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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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上州をゆく

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◆上州をゆく◆第74話「日光例幣使は「ゆすり」の始まり」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 毎年4月1日に京の都を発った例幣使(幣帛=へいはく<神事における神への捧げ物で布や武具、神酒など>を奉納する使節)一行は中山道を通り、高崎・倉賀野からは例幣使道に入る。日光で4月15日に行われる徳川家康を祀る春の大祭への例幣使の派遣は、1647年から1867年までの221年間、一度も途切れることがなかった。例幣使道の最初の宿場、玉村宿に着くのは4月11日であった。例幣使道は現在の国道354号に重なる。

 

 世は徳川の天下。天皇といえどもその威光に逆らえない。家康の眠る徳川の聖地・日光東照宮への奉幣は、朝廷にとって負担であるが重要な行事であった。そして例幣使のお陰で街道は整備され交易が盛んになり、都の文化が上州に流入した。玉村も大いに賑わった。

 


▲例幣使の詠んだ句碑

 

 1868年の大火で玉村宿は灰燼に帰してしまった。現在は防火壁を設けるなど防災の工夫がなされた街並みとなっているが、国道354号沿いには老舗が点在し、往時の繁栄を偲ばせる。例幣使が読んだ句碑もあり、歴史に触れることが出来る。

 


▲物語を語る「日光三猿」

 

 初秋の世界遺産・日光東照宮は観光客で溢れていた。陽明門に刻まれたきらびやかな彫刻、本殿の繊細な装飾を仕上げた当時の職人の腕の凄さに感嘆する。有名な三猿は本当に我々に物語を語りかけているようだ。家康の墓所(奥宮)に参拝しようと思ったが凄まじい長蛇の列。延々と続く人波に、これほどまでに関心を持たれている日本人は他にいないだろうと思った。

 

 一方、例幣使は宿場にとって負担でもあった。迎える準備のため、到着の10日前から人足が300人から400人も駆り出された。しかも財政難の朝廷は「公務で来たのだから」と言い、宿代を無理やりまけさせたりもした。さらに我がままのし放題で、自分の駕籠をわざと揺すって飛び出し、「運び方が悪くて落とされた。幕府に訴えるぞ」だのと人足を脅し、金品を要求することもあった。これが「ゆすり」の語源になったそうだ。

 

周辺MAP(日光東照宮)/周辺MAP(玉村町国道354号沿い)

 

 

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◆上州をゆく◆第73話「尊王攘夷に散った13歳の武士」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 天狗党(水戸浪士)と高崎藩士の戦いは、1864年11月16日の未明、下仁田村で火ぶたが切られた。天狗党の残党は約千名、対する高崎藩は200名余り。幕府から天狗党の追討の命を受けた高崎藩だが、七日市藩や小幡藩の協力が得られず、すでに2千名の兵力を水戸に出征させており、孤立無援の戦いとなってしまった。

 

 一進一退の攻防が続いたが、突然の大音声。「高崎公にお味方仕る。ご安堵あれ」。この叫びと翻る小幡藩の旗に、高崎藩には油断が走った。天狗党のわなにまんまとはまった高崎藩は一気に崩れた。しかし幕命を負った高崎藩に降伏は許されない。激しい白兵戦が続いた。

 

 高崎藩の小野派一刀流の名手、内藤儀八は先兵として天狗党本陣に切り込み、立ち向かってきた敵の右腕を斬り落とした。しかし相手がまだ少年だと分かると、止めを刺さず立ち去った。斬られたのは13歳の初陣、野村丑之助であった。自分が足手まといになると切腹を願い、無念さを抱えたまま果てた。一方、内藤儀八は敵陣に飛び込み戦死した。

 

 


▲高崎藩士戦死之碑

 

 野村丑之助の墓は上信電鉄の下仁田駅近くにひっそりとあった。「亡骸は程なく土に変わるとも 魂は残りて皇国(みくに)を守る」。説明板にあった少年の辞世の句である。これほどの志の高い少年である。生きていれば名を残す人物になっていたかも知れない。高崎藩でも5人の少年が前途を閉ざされた。戦いでの犠牲者は天狗党4名、高崎藩は36名であった。

 


▲13歳で散った野村丑之助の墓

 

 捕らえられた高崎藩士が処刑された青岩河原付近は、南牧川と西牧川が合流し荒々しい流れだった。川の中央に大きな碧色の岩があり、賽の河原を連想させた。天狗党は信州、加賀へと進軍したが、加賀藩に敗れ降伏した。水戸藩出身の徳川慶喜は天狗党に対し死罪353人、遠島137人など厳罰に処し、尊王攘夷を掲げた水戸天狗党の反乱は終わった。時代が明治となるのは、天狗党処刑から3年後の1868年のことである。

 

周辺MAP(下仁田ふるさとセンター歴史民俗資料館)

 

 

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◆上州をゆく◆第72話「古代文字に潜む先人の思い」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 前橋・三夜沢(旧宮城村)の赤城神社にある神代文字(じんだいもじ)の碑には驚いた。日本には中国から漢字が伝わるまで、文字は存在しなかったというのが一般的な認識ではなかったか。しかしこの碑には、古代に使われていたという独自の文字が刻まれているのである。

 

 前橋市の重要文化財にも指定されているこの碑に書かれた文字は、朝鮮半島で使われているハングルに似ていた。碑の説明板には「現在はっきりしているものだけでも数種類にもなります」とある。「えっ!そんなこと学校で習ったことないぞ」。疑問は深まるばかりであった。

 

 少し調べてみると、古代の神道儀式では、神への奉納祈願文に神代文字は使われていたとする説があるそうだ。古代文字の遺跡は日本各地で発見されているという。もし祈願が確実に神に伝わるようにと文字が使われたとしたなら、それは極めて自然なことなのかも知れない。

 

 

前橋・三夜沢(旧宮城村)の赤城神社
▲小雨の中の赤城神社

 

 小雨の中に煙り杉木立に囲まれた拝殿を見て、神秘的とはこういう情景を言うのだろうと思った。神社の創建は崇神天皇(すじんてんのう)=第10代の天皇とされる=の頃と伝えられている。原始の昔から何万年、何千年と続く赤城山信仰である。神々との「対話」も数限りなくなされて来たに違いない。赤城神社でも神代文字が使われていた可能性は十分にある。

 

赤城神社へ至る参道
▲赤城神社へ至る参道

 

 昔は、遠方の人は何日も歩いて参拝に訪れたはずである。参道を歩きながら、神々にやっと出会えると感動に打ち震えていたであろう。そうした光景は全国で見られたはずである。神代文字を後世の偽造とする学者もいるそうだ。中には偽造もあろうが、全て偽物とすることは極めて偏狭な見方であり、人々の信仰まで否定することになりはしないか。古(いにしえ)の参詣は旅というより宗教儀式なのである。厳かな気持ちで一歩一歩足を踏みしめていたであろう。今も残る松並木の参道を歩き、現代人には及びもつかない人々の感動に思いをはせてみた。

 

周辺MAP

 

 

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◆上州をゆく◆第71話「世界が賞賛したフェアプレー」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 ロンドン五輪では、日本は38個のメダルを取り、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。マイナー競技も活躍し、アーチェリーなどは注目度が増しただろう。テニスでも男子が88年ぶりに勝利し話題となった。日本はテニス強国だったというと驚く人もいるかも知れないが、日本の五輪初メダルは、アントワープ大会、テニスの熊谷一弥の銀メダルである。

 

 1920年、ウィンブルドン大会オールカマーズ決勝。清水善造は、米国のチルデンと対戦。両者一歩も譲らない熱戦が続いた。しかし突然のアクシデント、チルデンが転倒したのだ。清水絶好のチャンス。しかし何と清水は相手が体勢を立て直せるよう、ゆっくりした球を返した。驚く観衆。立ち直ったチルデンは怒涛の攻撃を開始。さすがの清水もこらえ切れず敗れ去った。しかし観客は惜しみない拍手を清水に送った。

 

 


▲清水善造の母校、高高

 

 箕郷村(現高崎市)に生まれた清水善造は、高崎中学(現高崎高校)に進学すると、往復30キロの道のりを歩いて通い、卒業まで無遅刻無欠席を貫いた。朝は家畜の世話をし、牛乳配達のアルバイトをしながらである。その中、クラブ活動は軟式庭球に励んだ。

 

 成績優秀な清水だったが、家は貧しい農家ゆえ進学は諦めていた。しかしその才を惜しんだ篤志家が、進学の面倒を見ると言ってくれたのだ。思わぬ幸運に恵まれた清水は猛勉強の末、東京高商(現一橋大学)に進学し本格的にテニスに打ち込んだ。卒業後は商社マンとして活躍する一方、世界的なテニスプレーヤーとなった。

 

 


▲清水善造の出身地旧箕郷町

 

 旧箕郷から高崎市街まで、車で30分はかかる。そこで一高校生が壮絶なドラマを演じていたとは。ある夏の暑い日、高高は夏休みにも関わらず、クラブ活動の生徒で活気があった。弾けるような若さが輝いていた。今の時代、もし五輪などで同じことをしたなら――「勝負を投げたのか」「相手への侮辱だ」と非難されるかも知れない。後年、自分のプレーを本人は肯定も否定もしなかったという。

 

周辺MAP

 

 

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◆上州をゆく◆第70話〜広がる神秘の世界―――赤城山〜

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

「裾野は長し、赤城山」(上毛かるた)――高さは1828メートル(黒檜山=外輪山)で富士山の半分以下なのに、裾野の長さは約 35キロで富士山に次ぐ。赤城山とは、どこまでも続く裾野の上にそびえ立つ7峰を束ねた総称である。

赤城山は原始の昔から神々の山として崇められてきた。山頂中央部のカルデラ湖は大沼と呼ばれ、近くの小沼と共に赤城山信仰の中心として、人々の尊崇の念を集めてきた。その畔に神庫山(地蔵岳)から赤城神社が遷宮されたのは、約1200年前の806年。江戸時代には、前橋城主で大老だった酒井忠世によって徳川家康が合祀され、将軍家や大名たちの信仰を集めた。今では日本各地に赤城神社は存在する。

1642年、徳川家光が火事で焼失した社殿を再建したが、赤城山の自然は厳しく、長い年月を経る中で社殿は荒廃した。そのため1970年、小鳥ケ島に新社殿を造営し、今日に至っている。現在、山は信仰の聖地としてばかりでなく、スキーやワカサギ釣り、ハイキングなど県民の憩いの場としても親しまれている。

 


▲朱色に輝く赤城神社

前橋の小暮(旧富士見村)にある「赤城大鳥居」をくぐり、赤城神社を目指して車で山を上った。急カーブが連続する県道を走っていると、急に車内がひんやりしてきた。標高は千メートルを越え、雲が間近に見えた。いよいよ神の宿る神秘の世界に突入したのだろうか。

神社への入り口となる「神橋」を渡ると、神の世界に至る。朱色の社殿が目の前に現れた。ここが家から見える赤城山の頂上だとは、にわかには信じられなかった。家から見えるあの大きな山に、車で家を出てから2時間もかからずに上ってしまったからだ。山岳信仰の聖地は、貸ボートやバンガローなどレジャー施設も多い。しかし下界を悠然と見下ろす泰然自若とした山の姿は太古から変わらない。そうした姿に人々は畏怖の念を抱き、古来、神の宿る地として崇めてきたのだろう。

 


▲神社跡地の鳥居

 

 

周辺MAP

 

 

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