●~正義は朽ちず 田中正造伝~ 夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びのなど悲しきや
●知られざる草津温泉の歴史 明治時代の初めまで、草津温泉は寒く雪深い冬場は温泉営業を休んでいた。旧暦の9月末になると温泉業者は酷寒を避けて、「小雨(中之条町の旧六合村地区)」に移り住んでいた。小雨はそうしたことから「冬住みの里」と呼ばれていた。しかし明治になり、交通網が整備されて、建物も耐寒性に優れたものが建てられ、暖房設備も整うようになると通年営業の温泉業者が増加し、こうした習慣は廃れていった。
小雨に一軒だけ冬住みの里の面影を残す家屋が、資料館として残っている。現在では地元群馬県の人々もほとんど知らないこの「冬住みの里」の歴史を伝えようと、この家の主が個人で運営している資料館である。入り口に若山牧水の歌碑があった。
おもわぬに村ありて名のやさしかる 小雨の里といふにぞありける ここを旅の途中に訪れ「小雨」という名に惹かれたのだろうか。通り過ぎるだけではもったいないと思ったのだろう。また小雨の歴史に触れ、興味を覚えたのかも知れない。しとしとと降るやさしい雨の情景をこの村に重ねたのだろう。
記念館には草津温泉の歴史を彩る貴重な品々が数多く展示されていた。温泉旅館を営んでいたここの先祖が残したものだという。十辺舎一九の草津温泉往来記、佐久間象山の掛け軸、横山大観の絵画などもあった。明治時代にはすでに英語の温泉パンフレットが出ていた。伊万里の陶磁器、輪島塗の漆器などもあり、全国から湯治客が集ったことがうかがえる。
草津を支えた「冬住みの里」があったことを忘れてはならない。厳しい自然環境の中で、日本を代表する名湯を守って来た先人達の歴史であるからだ。年老いた資料館のご主人がポツリと言った。「私が動ける間はいいが、その後が心配だ。住む人がいなければ荒れ放題になるだろう」。ここも過疎と住民の高齢化に悩む地域である。しかし歴史を風化させてはならない。
●西上州を牽引した地は今
南牧村の砥沢はかつて良質な砥石の産地として栄え、地名の由来ともなった。品質は高く江戸時代には幕府の御用砥として重用された。明治に入ると新鉱脈も発見され生産量が増大し、一時は住民の半数以上が生産に関わっていたという。全国から掘り手も集まり村は賑わった。しかし昭和30年代には鉱脈が枯渇し、また各地に新たな産地が発見されたこともあって衰退していった。昭和60年以降は採掘されていない。 伝承によると、奈良時代に猟師が猿から砥石を教えられたことが始まりだとされる。その猿を祀った神社が砥山神社である。砥沢の集落から南へ延びる細い林道を30分ほど歩くと、うっそうと茂った杉林の中に砥山神社はあった。本殿は急な石段の上にある。上まで行き本殿の中を覗くと、見事な彫刻で飾られている祠の両脇に、伝承の猿の木彫りが2匹祀られていた。 勝手に中に入るわけにはいかないので近寄って観賞出来なかったが、祠はかなり古いものの様である。いつ頃出来たものなのだろう。西行が砥石を絶賛し、北条時頼が青砥と呼び珍重したとされることから、採掘の歴史はかなり長そうだ。神社も長い歴史を刻んでいるのだろうか。 南牧村は西毛文化発祥の地と言われる。県内で最初にこんにゃくを栽培した地である。また和紙の生産も盛んであった。中山道の脇往還沿いの集落で、戦国から江戸時代にかけては信州方面と活発な往来があった。宿場町としても栄え、1593年には関所が設けられている。 その南牧村も近年は過疎と高齢化の波に襲われ、1970年に7700人だった人口は2010年には2400人と激減した。人口に占める65歳以上の割合を示す高齢化率は、06年に54.2%と全国一となってしまった。しかし長い歴史を誇る村は県の財産でもある。村では山歩きや滝巡りなどが楽しめ、豊かな自然と触れ合うことが出来る。休日にはぜひ南牧を訪れ、村を盛り上げてもらいたい。
●富岡にあった繁栄の光と陰
和田英(えい)が書いた「富岡日記」とは、英が富岡製糸場で働いていた頃の様子を描いた回想録である。製糸場で過ごした1年数カ月の日々を、50歳になった英が振り返り書いたものである。日本の近代化の礎となった一人の少女の、製糸場で体験した出来事や喜び悲しみが丁寧に描かれている。
富岡製糸場の開設当時、工女が集まらないのが一番の問題だった。外国人技術者が赤ワインを飲むのを見て、「娘の生き血を飲まれてしまう」という噂が流れたためだといわれる。困った政府は士族の娘を中心に集める通達を出した。長野県の松代地方の募集責任者、横田数馬の窮状を見て、15歳の次女英は「天下の御為に成事なら」と自ら工女に志願した。
富岡日記によれば、彼女を慕う仲間15人と富岡へ向かうが、まだ鉄道の無い時代ゆえ歩いて3日かかったという。英たちのような不安と希望を抱えた少女が全国から集まった。「富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚きました」。煉瓦造りの建物の威容に圧倒された感想をつづっている。「さすが上州だけ、芋の有事毎日の様で有舛から閉口致しました」ともある。
少女たちは技術を習得した後、いずれは故郷に帰り指導者になる夢を抱きながら仕事に励んでいた。しかし志半ばで不幸にも病に襲われ命を落とす者もいた。そうした少女たち 40人あまりが製糸場近くの龍光寺に眠っている。墓石は黄緑色の苔に覆われた小さなものだった。少女たちの心細さや切なさを思うと心が痛む。慰霊に訪れる人はいるのだろうか。
こうした少女たちに支えられて戦前の紡績産業は世界一の水準を誇った。世界遺産登録を目指す富岡製糸場は、注目度が上がり観光客も増えているという。小笠原諸島や平泉が世界遺産に登録され、地元の期待はますます高まるだろう。しかし歴史の表舞台に立つことのない、こうした人々がいたことを決して忘れてはならない。
●都の「お東さん」を支えた坂東の小さな古刹
織田信長が一番苦しんだのは幾多の戦国大名との戦争より、実は浄土真宗門徒による一向一揆であった。その力は大名さえ倒すほどで、例えば加賀の一向一揆は富樫氏を倒すと、以後1世紀に亘り一国を支配した。その力を恐れた信長は一向一揆の殲滅に力を尽くした。石山本願寺の平定には何と11年も要した。同様に豊臣秀吉も真宗勢力を恐れ、本願寺の分断を画策している。
地元三河・岡崎の一向一揆に手を焼いていた徳川家康も、自分の国家経営を安定させるためには真宗勢力の分断が必要であるとして、当時の本願寺の教主・准如と対立していた異母兄・教如に京の烏丸七条の地を寄進し、東本願寺を創建させた。以後、東西の本願寺が並立、家康は一方を取り込み、計略はまんまと成功した。
前橋にある妙安寺は東本願寺に家康の命により、親鸞自作とされる親鸞木像を進納したことから特別の待遇を受けることになった。当時、まだ権威のなかった東本願寺がこれで一気に真宗の中心寺院となることが出来たからだ。今の東本願寺の隆盛は、まさに妙安寺のお陰であると言っても過言ではない。 妙安寺はどこにでもありそうな、目立たない小さなお寺だった。1233年、下総国猿島郡一ノ谷(茨城県境町)に創建されたが、同郡三村(同県坂東市)に移り、そして1601年、当時の藩主・酒井重忠により上野厩橋(前橋市)に招かれた。創建者の成然は公家であったが、無実の罪を着せられ下総へ配流となり、そこで親鸞の弟子になったと伝えられている。
訪れた時はちょうど法事の最中で読経中だった。写真を撮ろうと立っていると、寺の人に参列者に間違われてしまい、少し気まずかった。「写真を撮りに来ただけです」と答えた。京都の東本願寺はいつも参詣者でいっぱいである。しかし「お東さん」を支えたのが、都から遠く離れた坂東の小さな寺院であることを知っている人は、おそらくほとんどいない。
●「H」輝く北軽井沢の「法政」 北軽井沢は長野県ではないというと、群馬県民以外は怪訝な顔をするだろう。「長野原町北軽井沢」――ここはれっきとした群馬県である。元は地蔵川、地蔵堂などの地名であった。浅間山の北東に広がるこの広大な地域が何故、北軽井沢と呼ばれるようになったのだろうか。
元々この地域は、法政大学の元学長・松室致(まつむろ・いたす)氏が所有していたが、1927年、土地を法政大学関係者に分譲し、別荘地「法政大学村」として開拓された。避暑に訪れる大学関係者が軽井沢の北にあるということから、いつしか北軽井沢と呼ぶようになり、その名が地元に定着し、1986年、長野原町がこの地を正式に北軽井沢と命名したということである。
別荘地が出来た頃は、軽井沢と草津温泉を結ぶ「草軽鉄道」が走っていた。スイスの登山鉄道を手本にし、全線55・5キロの間に18の駅があった。別荘地の入り口にあった駅「北軽井沢」の駅舎が唯一保存されている。当初の駅名は「地蔵川停車場」だったが、法政大学が新駅舎を寄贈し、「北軽井沢」駅と改められた。
駅舎は長野の善光寺を模したと言われる。赤いトタン屋根に、窓の周りは焦茶、その上下は白壁の小さな駅舎である。中は展示ホールになっており、草軽鉄道の歴史が分かる。駅は木下恵介監督、高峰秀子主演の日本初の総天然色(カラー)映画「カルメン故郷に帰る」にも登場した。正面玄関の欄間には法政を表す白い「H」の文字が誇らしく並んでいた。
当時の電機機関車「デキ12形」の模型が駅構内に置かれている。実物大というが随分小さい。高いパンタグラフが特徴で、カブト虫が角を突き出している姿に似て「カブト虫」と呼ばれた。一見非力に見えるが起伏の激しい山中で活躍した機関車である。侮ってはならない。しかし時代の波には勝てず、モータリゼーションの発達とともに消えていく。草軽鉄道は1962年に廃線となった。
江戸幕府3代将軍の座を争った徳川家光と忠長の兄弟は全く対照的であった。兄の家光は病弱で吃音もあり、将来の将軍の器とは到底見なされなかった。これに対し弟の忠長は眉目秀麗、才気煥発で親の覚えもめでたく、周囲も弟の忠長が将軍職を継ぐものと予想していた。この兄弟の父は2代将軍徳川秀忠、母は浅井長政の娘江である。
1612年2月、舅の徳川家康から江に書状が届いた。将軍継嗣についてであった。「惣領は格別で次男よりは召使と心得よ。次男の威光が強ければ家の乱れの元となる」。家康の命令は絶対である。継嗣について誰も語らなくなった。一説には、親にも愛されない家光を不憫に思った乳母春日局の「直訴」に、家康が応えたとも言われる。真相は不明だが、以後兄弟は全く異なる人生を歩む。
3代将軍となった家光は幕府の基礎を築き、鎖国やキリスト教の禁止など江戸時代を特徴づける諸制度を整備し、徳川統治を完成させた。一方、忠長は駿河大納言と呼ばれ、「副将軍格」であったが、家臣を殺害するなど正気とは思えない蛮行、奇行が目立ち蟄居させられた。
1632年、忠長は高崎城に幽閉され、翌年自刃した。享年28。高崎の大信寺にある墓は黒ずんだ石の五輪塔である。そこに刻まれた三葉葵の紋に複雑な思いを感じた。幼い頃、親に疎んじられた家光は弟忠長に嫉妬していた。暴君の粛清とは言いながら、忠長は家光の怨磋の犠牲になったという側面もあるためだ。親子兄弟が権力を巡り、殺し合った戦国時代からまだ間もない頃。政敵は全て排除したかった家光との確執の末、心を病んだのだろうか。
高崎城の忠長自刃の間が、長松寺に移築されている。改装されたが柱や長押などは当時のままである。ここで非情の権力者、兄家光への怨謗の日々だったのだろうか。忠長の墓石が大信寺に建立されたのは、その死から43年後の1675年、5代将軍徳川綱吉に赦免されてからであった。
初夏の香りのする季節となった。榛東村の桃泉ではポピーが真っ盛り。絨毯のように広がった、赤やピンクの花が人々の目を楽しませる。ポピーは茎が細く、華奢な女性の姿を重ね、中国秦の武将、項羽の愛人虞の名を取り、虞美人草とも呼ばれる。村のポピーは休耕地を利用し、長寿会の方々が育てたものである。東京から見に来ていた人もいたので、名所として浸透しつつあるのだろう。
榛東村にある茅野遺跡は、約3000年前の縄文時代の、後期から晩期にかけての大規模な集落跡である。1989~1990年、榛名山の東南麓の一帯を、哺場整備事業に伴い、発掘調査をした際、多数の竪穴式住居や耳飾り、岩板などが出土した。
注目されたのが577点にも及ぶ土製耳飾りである。今は遺跡は埋め戻され、多目的広場になっているが、発掘を記念して建設された「耳飾り館」に出土品が展示されている。細密な文様が施された物が多く、大変に手の込んだものであった。高い加工技術に感嘆する。耳に穴を開けて装着したらしいので、ピアスの部類に入るのだろうか。大きなものは直径10㌢重さ100㌘もある。いきなりは着けられないので、幼少の頃から小さな物を着け、段々大きな物に変えていったのだろう。
遺跡からは、住居、墓、岩板、土器など多数の遺物が発見されている。住居は何度も建て替えられた跡もあった。かなりの長期間に栄えた大きな村だったらしい。お洒落や流行の発信地だったのかもしれない。耳飾りは身分を表すことや、呪術に使うことも重要だったと考えられている。
奈良時代以降、耳飾りは見られなくなる。「衣服で身分を示すため要らなくなった」「髪を垂らすようになったので似合わない」「仏教や儒教の影響」など様々な憶測があるが、理由は謎である。長い空白を経て、耳飾りが復活するのは明治時代である。西洋文明に触れ、古代の美意識が呼び起こされたのだろうか。
「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」で始まる「夏の思い出」は、1949年6月、NHKのラジオ番組でシャンソン歌手の石井好子が歌った。この歌のお陰で尾瀬は全国に知られる。作詞は、岩手県出身の詩人江間章子である。戦争で焼土と化した日本に希望を灯したいと、NHKが江間に依頼して出来た曲である。
当時の江間は自律神経失調症で、歩くこともままならなかった。しかし戦後間もない皆が貧しかった時代、原稿料の30円に惹かれ、NHKの依頼に応じたそうである。かつて1度だけ行った片品のミズバショウの群生地を思い出し、作詞したという。作曲は「雪の降る街を」「小さい秋みつけた」などで知られる中田喜直である。実は二人とも尾瀬には行っていない。歌は豊かな想像力の賜物である。
JR沼田駅からバスに乗り、国道120号を片品村に向かった。椎坂峠あたりから、山あいをうねるような道が続き、大きく車体を揺らしながらバスは進む。終点の鎌田で降りると、ひんやりした空気を感じた。ここは標高が約800㍍、平地とは季節のずれがあるようだ。
片品村の中心地鎌田は、古くは鎌田の辻と呼ばれ、桧枝岐・会津へ向かう会津街道と日光に抜ける日光街道の分岐点であった。バス停の傍に、「夏の思い出」の歌碑のある旅館がある。先代の社長が江間と懇意で、碑を作ることを了承してもらったそうである。ミズバショウの群生地がライトアップされていると聞き、見に行った。肌寒く、急な上り坂に難儀したが、光の中に浮かぶ可憐な白い花を見ると、疲れも忘れ心が和んだ。ここを江間も見たのだろうか。
越後湯沢から金沢へ向かい、特急「はくたか」で雪の残る越後路を進んだ。窓から見える雪化粧の山々は、水墨画を思わせる静かな光景だった。枯れた冬山の光景も捨てがたいものだ。いつの間にか雪が消え、銀色の海が目に入った。車窓の景色の変化に心が躍る。 加賀百万石の祖、前田利家は尾張荒子(現名古屋市)に生まれた。織田信長、豊臣秀吉につき、大大名になる礎を築いた。1583年に秀吉から加賀、能登、越中を拝領し、金沢城を拠点とした。徳川家康とは敵対関係にあったが、利家の死後、嫡男の利長は家康に味方し、領地を守ることが出来た。石川門から金沢城に入ると、広い敷地が広がる。防御のための五十軒長屋など、建物の堂々たる威容に、百万石の実力を垣間見た思いがした。 利家の五男利孝は人質として江戸に送られていた。しかし大坂の陣で功績を上げ、甘楽郡七日市の1万石を拝領し、上野国唯一の外様大名となった。1616年から約250年間、利昭まで、七日市藩は12代続いた。現在、藩邸跡は県立富岡高校となっている。校内には、今も御殿や門が残っている。御殿は1843年に建てられたもので、日本庭園を備えた立派なものである。 私達の他にも初老の御夫婦が、カメラ片手に、学校に見学に来ていた。池には大きなコイが泳いでおり、近寄ると一斉に集まって来た。餌を撒くと勘違いしたのだろうか。ここには、昭和天皇など皇族も宿泊したことがある。地域の迎賓館的な役割もあったのだろう。また戦前は実際に授業で使われていたそうだ。
大正時代の初め、前橋・総社の地で、五重塔の基礎になる巨石が偶然見つかった。その巨石(塔心礎=とうしんそ)の発見以来、調査が繰り返され、金堂や講堂の跡、さらに仏像の破片など、3千点に及ぶ出土品が確認された。この地にかつて大寺院が存在したことが証明されたのだ。
日枝神社で発見されたことから、神社の守護神「山王権現」から山王廃寺と呼ばれる。しかし「放光寺」と書かれた瓦が発掘され、寺の名は放光寺であったと考えられている。主要伽藍が南北約110㍍、東西約80㍍にわたって配置されていたことが判明し、奈良の法隆寺並みの巨大寺院だったと推定されている。大きな鴟尾(しび=屋根の飾り<鯱鉾の原型>)も確認された。寺の建立は7世紀の飛鳥時代で、10世紀後半には廃寺になったとされる。
仏教が伝来してまだ間もない頃、都から遠く離れた東国の地に、すでに法隆寺と並ぶ豪壮な大寺院があったとは驚きである。周囲には風よけの木々で、塀のように家屋を囲んでいる家々が見られた。古くからの集落であることを感じさせる。畑が広がる静かな光景だが、ここは古代・群馬の中心地であった。率先して仏教に帰依した豪族が支配層にいて、寺院を建築したのだろうか。
それにしても何故、そんな大寺院が忽然と姿を消したのだろう。原因については戦乱や火災など諸説あるが不明である。10世紀には平将門の乱が起こっている(935年)。それまでの貴族という既成権威を否定した新興勢力・武士が勃興した時期である。貴族と結びついた支配層の象徴としての寺院は見捨てられ、顧みられなかったのかも知れない。あくまで私の想像ではあるが・・・。
日本の歴史は戦乱が絶えない。欲望や苦悩の渦に、寺院も巻き込まれたであろう。寺院の跡に立つ、小さな神社の祠が、私には権力者の長い興亡の繰り返しの果てに燃え尽きた、巨大寺院の鎮魂碑に見えた。