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上州をゆくTOPへ>上州をゆくバックナンバー41~60

雲龍寺
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●~正義は朽ちず 田中正造伝~

夕川に葦は枯れたり
血にまどう
民の叫びのなど悲しきや

旧制盛岡中学(現・岩手県立盛岡一高)の石川一(はじめ)少年は詠んだ。田中正造の明治天皇直訴失敗のニュースに触れ、足尾鉱毒事件を知った石川少年の偽ざる心情であった。この少年は後の石川啄木である。

渡良瀬川の大洪水により鉱毒被害が甚大になると、地域住民たちは館林の雲龍寺に活動拠点を置き、銅山の操業停止を求める運動を活発化させた。上京して直接国会に請願する「押し出し」にも多数の農民が参加した。安全な米を作りたい、安心して生活したいという人間として当然の要求をしたまでであった。

鉱毒被害はどんどん拡散していった。作物は取れず、乳幼児の死亡率は異常なまでに高まった。しかし国は何の対策も立てず、それどころか反対運動をする住民を弾圧し、土地からの追放すら画策した。

田中正造は第一回衆院議員選挙で当選した栃木県選出の代議士であった。彼は国の暴挙を見て義憤を抑えることが出来なかった。生涯を公害撲滅闘争に捧げようと、民衆救済のために立ち上がった正義の人である。

1900年、被害農民は決死の覚悟で4回目の「押し出し」を決行。雲龍寺から2500人が徒歩で東京へ向かった。皆貧しく電車賃などない。歩くしかなかったのだ。農民が佐貫村(現・明和町)川俣の上宿橋(邑楽用水架橋)に差し掛かったとき、待ち伏せしていた憲兵、警察に暴力で妨害され、68人が逮捕されてしまった。直訴はその翌年である。

田中正造は何度も投獄されながら、極貧生活の中で生涯信念を貫いた。しかし巨大な国家権力の前に73歳で力尽きた。雲龍寺そばの渡良瀬川は、鉱毒事件など忘れたかのように静かに流れていた。しかし田中正造の足跡に現代人こそ学ばなければならない。「真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」。この言葉を我々は噛み締めたい。


渡良瀬川

「冬住みの里」資料館
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●知られざる草津温泉の歴史

明治時代の初めまで、草津温泉は寒く雪深い冬場は温泉営業を休んでいた。旧暦の9月末になると温泉業者は酷寒を避けて、「小雨(中之条町の旧六合村地区)」に移り住んでいた。小雨はそうしたことから「冬住みの里」と呼ばれていた。しかし明治になり、交通網が整備されて、建物も耐寒性に優れたものが建てられ、暖房設備も整うようになると通年営業の温泉業者が増加し、こうした習慣は廃れていった。

 小雨に一軒だけ冬住みの里の面影を残す家屋が、資料館として残っている。現在では地元群馬県の人々もほとんど知らないこの「冬住みの里」の歴史を伝えようと、この家の主が個人で運営している資料館である。入り口に若山牧水の歌碑があった。

おもわぬに村ありて名のやさしかる
小雨の里といふにぞありける

ここを旅の途中に訪れ「小雨」という名に惹かれたのだろうか。通り過ぎるだけではもったいないと思ったのだろう。また小雨の歴史に触れ、興味を覚えたのかも知れない。しとしとと降るやさしい雨の情景をこの村に重ねたのだろう。

記念館には草津温泉の歴史を彩る貴重な品々が数多く展示されていた。温泉旅館を営んでいたここの先祖が残したものだという。十辺舎一九の草津温泉往来記、佐久間象山の掛け軸、横山大観の絵画などもあった。明治時代にはすでに英語の温泉パンフレットが出ていた。伊万里の陶磁器、輪島塗の漆器などもあり、全国から湯治客が集ったことがうかがえる。

草津を支えた「冬住みの里」があったことを忘れてはならない。厳しい自然環境の中で、日本を代表する名湯を守って来た先人達の歴史であるからだ。年老いた資料館のご主人がポツリと言った。「私が動ける間はいいが、その後が心配だ。住む人がいなければ荒れ放題になるだろう」。ここも過疎と住民の高齢化に悩む地域である。しかし歴史を風化させてはならない。


若山牧水の歌碑
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砥山神社
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●西上州を牽引した地は今

南牧村の砥沢はかつて良質な砥石の産地として栄え、地名の由来ともなった。品質は高く江戸時代には幕府の御用砥として重用された。明治に入ると新鉱脈も発見され生産量が増大し、一時は住民の半数以上が生産に関わっていたという。全国から掘り手も集まり村は賑わった。しかし昭和30年代には鉱脈が枯渇し、また各地に新たな産地が発見されたこともあって衰退していった。昭和60年以降は採掘されていない。

伝承によると、奈良時代に猟師が猿から砥石を教えられたことが始まりだとされる。その猿を祀った神社が砥山神社である。砥沢の集落から南へ延びる細い林道を30分ほど歩くと、うっそうと茂った杉林の中に砥山神社はあった。本殿は急な石段の上にある。上まで行き本殿の中を覗くと、見事な彫刻で飾られている祠の両脇に、伝承の猿の木彫りが2匹祀られていた。

勝手に中に入るわけにはいかないので近寄って観賞出来なかったが、祠はかなり古いものの様である。いつ頃出来たものなのだろう。西行が砥石を絶賛し、北条時頼が青砥と呼び珍重したとされることから、採掘の歴史はかなり長そうだ。神社も長い歴史を刻んでいるのだろうか。
南牧村は西毛文化発祥の地と言われる。県内で最初にこんにゃくを栽培した地である。また和紙の生産も盛んであった。中山道の脇往還沿いの集落で、戦国から江戸時代にかけては信州方面と活発な往来があった。宿場町としても栄え、1593年には関所が設けられている。

その南牧村も近年は過疎と高齢化の波に襲われ、1970年に7700人だった人口は2010年には2400人と激減した。人口に占める65歳以上の割合を示す高齢化率は、06年に54.2%と全国一となってしまった。しかし長い歴史を誇る村は県の財産でもある。村では山歩きや滝巡りなどが楽しめ、豊かな自然と触れ合うことが出来る。休日にはぜひ南牧を訪れ、村を盛り上げてもらいたい。


砥沢関所の碑

龍光寺
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●富岡にあった繁栄の光と陰

 和田英(えい)が書いた「富岡日記」とは、英が富岡製糸場で働いていた頃の様子を描いた回想録である。製糸場で過ごした1年数カ月の日々を、50歳になった英が振り返り書いたものである。日本の近代化の礎となった一人の少女の、製糸場で体験した出来事や喜び悲しみが丁寧に描かれている。

 富岡製糸場の開設当時、工女が集まらないのが一番の問題だった。外国人技術者が赤ワインを飲むのを見て、「娘の生き血を飲まれてしまう」という噂が流れたためだといわれる。困った政府は士族の娘を中心に集める通達を出した。長野県の松代地方の募集責任者、横田数馬の窮状を見て、15歳の次女英は「天下の御為に成事なら」と自ら工女に志願した。

 富岡日記によれば、彼女を慕う仲間15人と富岡へ向かうが、まだ鉄道の無い時代ゆえ歩いて3日かかったという。英たちのような不安と希望を抱えた少女が全国から集まった。「富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚きました」。煉瓦造りの建物の威容に圧倒された感想をつづっている。「さすが上州だけ、芋の有事毎日の様で有舛から閉口致しました」ともある。

 少女たちは技術を習得した後、いずれは故郷に帰り指導者になる夢を抱きながら仕事に励んでいた。しかし志半ばで不幸にも病に襲われ命を落とす者もいた。そうした少女たち 40人あまりが製糸場近くの龍光寺に眠っている。墓石は黄緑色の苔に覆われた小さなものだった。少女たちの心細さや切なさを思うと心が痛む。慰霊に訪れる人はいるのだろうか。

 こうした少女たちに支えられて戦前の紡績産業は世界一の水準を誇った。世界遺産登録を目指す富岡製糸場は、注目度が上がり観光客も増えているという。小笠原諸島や平泉が世界遺産に登録され、地元の期待はますます高まるだろう。しかし歴史の表舞台に立つことのない、こうした人々がいたことを決して忘れてはならない。


工女たちの墓

改修中の東本願寺

●都の「お東さん」を支えた坂東の小さな古刹

織田信長が一番苦しんだのは幾多の戦国大名との戦争より、実は浄土真宗門徒による一向一揆であった。その力は大名さえ倒すほどで、例えば加賀の一向一揆は富樫氏を倒すと、以後1世紀に亘り一国を支配した。その力を恐れた信長は一向一揆の殲滅に力を尽くした。石山本願寺の平定には何と11年も要した。同様に豊臣秀吉も真宗勢力を恐れ、本願寺の分断を画策している。

 地元三河・岡崎の一向一揆に手を焼いていた徳川家康も、自分の国家経営を安定させるためには真宗勢力の分断が必要であるとして、当時の本願寺の教主・准如と対立していた異母兄・教如に京の烏丸七条の地を寄進し、東本願寺を創建させた。以後、東西の本願寺が並立、家康は一方を取り込み、計略はまんまと成功した。

 前橋にある妙安寺は東本願寺に家康の命により、親鸞自作とされる親鸞木像を進納したことから特別の待遇を受けることになった。当時、まだ権威のなかった東本願寺がこれで一気に真宗の中心寺院となることが出来たからだ。今の東本願寺の隆盛は、まさに妙安寺のお陰であると言っても過言ではない。

妙安寺はどこにでもありそうな、目立たない小さなお寺だった。1233年、下総国猿島郡一ノ谷(茨城県境町)に創建されたが、同郡三村(同県坂東市)に移り、そして1601年、当時の藩主・酒井重忠により上野厩橋(前橋市)に招かれた。創建者の成然は公家であったが、無実の罪を着せられ下総へ配流となり、そこで親鸞の弟子になったと伝えられている。

訪れた時はちょうど法事の最中で読経中だった。写真を撮ろうと立っていると、寺の人に参列者に間違われてしまい、少し気まずかった。「写真を撮りに来ただけです」と答えた。京都の東本願寺はいつも参詣者でいっぱいである。しかし「お東さん」を支えたのが、都から遠く離れた坂東の小さな寺院であることを知っている人は、おそらくほとんどいない。


妙安寺
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連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)

旧北軽井沢駅舎
(北軽井沢観光協会の反対側)
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●「H」輝く北軽井沢の「法政」

北軽井沢は長野県ではないというと、群馬県民以外は怪訝な顔をするだろう。「長野原町北軽井沢」――ここはれっきとした群馬県である。元は地蔵川、地蔵堂などの地名であった。浅間山の北東に広がるこの広大な地域が何故、北軽井沢と呼ばれるようになったのだろうか。

 元々この地域は、法政大学の元学長・松室致(まつむろ・いたす)氏が所有していたが、1927年、土地を法政大学関係者に分譲し、別荘地「法政大学村」として開拓された。避暑に訪れる大学関係者が軽井沢の北にあるということから、いつしか北軽井沢と呼ぶようになり、その名が地元に定着し、1986年、長野原町がこの地を正式に北軽井沢と命名したということである。

別荘地が出来た頃は、軽井沢と草津温泉を結ぶ「草軽鉄道」が走っていた。スイスの登山鉄道を手本にし、全線55・5キロの間に18の駅があった。別荘地の入り口にあった駅「北軽井沢」の駅舎が唯一保存されている。当初の駅名は「地蔵川停車場」だったが、法政大学が新駅舎を寄贈し、「北軽井沢」駅と改められた。

駅舎は長野の善光寺を模したと言われる。赤いトタン屋根に、窓の周りは焦茶、その上下は白壁の小さな駅舎である。中は展示ホールになっており、草軽鉄道の歴史が分かる。駅は木下恵介監督、高峰秀子主演の日本初の総天然色(カラー)映画「カルメン故郷に帰る」にも登場した。正面玄関の欄間には法政を表す白い「H」の文字が誇らしく並んでいた。

当時の電機機関車「デキ12形」の模型が駅構内に置かれている。実物大というが随分小さい。高いパンタグラフが特徴で、カブト虫が角を突き出している姿に似て「カブト虫」と呼ばれた。一見非力に見えるが起伏の激しい山中で活躍した機関車である。侮ってはならない。しかし時代の波には勝てず、モータリゼーションの発達とともに消えていく。草軽鉄道は1962年に廃線となった。


「デキ12形」機関車
連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)

徳川忠長の墓
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●将軍の後継、非業の死

江戸幕府3代将軍の座を争った徳川家光と忠長の兄弟は全く対照的であった。兄の家光は病弱で吃音もあり、将来の将軍の器とは到底見なされなかった。これに対し弟の忠長は眉目秀麗、才気煥発で親の覚えもめでたく、周囲も弟の忠長が将軍職を継ぐものと予想していた。この兄弟の父は2代将軍徳川秀忠、母は浅井長政の娘江である。

1612年2月、舅の徳川家康から江に書状が届いた。将軍継嗣についてであった。「惣領は格別で次男よりは召使と心得よ。次男の威光が強ければ家の乱れの元となる」。家康の命令は絶対である。継嗣について誰も語らなくなった。一説には、親にも愛されない家光を不憫に思った乳母春日局の「直訴」に、家康が応えたとも言われる。真相は不明だが、以後兄弟は全く異なる人生を歩む。

3代将軍となった家光は幕府の基礎を築き、鎖国やキリスト教の禁止など江戸時代を特徴づける諸制度を整備し、徳川統治を完成させた。一方、忠長は駿河大納言と呼ばれ、「副将軍格」であったが、家臣を殺害するなど正気とは思えない蛮行、奇行が目立ち蟄居させられた。

1632年、忠長は高崎城に幽閉され、翌年自刃した。享年28。高崎の大信寺にある墓は黒ずんだ石の五輪塔である。そこに刻まれた三葉葵の紋に複雑な思いを感じた。幼い頃、親に疎んじられた家光は弟忠長に嫉妬していた。暴君の粛清とは言いながら、忠長は家光の怨磋の犠牲になったという側面もあるためだ。親子兄弟が権力を巡り、殺し合った戦国時代からまだ間もない頃。政敵は全て排除したかった家光との確執の末、心を病んだのだろうか。

高崎城の忠長自刃の間が、長松寺に移築されている。改装されたが柱や長押などは当時のままである。ここで非情の権力者、兄家光への怨謗の日々だったのだろうか。忠長の墓石が大信寺に建立されたのは、その死から43年後の1675年、5代将軍徳川綱吉に赦免されてからであった。


忠長自刃の間
連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲川俣事件記念碑
明和町HP
▲川俣事件衝突の碑
 
●日本の公害問題の原点を見つめる

足尾鉱山の垂れ流す鉱毒により、大きな農産物被害や深刻な健康被害にさらされていた渡良瀬川流域の邑楽郡、栃木県足利郡と都賀郡の農民達は、銅山の操業停止と補償を求めて東京へ向かった。それまで再三にわたり環境改善を求めて運動していたが、国と事業主体の古河鉱業の、全く聞く耳を持たない対応に我慢がならなかったのだ。

1900年2月13日、約2500人の農民が徒歩で東京へ向かう途中、佐貫村(現明和町)川俣の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかった。その時、待ち受けた約300人の警察、憲兵に突然襲われ、多数の負傷者を出し、多くの農民が不当に逮捕された。これが川俣事件である。

この川俣事件を後世に伝えるため、有志により事件から100年後に、現地に記念碑が建てられた。現在、周囲は宅地化が進んでいるらしく、新興住宅街の趣である。もし碑がなければ、住民にさえ忘れられる可能性があっただろう。日本で最初の環境破壊ともいえる足尾鉱毒問題の公害闘争を、決して過去のものとしてはならない。

水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく・・・日本の公害の歴史は連綿と続いた。犠牲になるのはいつも市井の人々であり、加害者側は自分達の非を認めようとはしない。水俣病訴訟は、近年やっと終結に向けて動き出したが、被害者の病気との闘いに終わりはないのだ。

21世紀は環境破壊が地球全体で進んでいる。住む場所を奪われた動物達がどんどん死に絶えている。新たな公害病が世界を襲う可能性も否定出来ない。人類の滅亡すら夢物語とは言えない。そうなる前に手を打たねばならないのだが、各国の利害対立が激しく、話し合いさえもなかなか進まない。大きな原因は、地球資源を浪費する我々の贅沢な生活にあるが、生活を今すぐ転換しろと言われても無理があろう。この矛盾に人類の悩みがあるが、地球の上で生かされている現実を忘れてはならない。
 
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連載「上州をゆく」12 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲旧時報鐘楼
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▲伊勢崎市立北小学校
 
●伊勢崎に残る大正ロマンの薫り

群馬県からは日本の歴史に残る実業家が多数輩出している。中島飛行機の創業者中島知久平、日本鋼管の今泉嘉一郎などはよく知られている。伊勢崎を代表する経済人である小林桂助は、当初生糸商であったが、横浜に移り貿易商となった。進取の気性に富んだ小林は、当時北海道で栽培が始まったばかりのハッカに着目した。ハッカは歯磨きや膏薬の原料として用途が広がり、日本の重要な輸出品に成長、小林の商売は大成功を収めた。

伊勢崎にある旧時報鐘楼は小林桂助によって、1915年に建てられた。小林は幼少の頃、大手町の中台寺の時を告げる鐘の音に親しみ、もっと遠くまで聞こえる高い鐘楼を造りたいと願っていたようである。成功して財をなし、少年の頃の夢を叶えたかったのであろうか、大正天皇の即位記念として、中台寺の鐘を移してこの鐘楼を建設した。

北小学校の敷地内に鐘楼は建っている。しかし当初のものは太平洋戦争中、米軍の爆撃で焼失してしまった。鐘も金属供出でなくなっている。現在のものは市制50周年を記念し、1990年に復元されたものである。高さは約15㍍、くすんだレンガ張りの外観が大正の薫りを漂わせる。当時は午前6時と午後6時に時を知らせていた。

高い塔を想像していたので、伊勢崎駅を降りたらすぐ目に入るだろうと思っていた。しかし周囲の建物に埋没し、全く見えなかった。現代の感覚で考えてはいけなかったのだ。当時は、どこからでも眺められる「街のシンボル」だったはずである。時の流れを実感せざるを得なかった。

北小学校の立派な校舎で学ぶ児童達は、どんな思いでこの鐘楼を見ているのだろうか。この鐘楼を単なる古ぼけた塔としてしまうか、戦争の語り部として塔から何かを学ぶかは、少年少女の心次第であろう。伊勢崎は「核兵器廃絶平和都市宣言」をしている。その精神を継承していくことをきっと小林翁も望んでいることだろう。
 
▲徳富蘆花の胸像
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▲徳富蘆花の記念館
 
●伊香保の誇り・博愛主義の大文豪

明治の文豪、徳富蘆花は、伊香保温泉に生涯で10回も訪れるほどお気に入りだった。その伊香保を舞台にした「不如帰(ホトトギス)」を1898年から新聞連載し、一躍流行作家になるのだが、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかった。1868年、熊本県の水俣に生まれた蘆花は、末っ子ゆえか甘やかされ、凡庸で体も弱く、コンプレックスに苛まれた少年時代だった。

家族や親類の視線は秀才の誉れ高き兄、徳富蘇峰に注がれ、蘆花は全く期待されていなかった。同志社に入学したが、女性問題を起こして退学すると、蘇峰が主宰する新聞社「民友社」に入社した。しかしそこでは仕事もなく、「机に向かって筆を持ち、頬杖をつく毎日」で、小使いにすらバカにされる日々だったという。

「不如帰」は、蘆花31歳からの作品である。当時の陸軍大将、大山巌の長女と子爵、三島通庸(みちつね)の長男の結婚生活が、妻が結核にかかったことにより、悲劇に終わったことを題材に書いた小説である。封建制度が色濃く残る明治に生きた、薄幸の人妻「浪子(大山巌の長女がモデル)」の生涯に同情が集まり、50万部が売れる大ベストセラーになった。

一方、蘇峰との関係には溝が生じていった。国粋的な思想に傾倒し、日本の帝国主義を宣揚する蘇峰と、大逆事件(天皇の暗殺計画が発覚した事件)の際、社会主義者、幸徳秋水を擁護した蘆花は、次第に確執を深めていった。トルストイの影響を受けた博愛主義者、蘆花は政府の思想弾圧に加担する兄が許せなかったのだろう。

晩年は腎臓や心臓の病が重篤になり、伊香保の旅館で療養生活を送った。居室が記念館として保存されている。湯舟は小さく、足を抱えてやっと入れるくらいだった。自力では動けない蘆花は、ここにつかるのが唯一の至福の時だったのだろう。朝鮮の京城駅で別れて以来、15年間の絶縁の末に兄、蘇峰と和解したのは、蘆花が60歳で死去するその日のことであった。
 
▲皇女和宮資料館内部(安中市)
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▲皇女和宮資料館(安中市)
 
 風雲急を告げる幕末、尊王攘夷の渦の中で危機感を抱く幕府は、皇室との政略結婚で体制維持を図ろうとした。孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂の結婚を画策したのだ。朝廷と縁戚関係になる(公武合体)ことにより、権威の回復をもくろみ倒幕の動きを封じようとしたのだった。

仁孝天皇の第八皇女として生まれた和宮は、6歳の時に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)と婚約し、有栖川宮家と家族同然の関係を築いていた。和宮と有栖川宮は11歳の年の差があったが仲睦まじく、和宮も将来の幸せな結婚を夢見る普通の乙女であった。

孝明天皇は幕府の申し出に難色を示していたが、執拗な幕府の圧力に抗しきれず、遂に公武合体を受け入れた。和宮にとっては驚天動地の出来事、相当な衝撃を受けたに違いない。絶対に嫌だと、降家(皇族以外に嫁ぐこと)を強く拒絶した。しかし再三の説得と天皇である兄の立場を思い、有栖川宮との婚約を破棄し降家を承諾した。和宮17歳の時である。

輿入れの行列は、1861年10月20日に京を出立した。お付きの人は2万5千人、人足(運搬人)4千人の大行列で、長さは50㌔にも及んだという。反対派の妨害を避けるため、東海道ではなく中山道を通り江戸へ下った。11月10日夕刻、安中の板鼻宿に到着した。現在、板鼻宿本陣は残存しないが、板鼻公民館敷地内に和宮が宿泊した書院が保存されている。時の流れを感じさせる古びた建物だが、当時の資料が多数展示されており、輿入れの様子の一端を垣間見ることが出来る。

迎える方も大変だったらしい。公儀からの達示で「火元注意のこと」は当然として、「火事になっても夕方まで半鐘をたたくな」と命令されたというから現代の常識では考えられない。邪魔があっては幕府の面目が丸潰れということか。時代に翻弄され、わずか4年で家茂と死別した和宮は、32歳で没した。今は東京の増上寺で、家茂と安息の日々を送っているはずである。
 
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▲赤岩地区遠景(中之条町)
 
▲湯本家(中之条町)
 中之条町の旧六合村赤岩地区は、養蚕農家を中心とする江戸時代からの景観が残り、群馬県で初めて伝統的建造物群の保存地区に選定されている。都市部ではほとんど見られなくなった養蚕農家が点在する光景に、今は忘れられつつある古き日本の原風景をみる。毘沙門堂や観音堂が集落の中にあり、素朴な信仰が人々の生活に息づいていたのが分かる。

中之条には、高野長英が潜伏していたと伝えられる屋敷が何軒か残っている。赤岩の湯本家もその一つである。高野長英とは、坂本龍馬や高杉晋作といった維新の志士達が活躍する少し前、国の将来を憂え、幕府を批判し開国を唱えた蘭学者である。長英は陸奥国(岩手県)水沢で生まれた。若き日に、長崎のドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で町医者になった。

1837年、米国の商船モリソン号が攻撃される事件が起きると、長英は公然と幕府を批判した。そのため捕らえられるが、やがて脱獄し、逃亡生活を送る。中之条周辺には長英の門弟が多く、その縁もあって匿われていたらしい。特に湯本家は、代々医者を務めた村の有力者であり、人望もあったので隠れやすかったのかも知れない。

長英はピタゴラスやガリレオさらにはジョン・ロックといった西洋の科学、思想・哲学を翻訳し人々に紹介した。言わば当時の「危険思想」の持ち主である。しかしそれを偏見の目で見ることなく、中之条の人々は積極的に学んだ。中之条の高名な弟子には福田浩斎、高橋景作、湯本俊斎などがいる。

長英門下の学者達は医学のみならず、ソバや馬鈴薯の栽培奨励など、地域の発展に大いに寄与した。高野長英の教えは「吾妻蘭学」と呼ばれ、吾妻の人々の生活に大きな影響を与えた。2010年は、龍馬ブームで日本中が沸いた。高知や長崎などは観光客が大幅に増加したという。しかし明治維新の胎動は、龍馬らが躍動する前に、すでに中之条の地で起こっていたのである。
 
▲太子駅跡(中之条町)
中之条町観光協会
▲長野原草津口駅(長野原町)
 2010年3月の中之条町と六合村の合併で県内の「平成の大合併」は終了した。70あった市町村は35と半減した。地方財政が厳しい中、行政の効率化のため、合併は避けられないのかも知れない。しかし馴染みの名前が消えるのは寂しい。三つあった東村は全てなくなった。群馬町は高崎市と合併し、「群馬」を冠した市町村は県内に一つもない。

六合村の消滅も残念である。1900年に、草津村(当時)から分村し、小雨、生須、太子、日影、赤岩、入山の六つの集落で新しい村を作る際、古事記にある「天地四方を以て六合(くに)と成す」から六合村とした。東西南北、天地の六つで国を表すことと、六つの集落が合流することを掛け合わせたそうである。ユニークな名だった。

太平洋戦争中、六合村太子で鉄鉱床が見つかり、渋川~長野原~太子に鉄道が敷かれた。鉄鉱石の輸入が途絶えていたので、国はどうしても必要だった。採算度外視の鉄道敷設だったという。終戦後も産業復興に貢献し、日本の高度経済成長の礎となった。旅客車両も運行されたので、読者の中にも利用していた人はいるかも知れない。

資源の枯渇により1965年に鉱山は閉鎖された。さらに村の人口減少で、70年には長野原~太子間の旅客営業も廃止となった。温泉巡りで訪れた近くの旅館に、往時の太子駅の様子がパネル展示されていた。もうもうと白煙を上げる蒸気機関車、積載作業にいそしむ沢山の労働者――当時の活気が伝わって来る。

廃線跡を車で通ってみた。トンネルを抜け、しばらく行くと太子駅跡に出た。ホッパー(鉱石を貨物に積み込む施設)が昔の面影を留めているが、草に覆われ荒れ放題である。「過去の栄光」との落差に心が痛んだ。しかし線路跡は生活道路として健在で、沿線には農作業に忙しい人々や子供の遊ぶ姿があった。人々の息遣いに触れ、村人の心の中では、今でも鉄道は健在なのだと感じた。

 
▲赤岩の渡しの碑(千代田町)
 
▲千代田丸(千代田町)
 
 昔は各地にあった渡船だが、交通網の発達とともに橋が架けられ、現在ではほとんど見られなくなった。その中で、千代田町赤岩と埼玉県熊谷市葛和田を結ぶ赤岩渡船は、県道をつなぐ航路の貴重な担い手として、今でも現役で頑張っている。年間数千人の利根川を渡る人々を、小さな動力船「千代田丸」が懸命に運んでいるのである。

わずか5分間の船旅だが、ちょっとしたレジャー気分を味わえる。公道なので料金は無料である。今年の夏は猛暑続きで、利根川でもマリンスポーツを楽しむ多くの若人の姿があった。猛スピードで進む水上バイクから渡船に向かって手を振る人々やカラフルなウエアに身を包み、水上スキーを楽しむ姿がたくさん見られた。

葛和田側の船着き場は無人である。こちら側から乗る場合は、待合所の横にあるポールに、黄色い旗を自分で掲げて赤岩側の船頭に知らせる。渡船は千代田町が管理、運営をしているので、船頭は赤岩側に待機しているのである。

葛和田側で船の写真を取っていると、恰幅のいい外国人が、「シャッターを押してあげよう」と日本語で声をかけてきた。Tシャツ、半ズボンのラフな格好だったので、近所に住んでいるようだ。流暢な日本語に少し驚いた。長年日本で暮らしているらしい。散歩の途中だったのだろうか。赤いニコニコ顔が印象的だった。葛和田の船着き場そばに妻沼滑空場がある。悠然と空中を行く白いグライダーが目に入った。

赤岩渡船の歴史は古く、戦国時代の文献にはすでに登場している。赤岩は水深が深く、大型船が行き交うことが出来た。江戸時代になると、水運の発達とともに、物資輸送の中心地となり、坂東16渡津の一つに数えられた。今後、経済成長を追い求める時代は終焉するだろう。ゆとりある生活を楽しむ時代になっていくに違いない。環境問題が深刻化し、自然との調和が叫ばれる現在、赤岩渡船も見直されつつあるという。
 
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連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲柳沢寺・五重塔(榛東村)
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▲柳沢寺・観音堂(榛東村)
 朱色の五重塔がひと際目を引く榛東村の柳沢寺は、比叡山延暦寺の直系の末寺として、中世にはかなり栄えた。しかし戦国時代末期、北条、上杉、武田といった戦国大名の戦いの舞台となり、全ての堂宇が焼失した。江戸時代に、高崎城主安藤右京進重長や天海僧正などが再建に着手し、貞享・元禄年間には再興した。

中世末の「船尾山縁起」には次のようにある。千葉常将という武将が船尾山にある寺の観音様に、子が授かる様に願をかけたところ男子が生まれた。後年、学問修業のため、その子を寺に預けると、行方不明になってしまった。寺が隠したと激怒した常将は寺に火を放った。しかし後で天狗が子を隠したと知り、常将は自らの愚行を恥じ、自害した。後に妻が贖罪と夫の供養のため、寺院を造った。それが現在の柳沢寺の元となった。

昔、榛名山中に大寺院があり、それが焼失したという土着の伝承と寺への信仰とが結びついて生じた話だそうだ。この話を想起させるような出来事があったかどうかは知らない。しかし千葉常将は実在し、平家の流れを汲む、平安時代の武士だった。房総を支配した千葉氏の祖といわれる。

しんとした寺の中は時代劇の舞台のようでもある。境内は広く、杉木立に囲まれた観音堂、鐘楼が立っている。こうくればチャンバラに絶好の舞台。「隠密剣士」「伊賀の影丸」と聞いてワクワクする人は私と同世代。しかしチャンバラなど今時の子供はせず、死語になっているのが寂しい。

榛東村はデラウェア、巨峰を中心としたブドウ栽培が盛んで、北関東一の生産量を誇る。ワイン製造にも力を入れている。ワイナリーで試飲させてもらった。日本製ワインは、私には甘みが強い印象で、あまり飲まないのだが、ここのは酸味や苦みも適度にあり美味しい。10種類以上を製造しているそうで、梅ワインというのもあった。榛東村のブドウの初出荷は1964年、東京五輪の年であった。
 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲ダイナマイト碑(高崎市)
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▲爆破実験筒(高崎市)
 
 商都・高崎も不況の波にのみ込まれ、繁華街でも夜は人波がぱったりと途絶える。閉店した店の跡が空き地になっていたり、駐車場になっていたりで痛々しい。かつての花街・柳川町は、昔は料亭や芸者の「置屋」などがたくさんあって、夜ごと賑わっていたというが、今の姿からは想像も出来ない。  

高崎が一番賑わったのは、戦前、陸軍歩兵第15連隊が駐屯し、兵隊さん達が派手に遊んでいた頃だと聞いたことがある。新幹線が開通し、私のように都心へ通勤する人も増えた昨今、住民には県外出身者も多く、軍都として栄えた高崎の昔の姿を知らない人も多いのではないだろうか。

かつての軍都・高崎には戦争遺跡があちこちに点在している。今は市民の憩いの場となっている県立公園「群馬の森」には、陸軍の火薬製造所があった。1882年、火薬増産のために建てられ、1905年からは、日本初のダイナマイトの生産が始まった。運搬のため、火薬製造所と倉賀野を結ぶ鉄道も敷かれた。

公園の東のはずれの立ち入り禁止区域には、射場跡地があり、管の中に砲弾を撃ち込んで、火薬の威力を確かめたというトンネルが残っている。それは木々に囲まれ、周りの緑に埋もれるように苔が生えた、筒状の横長の建築物だった。同じ公園内では、家族連れが談笑し、子供達が遊びに夢中になっている。その風景の落差が、今と昔を鮮やかに浮かび上がらせる。

いつ終わるとも知れぬ戦争に巻き込まれ、毎日ダイナマイトを製造し、爆破実験に従事していた人々が、ここにはいたのだ。これは遠い昔の話ではない。高崎駅西口から西へ延びる道路は、第15連隊が勝利の行進をするために、「凱旋道路」と命名されていた。しかし第15連隊が勝利の行進をすることはなかった。「凱旋道路」で実際に凱旋パレードをしたのは、北京オリンピックで金メダルに輝いた、平和の戦士・女子ソフトボールの選手たちであった。
 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
▲「耳飾り館」のモニュメント
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▲桃泉のポピー(榛東村)
 

 初夏の香りのする季節となった。榛東村の桃泉ではポピーが真っ盛り。絨毯のように広がった、赤やピンクの花が人々の目を楽しませる。ポピーは茎が細く、華奢な女性の姿を重ね、中国秦の武将、項羽の愛人虞の名を取り、虞美人草とも呼ばれる。村のポピーは休耕地を利用し、長寿会の方々が育てたものである。東京から見に来ていた人もいたので、名所として浸透しつつあるのだろう。

 榛東村にある茅野遺跡は、約3000年前の縄文時代の、後期から晩期にかけての大規模な集落跡である。1989~1990年、榛名山の東南麓の一帯を、哺場整備事業に伴い、発掘調査をした際、多数の竪穴式住居や耳飾り、岩板などが出土した。

 注目されたのが577点にも及ぶ土製耳飾りである。今は遺跡は埋め戻され、多目的広場になっているが、発掘を記念して建設された「耳飾り館」に出土品が展示されている。細密な文様が施された物が多く、大変に手の込んだものであった。高い加工技術に感嘆する。耳に穴を開けて装着したらしいので、ピアスの部類に入るのだろうか。大きなものは直径10㌢重さ100㌘もある。いきなりは着けられないので、幼少の頃から小さな物を着け、段々大きな物に変えていったのだろう。

 遺跡からは、住居、墓、岩板、土器など多数の遺物が発見されている。住居は何度も建て替えられた跡もあった。かなりの長期間に栄えた大きな村だったらしい。お洒落や流行の発信地だったのかもしれない。耳飾りは身分を表すことや、呪術に使うことも重要だったと考えられている。

 奈良時代以降、耳飾りは見られなくなる。「衣服で身分を示すため要らなくなった」「髪を垂らすようになったので似合わない」「仏教や儒教の影響」など様々な憶測があるが、理由は謎である。長い空白を経て、耳飾りが復活するのは明治時代である。西洋文明に触れ、古代の美意識が呼び起こされたのだろうか。

 
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連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
夏の思い出
▲「夏の思い出」の歌碑(片品村)
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鎌田の町並み
▲鎌田の町並み(片品村)
 

 「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」で始まる「夏の思い出」は、1949年6月、NHKのラジオ番組でシャンソン歌手の石井好子が歌った。この歌のお陰で尾瀬は全国に知られる。作詞は、岩手県出身の詩人江間章子である。戦争で焼土と化した日本に希望を灯したいと、NHKが江間に依頼して出来た曲である。

 当時の江間は自律神経失調症で、歩くこともままならなかった。しかし戦後間もない皆が貧しかった時代、原稿料の30円に惹かれ、NHKの依頼に応じたそうである。かつて1度だけ行った片品のミズバショウの群生地を思い出し、作詞したという。作曲は「雪の降る街を」「小さい秋みつけた」などで知られる中田喜直である。実は二人とも尾瀬には行っていない。歌は豊かな想像力の賜物である。

 JR沼田駅からバスに乗り、国道120号を片品村に向かった。椎坂峠あたりから、山あいをうねるような道が続き、大きく車体を揺らしながらバスは進む。終点の鎌田で降りると、ひんやりした空気を感じた。ここは標高が約800㍍、平地とは季節のずれがあるようだ。

 片品村の中心地鎌田は、古くは鎌田の辻と呼ばれ、桧枝岐・会津へ向かう会津街道と日光に抜ける日光街道の分岐点であった。バス停の傍に、「夏の思い出」の歌碑のある旅館がある。先代の社長が江間と懇意で、碑を作ることを了承してもらったそうである。ミズバショウの群生地がライトアップされていると聞き、見に行った。肌寒く、急な上り坂に難儀したが、光の中に浮かぶ可憐な白い花を見ると、疲れも忘れ心が和んだ。ここを江間も見たのだろうか。

尾瀬はいよいよ観光シーズン。年間60万人が訪れるほど有名となり、自然破壊が取り沙汰される。湿原そのものが失われる可能性まで叫ばれる。「『夏の思い出』が尾瀬の俗化に結びついたとすれば、私すごく責任を感じます」。江間はそう語っていたそうである。
 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
金沢城・石川門
▲金沢城・石川門(金沢市)
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七日市藩・御殿
▲七日市藩・御殿(富岡市)
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 越後湯沢から金沢へ向かい、特急「はくたか」で雪の残る越後路を進んだ。窓から見える雪化粧の山々は、水墨画を思わせる静かな光景だった。枯れた冬山の光景も捨てがたいものだ。いつの間にか雪が消え、銀色の海が目に入った。車窓の景色の変化に心が躍る。

加賀百万石の祖、前田利家は尾張荒子(現名古屋市)に生まれた。織田信長、豊臣秀吉につき、大大名になる礎を築いた。1583年に秀吉から加賀、能登、越中を拝領し、金沢城を拠点とした。徳川家康とは敵対関係にあったが、利家の死後、嫡男の利長は家康に味方し、領地を守ることが出来た。石川門から金沢城に入ると、広い敷地が広がる。防御のための五十軒長屋など、建物の堂々たる威容に、百万石の実力を垣間見た思いがした。

利家の五男利孝は人質として江戸に送られていた。しかし大坂の陣で功績を上げ、甘楽郡七日市の1万石を拝領し、上野国唯一の外様大名となった。1616年から約250年間、利昭まで、七日市藩は12代続いた。現在、藩邸跡は県立富岡高校となっている。校内には、今も御殿や門が残っている。御殿は1843年に建てられたもので、日本庭園を備えた立派なものである。

私達の他にも初老の御夫婦が、カメラ片手に、学校に見学に来ていた。池には大きなコイが泳いでおり、近寄ると一斉に集まって来た。餌を撒くと勘違いしたのだろうか。ここには、昭和天皇など皇族も宿泊したことがある。地域の迎賓館的な役割もあったのだろう。また戦前は実際に授業で使われていたそうだ。

七日市藩は加賀藩の支藩ゆえ、徳川の拠点・関東での監視の目は厳しかったに違いない。沼田の真田氏、小幡の織田氏は取り潰されてしまった。その中を明治まで生き抜いた。日本では、古いものは壊され、歴史を振り返ることは少ない。しかし歴史から学べることは多い。これからもこの歴史の証人を大切にしてもらいたいと思う。
 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
日枝神社(前橋市)
▲日枝神社(前橋市)
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放光寺の鴟尾(前橋市)
▲放光寺の鴟尾(前橋市)
 

 大正時代の初め、前橋・総社の地で、五重塔の基礎になる巨石が偶然見つかった。その巨石(塔心礎=とうしんそ)の発見以来、調査が繰り返され、金堂や講堂の跡、さらに仏像の破片など、3千点に及ぶ出土品が確認された。この地にかつて大寺院が存在したことが証明されたのだ。

 日枝神社で発見されたことから、神社の守護神「山王権現」から山王廃寺と呼ばれる。しかし「放光寺」と書かれた瓦が発掘され、寺の名は放光寺であったと考えられている。主要伽藍が南北約110㍍、東西約80㍍にわたって配置されていたことが判明し、奈良の法隆寺並みの巨大寺院だったと推定されている。大きな鴟尾(しび=屋根の飾り<鯱鉾の原型>)も確認された。寺の建立は7世紀の飛鳥時代で、10世紀後半には廃寺になったとされる。

 仏教が伝来してまだ間もない頃、都から遠く離れた東国の地に、すでに法隆寺と並ぶ豪壮な大寺院があったとは驚きである。周囲には風よけの木々で、塀のように家屋を囲んでいる家々が見られた。古くからの集落であることを感じさせる。畑が広がる静かな光景だが、ここは古代・群馬の中心地であった。率先して仏教に帰依した豪族が支配層にいて、寺院を建築したのだろうか。

 それにしても何故、そんな大寺院が忽然と姿を消したのだろう。原因については戦乱や火災など諸説あるが不明である。10世紀には平将門の乱が起こっている(935年)。それまでの貴族という既成権威を否定した新興勢力・武士が勃興した時期である。貴族と結びついた支配層の象徴としての寺院は見捨てられ、顧みられなかったのかも知れない。あくまで私の想像ではあるが・・・。

 日本の歴史は戦乱が絶えない。欲望や苦悩の渦に、寺院も巻き込まれたであろう。寺院の跡に立つ、小さな神社の祠が、私には権力者の長い興亡の繰り返しの果てに燃え尽きた、巨大寺院の鎮魂碑に見えた。

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