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【最新のお話】

◆上州をゆく◆第106話

「日本に相応しい道なのか?○前橋空襲追悼碑【前橋市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 太平洋戦争末期、米軍爆撃機は、容赦ない無差別爆撃を各地で繰り返した。火炎地獄が日本中に広がり、人々は炎の中を逃げまどい、おびただしい無辜の命が失われた。それでも愚かな軍部政府は、本土決戦を声高に叫ぶのみで、犠牲者は増えていくばかりであった。無能な指導者を抱えた、この国の現実であった。

 

 1945年8月5日、B29爆撃機92機が前橋を襲撃。焼夷弾691トン、破砕弾17・6トンを投下。被災家屋1万2011戸、被災者6万3646人、負傷者約900人、死者は535人(715人とも)に及んだ。数字を並べると単なる統計だが、「地獄」に突き落とされた人々の苦しみ、悲しみ、絶望が重なっている。

 

慰霊碑に供えられた平和を祈る千羽鶴
▲慰霊碑に供えられた平和を祈る千羽鶴

 

 集団的自衛権行使容認、安保関連法案が国会で議論されている。国のあり方の大転換なのに、憲法上の手続きを無視し、わずかな権力者だけで、憲法の精神から大きく逸脱する道が閣議決定された。数に物を言わせた与党の専横が、許されるはずがない。しかし私達自身が、その政治を選んでしまった。

 

 机上の空論が、もっともらしく展開された。政治家というエリートは、ロジックの組み立てが上手い。我々はそれに騙されてしまう。後方支援時、戦闘が起こった場合撤退するというが、生死の淵で戦う他国の兵士がそれを見てどう思うか。戦争とは、秩序などない殺し合いなのだ。武力行使の新3要件は、基準が曖昧なまま。国会の事前承認など、巨大与党の現在では単なる儀式に過ぎない。戦争に巻き込まれることは、絶対にないと首相は言う。しかし原発も、事故はあり得ないと説明されていた。

 

比刀根(ひとね)橋付近は火の海になった
▲比刀根(ひとね)橋付近は火の海になった

 

 ある宗教家は言った。「戦争という巨悪への怒りなくしてヒューマニズムはない」――「平和ボケ」という日本人を揶揄する言葉があったが、戦争への怒りの喪失こそ平和ボケではないのか。世界中で紛争が絶えず、膨大な難民が行き場を失っている。その受け入れや紛争国同士の仲介に、積極的であっていい。その方がよっぽど「積極的平和主義」に相応しい。 


-メモ-

●無差別爆撃
アメリカを中心とした連合国軍の本土攻撃は、1944年末から終戦まで続いた。200以上の都市が被災し、死者100万人以上とも、被災者は970万人とされる。県内では、前橋、太田、桐生、渋川、伊勢崎、高崎などが攻撃された。

●本土決戦
戦局が絶望的になると、軍部が「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」「一億(総)特攻」「神州不滅」などをスローガンにした。日本のポツダム宣言受諾により、連合国側の本土進攻は回避された。

●集団的自衛権
同盟国などが攻撃されたとき、自国への攻撃と見なし、反撃出来る権利。

●武力行使の新3要件
「密接な関係にある国」が攻撃され、日本の「存立が根底から覆される事態」で、「他の手段がない」場合に武力行使が可能。一つ一つをどう判断するかは、決まっていない。つまり時の政権が、恣意的に決めることが可能。

『前橋空襲追悼碑』

【アクセス】
JR「前橋」下車。北へ徒歩30分。

【住所】
前橋市住吉町2-1-1

【周辺マップ】

 

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上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第105話

「沼田の殿様ゆかりの屋敷 ○旧土岐邸洋館【沼田市】

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 明治まで、127年にわたって沼田藩主だった土岐氏は、清和天皇を祖とする源氏一族で、摂津源氏・源頼光の流れを汲む名門であった。美濃国(岐阜)に土着し、厚見地方(岐阜市)に勢力を広げた。土岐郡に本拠を置き、土岐氏を名乗った。南北朝・室町時代は、美濃国の守護職として勢力を誇った。

 

 1552年、斎藤道三との戦いに敗れたが、土岐定明の息子定政が三河(愛知)に逃れ、土岐氏は断絶を免れた。定政は、母方の養子となり、菅沼藤蔵(とうぞう)を名乗った。徳川家康に仕え、数々の武勲を上げた。家康が江戸に入ると、藤蔵は下総国相馬郡守谷(茨城・守谷市)を与えられた。藤蔵は土岐姓に戻り、土岐定政として土岐氏の礎を築いた。

 

ドイツ風に造られた旧土岐邸
▲ドイツ風に造られた旧土岐邸

 

 定政の4代後、土岐頼稔(よりとし)は、大坂城代、京都所司代を歴任。そして1742年、老中となり沼田に転封、沼田藩主となった。明治維新後、廃藩置県で最後の藩主頼知(よりおき)は免官され、東京へ移った。頼知の7男章(あきら)は、1924年に渋谷に洋館を建設した。沼田公園にある洋館は土岐家の好意により、1990年、縁ある当地に寄贈されたものである。

 暖かい春の陽光の下、アザレアピンクが眩しかった。沼田公園は、ちょうどツツジが満開。散策の家族連れが目についた。洋館は、2階建ての瀟洒な建物である。テラスもあって、贅沢な造りである。ここは、大正末から昭和初期に見られるドイツ風の住宅だそうだ。この時代の洋風住宅は、現存数が少なく、大変貴重だという。

 

アザレアピンクが眩しいツツジ
▲アザレアピンクが眩しいツツジ

 

 松平定信の孫である11代藩主土岐頼之(よりゆき)は、幕府軍として長州征伐に参加した。しかし次の大名息子の頼知は、戊辰戦争では新政府軍につき、三国峠で会津軍と戦っている。土岐氏は譜代大名なので、頼知は「裏切り者」となる。しかしそう単純に割り切れないのが、激動の幕末。歴史という激流に弄ばれる人間の悲しさを思う。頼知は、子爵となり1911年、64歳で没した。 


-メモ-

●摂津源氏
清和天皇の子孫源頼光は、摂津国河辺郡多田(兵庫・川西)を相続し、初代となった。源頼朝、義経を出したのは、河内源氏の系統。

●守護職
鎌倉・室町幕府が設けた職制。国単位で置かれた軍事・行政の責任者。室町時代になると、警察・裁判権も獲得したため、地方武士を傘下に収め勢力を拡大する守護も現れた。そうした守護を守護大名という。

●土岐頼稔
大坂で生まれた。駿河田中藩(静岡・藤枝)2代藩主だった。享保の大飢饉での窮民対策で、徳川吉宗に賞賛された。

●子爵
君主制国家において、貴族の血統による世襲称号、または国家功労者に授与される名誉称号。日本では、貴族や元大名に与えることにより、統治機構に組み込んでいった。上から公、侯、伯、子、男爵があった。戦後廃止。

旧土岐邸洋館(沼田公園内)』

【アクセス】
JR上越線「沼田」下車。北へ徒歩20分。

【住所】
沼田市西倉内町594

【周辺マップ】

 

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