この近くを流れる一貫掘川(いっかんぼり)は、昭和30年ごろまで曲がりくねって流れていましたが、その後、川の改修工事によりまっすぐになりました。近くに住むお年寄りの話によると、大正の初め(1913年)ごろ一貫掘川を渡る「赤土橋」(あかつちばし)の近くに、田んぼの持ち主が掘り割りを造り、水車小屋を建てました。そして、水車の力を利用して12個の臼(うす)で米をつき、問屋に出荷していました。「赤土の力石」は、その水車小屋の近くに置かれていました。 「力石」は、村の神社の境内や辻などに置かれ、第二次世界大戦が始まる前の昭和14年(1939年)ごろまでは、村の若者たちの力比べをする遊びに使われていました。形は細長く担ぎ(かつぎ)易い自然石が多く使われ、地方によっては「担ぎ石」(かつぎいし)と呼ばれていました。その重さは、いろいろありますが、その頃18貫目(およそ67.5s)を担ぎ上げれば「一人前」、20貫目(およそ75s)以上を担ぎ上げれば「力持ち」と言われていました。 力石の中には、持ち上げた人がその記念に名前・重量・年号などを刻んだ石もあります。昔の歌に「若い衆の 虫薬なり 力石」(雑俳・住吉みやげ)とあります。ここにある「赤土の力石」は、それぞれに「大正2年・三十五メ三(さんじゅうごかんめ・およそ132s)」、「大正2年・二十四メ(およそ90s)」と刻まれています。1913年に使われたものです。 そのころの村人たちは、この力石を「村の守り神」と呼んでいました。そのような大切な村の財産(文化財)をいつまでも見守ってほしいと願いが今に引き継がれて、昭和57年(1982年)ごろ塚沢公民館の庭に祠(やしろ)として移されました。 昔の歌に「明神様の力石とて、その石に腰をかくればそのえらい石を上げねばならぬ」(浄瑠璃)とあります。
長野堰(ながのせき)は、高崎市榛名町大字本郷地内の利根川水系烏川より取水する頭首工を起点とし、受益面積1000ヘクタール、取水量最大6.797立方メートル/秒、幹線水路は、頭首工より円筒分水堰まで約8q、かんがい用水として利用されるほか市街地全域の防火用水、環境美化用水などに寄与しています。 この円筒分水堰は、1962年県営幹線水路改修事業の一環として設置された配水施設で、自然落差を利用して、地獄堰、上中居堰、矢中堰、倉賀野堰の4堰に正確に受益配分されるよう設計された、全国でも珍しい分水施設です。かつて水利の乏しい地区では、干ばつのたびに激しい、水争いが起きましたが、円筒分水堰が設置されてからは、争いは落着しました。地獄堰の名は、激しい水争いの名残でしょうか。 2002年に高崎市が誇る近代遺産として、「たかさき都市景観賞」に指定された当円筒分水堰は、農業水利施設であるばかりでなく、長い歴史の中、地域に欠くことのできない水と緑と文化を育むシンボルとして重要な役割を果たしていくものと思われます。
待望した明治維新の夜明けを迎えながら高崎藩城付五十箇村のいわゆる五万石領の重税は改められず旧領だけは依然と塗炭の苦しみにあえいでいた。耐えかねた農民は自由と平等を願って、一致結束し窮状を訴えるため減税解放運動を起こしたのが有名な五万石騒動である。 激高する憤怒をおさえ民主的に大総代三名を選出して行動をはじめたのは明治二年の秋のことであった。しかしこの訴願も容易に聞き入れられずやむなく直接行動に移るや藩は総代を捕らえて投獄し翌二月四日まず二名をこの地に処刑し更に九月七日のこる一名も刑場の露と消えた。 この悲しみを乗り越えてさらに総代を立て宿願のために闘い続けたが重ねて同志を牢獄に失い流罪投獄にあう者数十名に及んだ。やがて藩知事は免ぜられ新政の恵みに浴した。