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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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上州をゆく

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【最新のお話】

◆上州をゆく◆第79話「碓氷郡の歴史を辿ってみると」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 2013年のNHK大河ドラマ、「八重の桜」にちなみ、新島襄、八重夫妻に関する資料展が「旧碓氷郡役所」で開かれていた。安中ゆかりの新島襄、八重の生涯を彩った品々、貴重な写真などが並んでいて興味深かった。同志社の創立者として有名な新島襄だが、箱館からの密航、アメリカでの勉学、帰国後の教育事業と、本人の努力はもちろん、多くの人々の援助があってこそ、大事業は成し遂げられたということがよく分かる。

 

旧碓氷郡役所
▲今も親しまれる旧碓氷郡役所

 

 修理・復元されたこの庁舎は、創建時の状態に極力近づけたものだそうである。土台、柱、梁などは全て当時のものだ。安中杉並木10本も、材木として使われたそうである。中を見渡しながら、「昔の役場や病院はこんな感じだったなあ」と思わずつぶやいた。

 

 日本の郡制は、701年に制定された大宝律令まで遡る。地方は、国―郡―里に再編され、それぞれ国司、郡司、里長が治めた――。郡制が復活したのは、1878年、郡区町村編成法が公布されてからである。群馬県には17郡(1896年に11郡に統合)が置かれた。

 

 碓氷郡は70町村(人口約4万人)を統括し、郡役所は伝馬町の旧安中宿本陣、須藤国平氏宅を借用していた。1888年、現在地に新庁舎が完成し移転したが、1910年に原因不明の火事により全焼してしまった。翌年、再建された庁舎が現在も残る「旧碓氷郡役所」である。1974年、群馬県から安中市に寄贈されると市指定重要文化財に指定された。旧郡役所としては、県内に残存する唯一のものである。

 

箱館奉行所
▲復元された箱館奉行所

 

 郡には課税権がなく、行政に関わらなかった。国、府県の出先機関にすぎず、住民にもなじみの薄い存在であった。このため1923年、郡制は廃止され、単なる地理的名称になって現在に至っている。しかしこの建物は、郡制廃止後も碓氷地方事務所、安中農政事務所などに利用され住民に身近だった。ちなみに碓氷郡は、松井田町と安中市が合併し消滅した。

 

 

−メモ−
●新島襄、八重●

新島襄:1843年、江戸神田の安中藩江戸屋敷に生まれる。本名七五三太(しめた)。女子が4人続き、待望の男児だったゆえ祖父が「しめた」と叫んだことから命名。八重:1845年、会津(福島県)生まれ。1871年、京都に移り女紅場(府立第一高女=現鴨沂高校)の舎監兼教導試補となる。
●同志社●

1875年、同志社英学校開設。始めは大阪での開学予定だったが、寄付が集まらず断念。
●人々の援助●

箱館を紹介した山田三川、密航を支援した箱館の司祭ニコライ・カサートキン、アメリカで援助したハーディー夫妻、京都の土地、6千坪(現・同志社今出川キャンパス)を寄付した山本覚馬(八重の兄)ら。
●大宝律令●

唐の制度を参考に藤原不比等、刑部親王などが編纂。律は刑法、令は民法に当たる。天皇中心の本格的な中央集権国家としての体裁を整えた。
【アクセス】JR信越線「安中」下車。西へ徒歩30分
【住所】安中市安中3-21-51

 

周辺MAP(旧碓氷郡役所(安中市))

周辺MAP(箱館奉行所(函館市))

 

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◆上州をゆく◆第78話「日米友好の懸け橋」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 東京ドームの一角に、戦争で犠牲になったプロ野球選手達の「鎮魂の碑」があるのをご存じだろうか。

碑には沢村栄治、石丸進一、青柴憲一、吉原正喜…ら選手69人の名前が刻まれている。

 

戦死野球選手の鎮魂碑
▲戦死野球選手の鎮魂碑

 

 碑には遺族代表石丸藤吉氏の「追憶」があった。「弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。召集は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特攻隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球 よし ストライク10本 そこで、ボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま南に敵艦を求めて飛び去った」 

 

 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)2013での日本代表の活躍に熱狂した人は多いだろう。各国の代表選手の中に、日本のプロ、社会人などの所属選手、経験者が沢山いることを改めて知った。まさにスポーツとは、世界の人々を繋ぐ平和の象徴なのだ。スポーツを楽しめる平和を破壊してはならない。

 

 日本プロ野球の基礎を築き、野球を通じて日米友好に生涯を捧げた鈴木惣太郎は、伊勢崎出身である。旧制前橋中学(現前橋高校)から早稲田、大倉高商(現東京経済大学)を経て貿易商社へ入った。仕事で訪れたアメリカで、野球の魅力に取りつかれた。日本チームの訪米の際にはマネジャーとして支え、ベーブ・ルース率いる大リーグ代表の来日も実現させた。プロモーターとして日本プロ野球の誕生に陰から尽力し、打撃の神様・川上哲治をスカウトしたのも鈴木である。

 

鈴木惣太郎記念球場
▲鈴木の名を冠した球場

 

 伊勢崎市野球場は鈴木の功績を称え、「鈴木惣太郎記念球場」と命名されている。正門前には、鈴木の胸像が球場に向かって立っている。ここで、毎年繰り広げられる高校野球の熱戦をじっと見つめている。眼鏡の奥の厳しい目は、もう二度と若者を戦場へは送らないぞという強い決意を表しているように見えた。

 

周辺MAP(鎮魂の碑(文京区))

周辺MAP(鈴木惣太郎記念球場(伊勢崎市))

 

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◆上州をゆく◆第77話「人間の欲望に滅ぼされた【神殿】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 太田市の旧藪塚本町地域は古墳が多く、昭和初期からの調査では135基も確認された。しかし近年の周辺の再開発や区画整理事業で、50基ほどが残るだけだそうだ。藪塚温泉郷の少し北の八王子丘陵中腹にある「北山古墳」(7世紀、古墳時代末期)は、直径約22メートル、高さ約4メートルでこの地域では最大級の古墳である。

 


▲藪塚最大級の北山古墳

 

 石室には、近くから産出する藪塚石が使用されている。藪塚石とは2千万年前の火山活動で形成された軽石凝灰岩で、地殻変動で地表に出現した。柔らかく加工しやすいため、建築物の土台やかまどなどに利用された。石の本格的な採掘は、明治時代に石材会社が設立されてからである。

 

 採石場の入り口には説明板があり、現場まで小道が続いている。朝、寒かったせいか霜柱が立ち、歩くとサクッサクッと音がした。「こんな感覚は何十年ぶりだろう」。アスファルトとコンクリートしか踏まない生活にドップリ浸かっている身には、遠い過去の子供時代に置き忘れた懐かしい感覚だった。

 

 草木をかき分け2〜3分歩くと、古代の神殿の遺跡かと見まがうような白い巨大な石の壁が現れた。その奇観に息をのんだ。高さ30メートルはあろうか。滑らかな平面に見えた壁だが、近づくと細かい波のような模様で覆われていた。職人が石を手斧やノミで削った跡らしい。機械など使わず手作業で切り出した跡である。「こんな巨大なものを、よくもまあ・・・」。絶句した。

 

宮殿のような藪塚石
▲宮殿のような藪塚石

 

 「石様かい、神様かい」。最盛期の昭和初期には職人の日当は、普通の作業員の3倍の1円20〜30銭にもなり、こう囃し立てられた。各地から働きに来た職人は300人を優に超え、新しい集落が形成されたほどだという。しかし石は水に弱く割れやすかったため、より品質のよい大谷石(栃木県産)に取って代わられた。さらにコンクリートが普及すると需要がなくなり、昭和30年代に採石場は閉鎖。人間の欲望に征服された「廃墟」だけが残った。

 

周辺MAP(北山古墳(太田市))

周辺MAP(藪塚石切り場(太田市))

 

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◆上州をゆく◆第76話「鎧が語る古代の悲劇」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 2012年12月、渋川市発の驚くべきニュースが全国を駆け巡った。6世紀初頭の榛名山の大噴火の犠牲者とみられる鎧を着た男性の人骨と乳児の頭骨が、渋川・金井東裏遺跡から発見されたのである。噴火では火砕流が集落を直撃し、多くの人々が命を落とし生活の糧を失った。6世紀中頃に再噴火、軽石層が2メートルも堆積した。

 


▲高崎から榛名の山々を望む

 

 現場は「群馬用水竣工記念碑」を挟むように広がっていた。澄み切った青空の下の遺跡はシートで覆われている。平年より気温は低いはずだが、降り注ぐ陽光のせいかあまり寒さは感じない。ここは縄文から中近世にかけての遺跡で、バイパス建設に伴って調査された。古代史には謎が多い。文献なども無く、想像を掻き立てられるロマンの世界である。

 

 

 通常、火山灰は酸性度が強く骨は残らないそうだが、「砂の粒が細かく保湿性が高い地層のため奇跡的に人骨が残った」(上毛新聞から)という。男性の骨は、榛名山に向かい突っ伏した姿勢で発見された。新聞報道では、そばの赤ちゃんを助けようとして、あるいは噴火を鎮める儀式をしていて、火砕流に巻き込まれたのではないかとされている。

 


▲群馬用水記念碑近くから出土した

 

 当時、この地域での紛争の形跡はないそうで、鎧は武装のためではないらしい。しかも有力者がまとう鎧で、男性は指導者層に属する人物と推測出来るという。「現代の消防士か警察のような役割だったのかもしれない」(同)。そうすると鎧は制服で、男性は消防か警察の署長の様な存在か?

 

 先進地域であった当時の群馬は、高度な土木技術もあったのであろう。間もなく復興を成し遂げ、集落を再生させていた。絶望や不安と戦いながらも、決して希望を捨てなかった先人の偉大さに頭を垂れた。大災害を乗り越えた勇気ある人々が、本県を作り上げていったと言っても過言ではない。防災・減災が大きな課題の今、祖先に学びたい。帰り際に遭遇した渋川市の出初め式に、「殉職」した鎧の男性の姿を重ねた。

 

周辺MAP(金井東裏遺跡(渋川市))

群馬県ホームページより
古墳時代の甲(よろい)着装人骨の出土について(金井東裏遺跡(渋川市))

 

 

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◆上州をゆく◆第75話「群馬の「ほこり」はここにも」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 沼田の荘田城址で車を降りると、白雪に覆われた山々が遠くに見えた。そこから冷たい風が吹いてくるせいか寒さが身に染みる。ここに館が築かれたのは940年。平将門の乱討伐に参加した北毛の豪族・利根平八が戦後、恩賞として下賜された荘田郷に館を建て、平氏の一人を住まわせたのが荘田城の淵源である。

 

 その子孫の経家は荘田氏・沼田氏を名乗った。経家は平清盛から利根北勢多の庄官に任ぜられ、平家滅亡後は源頼朝に仕え、頼朝の家来の三浦氏から妻を迎えた。その娘、利根姫は頼朝の子大友能直(よしなお)を生み、能直は1196年、九州守護職となり豊後・大友氏の祖となった(大友氏の発祥については他説もあり)。

 


▲本丸跡にある八幡宮

 

 三浦氏は1247年、北条時頼に滅ぼされたが(宝治合戦)、一族の家村が荘田の地に逃れ、沼田景泰(かげやす)と称し類縁の大友氏の領地を治め城郭を築いた。以後8代景朝(かげとも)が小沢城に移るまで158年間居城とした。これが荘田城である。

 


▲公園となっている城跡

 

 城址は公園として整備されている。入口近くの本丸跡には八幡宮(熊野神社)があり、前は広場である。階段を上るとまた平地が広がっている。城は二段構造になっていたのだろう。荘田沼の干拓で耕作地を広げ経済基盤を確立した沼田氏は、小沢城、さらに台地に幕岩城、沼田城を築き、現在の沼田市の基礎を構築した。

 

 沼田は県随一のリンゴの産地。直売所で雅な名前に魅かれ、「名月」というのを買った。1971年から20 年の歳月をかけて品種改良に成功した県産のリンゴ種だそうだ。中型で酸味は少なく甘いという。群馬県が開発した新種としては、「あかぎ」「陽光」「新世界」に次ぐ4番目。名の由来は色が黄色で、「月のような美しさを持つ」から。「よそ者」の私にとっては初めてのリンゴである。食べてみると確かに蜜が多く甘い。きっとこれからは冬になると、我が家の食卓に彩りを添えてもらうことになるだろう。

 

周辺MAP(本丸跡の八幡宮(熊野神社))

 

 

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