代わった。これに乗じたのが徳川家康である。大名すら滅ぼすほどの本願寺の権勢を恐れた家康は、内紛を利用し分断を画策した。教如に烏丸七条の地を寄進し、新たな本願寺を建立させたのである。ここに西と東の本願寺が並立することになった。

 東本願寺の南のお堀の中にハスの花が咲いていた。ハスは汚れた泥の中に綺麗な花を咲かせるので、苦悩多き現実社会の中で決然と生きる人間の姿を表すとされる。それは平凡だが真面目に生き、力強さを内に秘めた市井の人々の象徴である。

 東本願寺から東へ5分ほど歩くと付属の公園「渉成園」がある。ここは元々、源氏物語のモデルの一人とされる嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)が造ったものとされる。1641年、徳川家光が東本願寺に寄進した。周辺に枳殻(カラタチ)が植えてあったので「枳殻邸(きこくてい)」とも呼ばれた。大きな池が印象的な日本庭園である。

力士晴れの場「土師の辻」
▲池が美しい渉成園

多くの歴史的な文物に恵まれる東本願寺だが、一番驚いたのは明治時代、御影堂を再建する際、全国の女性信者の髪の毛と麻をより合わせて造ったという「毛綱」である。長いものは100メートルを超えた。木材の搬出、運搬で綱が切れ事故が続いたので、より強固なものとして採用された。太く黒い綱の迫力に絶句、女性の強さに男はとても敵わない。

 宗教勢力を天下取りの障害と弾圧する織田信長に徹底抗戦を貫いた教如は、和睦を唱えた父の顕如一派と対立し、内部抗争が始まった。豊臣秀吉から堀川通六条の地を寄進されたが、反信長の教如は管長の座を追われた。それを利用したのが家康であった。人間の愛憎模様を巧みに利用し、最後に野望を遂げた家康の狡猾さにはやはり脱帽せざるを得ない。

「本郷埴輪窯址」(ほんごうはにわかまあと)
▲観光客も多い御影堂

周辺MAP

【メモ】
●教如
大坂・石山本願寺で織田信長への屈服を拒み、戦いに及んだ。戦いは11年にわたった。
●准如
教如の弟。信長、秀吉との和睦派で兄と対立した。
●大名すら滅ぼすほどの権勢
加賀(今の石川県)では富樫氏を滅ぼし、100年にわたり支配した。
●源融
陸奥国・塩釜の風景を模して渉成園を造営したと言われる。

【アクセス】
京都駅から徒歩5分。


▲重要文化財「龍谷大学本館」
周辺MAP

▲新撰組の拠点「太鼓楼」

●古来の伝統と近代が融合した空間――西本願寺

西本願寺の門前は仏具店が軒を連ね、いわゆる「観光地」とは一風違った雰囲気である。そこから堀川通りを渡り、塀沿いに北へ歩くと「太鼓楼」がある。幕末、新撰組は壬生屯所が手狭であったことから西本願寺へ移り、北東にあった「北集会所」とこの太鼓楼を拠点としていた。太鼓楼とは、時を知らせたり法要の合図として打たれた太鼓を備えた楼閣のことである。

新撰組は境内では乱暴な振る舞いだったので、参拝者や僧侶にとっては迷惑千万だったらしい。新撰組のほとんどは殺されていったが、島田魁(しまだ・さきがけ)という隊士は生き残り、罪滅ぼしのためか、維新後本願寺の守衛を務め終生太鼓番をしたと言われる。

室町時代中頃、蓮如が活発な布教活動を展開し、浄土真宗(一向宗)は近畿、北陸、東海と日本各地に広がった。戦国大名さえ震え上がらせた民衆の抵抗運動「一向一揆」は、人間の平等を説いた教えと相いれない、古い支配体制からの脱却を目指した民衆運動とも言えるかも知れない。

京都駅から近いので、手軽に歩いて行くことが出来る。駅を少し北に行くと古い家並みが幾重にも続いている。そこを歩いていくと、いかにも歴史ある京都らしい風情である。車庫に高級車があったり衛星放送のアンテナがあるのは御愛嬌。人の息遣いがある証拠だ。

西本願寺の周囲には同寺に関係する建物が幾つもある。明治時代に建設された貴重なものが多い。伝道院、龍谷大学本館は西洋風の建築様式でありながら、古来日本の伝統美を表現したとされる評価の高い建物である。伝統的な日本と、近代の日本を体験出来る貴重な空間が西本願寺である。

 

【メモ】
●西本願寺
親鸞の娘が東山に御影堂を建てたのが始まり。豊臣秀吉が現在の地を寄進。
●島田魁
美濃国(岐阜県)出身。箱館戦争の唯一の生き残り隊士。新撰組一の巨漢で知られる。
●連如
親鸞の教えを平易に民衆に伝え、宗勢は大いに高まった。浄土真宗の中興の祖。
●伝道院、龍谷大学本館
いずれも明治時代の竣工。龍谷大学本館は重要文化財。

【アクセス】
京都駅から徒歩10分。


▲ 人々を癒してきた「五重塔」
周辺MAP

▲ 女人高野と呼ばれる「室生寺」

●癒しの歴史――「女人高野」に蘇った五重塔

室生寺の門前に「女人高野(にょにんこうや)室生寺」と刻まれた石柱が立っている。室生寺は江戸時代、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院が多くの寄進をしたことから、その力添えにより女性にも参拝が許された。同じ真言宗の女人禁制の高野山に対して「女人高野」と言われるようになった由縁である。

創建は奈良時代の末期と言われる。奈良盆地の東、室生の地は雨が多く、龍神すなわち水流を司る神・青龍が棲むと言われていた。龍神信仰が広まるにつれ、雨乞いの儀式も盛んになった。桓武天皇の病平癒を室生山で龍神に祈念したところ快癒し、喜ばれた天皇が自ら発願し国家鎮護の寺院として発足したのが室生寺である。

 興福寺の僧・賢m(けんけい)により創建されたことから法相宗の寺院であったが、時代が下るにつれ天台宗や真言宗の影響を受けるようになる。桂昌院の影響力が大きくなると、興福寺を離れ真言宗の寺院となった。境内は室生山の山麓から中腹にかけて広がる。仁王門をくぐり鎧坂を上ると金堂、弥勒堂などが目に入った。どれも国宝級の建物である。

室生寺を象徴するのが五重塔である。屋外の物としては日本最小で、高さ16.1メートル。1998年の台風で大破した。約1200年前に建立され、法隆寺の次に古いこの塔はボロボロに破壊され、再建は絶望しされていたが、最先端技術を駆使し奇跡的に蘇った。

傷つき心に病を負った多くの人々が癒しを求めて参拝に来たに違いない。もちろん私のような呑気な観光客も多かっただろう。どちらにも何かを優しく語りかけて来た五重塔である。静かな山中で千年以上にわたり人々の心を癒してきたこの塔の歴史は、これからも続いていく。

【メモ】
●桂昌院
真偽はともかく、八百屋の娘から大奥に入り、家光に見染められたと言われている。
●興福寺
法相宗の大本山。平安時代に栄華を誇った藤原氏の祖、藤原鎌足、不比等ゆかりの寺院。
●賢m
尾張の国(愛知県)出身。鑑真から戒を受ける。
●五重塔
静かな環境の中にある可憐で凛とした姿が若い女性に人気。

【アクセス】
近鉄大阪線「室生口大野」下車。徒歩30分。


長い石段の続く登廊
周辺MAP

祈る人の絶えない本堂

 ●「わらしべ長者」の伝わる「鎮魂の地」

「わらしべ長者」の舞台は奈良・初瀬(桜井市)にある長谷寺である。――貧しい若者が、長谷寺の観音様に参詣した後転んでしまった。その際拾ったわらしべに、うるさく飛び回る虻を捕まえて括りつけ持っていたが、それを乞われるままに蜜柑、布三反、馬・・・と交換していき、ついには屋敷や莫大な財産を得て大金持ちになった。 

初瀬は長谷寺詣が盛んとなった平安時代に門前町として栄えた。また伊勢参りの経由地でもあることから鎌倉、室町時代には宿場町としても知られた。山深い初瀬川の渓谷沿いの静かな集落であり、奈良時代は隠国(こもりく)の里と呼ばれ魂を鎮める地とされた。古くから文学に取り上げられ、「源氏物語」「枕草子」「更級日記」などにも登場している。

「長谷寺」駅で電車を降り坂道を下って行くと、古い木造家屋が連なる市街地に出た。日本最古の天満神社、素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祀る素盞雄神社、源氏物語に登場した玉鬘(たまかずら)庵跡など歴史的な名所が続いている。

長谷寺の登廊(のぼりろう)を上って本堂を目指した。長い石段が延々と続く。「花の御寺」と言われるように、四季を通じて花に恵まれるが、特に牡丹が有名で、唐の皇妃、馬頭夫人(めずぶじん)が霊験を得たお礼に献木したのが始まりと言い伝えられている。

周囲を山々に囲まれたこの地は、古くは「ヤマト」と言われ、やがて大和国(やまとのくに)となり、それが日本を指すようになった。ここは神が降臨する地とされ、神聖視されていた。古代の大王級の古墳も多くまさに「隠国」、静かな山里であるこの地は日本の原点でもあるのだ。登廊を歩いていると、ホラ貝の音が響き渡った。これは千年の昔から途切れることなく続く、正午の時を知らせる長谷寺の習わしだという。

【メモ】
●わらしべ長者
原話は「今昔物語集」「宇治拾遺物語」にある。

●長谷寺
686年、道明上人が天武天皇の病気平癒のため開山。

●馬頭夫人
唐の僖宗(きそう)皇帝の妃馬頭夫人が観音様に祈ると美人となり、お礼に牡丹を寄進。

●ヤマト
山の麓、山に囲まれた所から来たと思われる(他にも諸説あり)。

【アクセス】
近鉄大阪線「長谷寺」下車。徒歩30分。

読者のひろば

出雲阿国像
周辺MAP

南座正面
【アクセス】阪急京都線「河原町」下車。徒歩10分。

 ●謎多き歌舞伎の創始者――出雲阿国

歌舞伎といえば南座と言われるほど南座は歌舞伎の殿堂として有名であるが、江戸時代、京の四条河原町には七つの芝居小屋があった。しかし火事が度重なり閉鎖されていった。南座の四条通りを挟んだ北には北座があったが、1892年の四条通りの拡張に伴い廃止されてしまった。

 南座のすぐそば、四条大橋の東詰北側に歌舞伎の創始者と言われる出雲阿国の像がある。その生涯は謎に包まれ実像は不明な点も多い。一説には出雲松江の鍛冶の娘で、出雲大社の巫女となり出雲大社勧進のため諸国を巡り、舞を舞ったのが評判になったと言われる。

 1603年、北野天満宮の舞台で男装して「伊達男」を演じる踊りが人気となった。「かぶき踊り」と言われ、四条河原町などで勧進興行を行った。しかしそれを遊女などが真似、低俗なものも登場するようになると、風紀の乱れを憂慮した幕府は女性の踊りを禁止した。以後男性のみが踊るようになり、今日の歌舞伎の形が出来上がっていった。

 阿国の像はおかっぱ頭の若い女性だった。刀を左手で担ぎ、右手に扇子を持ち、陣羽織姿で舞っている。「伊達男」を演じているのだろうか。評判は高まり、御所でも踊りを披露した。しかし1607年、江戸城で勧進歌舞伎を行った後、消息は途絶えたとされる。

その後どういう一生だったかは不明である。本名も年齢も定かではなく、世に知られていた時期はわずか4、5年に過ぎない。故郷に帰り尼となってひっそりと余生を送ったとも言われる。ちなみに大徳寺の高桐院と出雲大社の近くに、阿国のものとされる墓がある。南座は間もなく顔見世興行の季節。年末恒例のこの行事が始まると、いよいよ年の瀬。京の町も慌ただしさに拍車がかかる。

【メモ】
●四条河原町
四条通りと河原町通りの交差点。周辺は京都一の繁華街であり、その通称でもある。
●芝居小屋
元和年間(1615〜24年)に建てられた。北座跡には碑がある。
●「かぶき踊り」
かぶく(傾く)が語源。すなわち真っすぐではない、浮ついた者、「伊達男」を踊る。
●顔見世興行
元々は専属契約を結んだ役者を最初に披露する場であった。

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