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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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上州をゆく

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上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第84話「秘湯で「北天の雄」を思う 」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

  京都・清水寺の南苑に、平安時代のある勇者の顕彰碑がある。平安時代初期、蝦夷(えみし)の征服に赴いた坂上田村麻呂の朝廷軍に対し、自らの独立と尊厳を賭けて抵抗戦を繰り広げた東北の英雄・阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の名が刻まれている。碑はその古里・岩手県水沢地方の人々が、1994年に建立したものである。

 

「北天の雄」の碑
▲京都・清水寺にある「北天の雄」の碑

 

 坂上田村麻呂の伝説は各地にあるというが、桐生・黒保根の梨木温泉も、田村麻呂が赤城山の山懐に神社を造営する折に発見したと伝わる。温泉は、渡良瀬川の支流・深沢川が流れる谷間に抱かれた一軒宿である。昔は野天の湯屋があっただけだったそうだが、旧国鉄足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)が出来ると湯治場として知られるようになった。

 

 「本宿」で電車を降りた。本宿駅は無人駅で駅舎が無く、前を流れる渡良瀬川の静かな流れが目に入った。ホームを降りて、長い階段を上る。階段に沿って、彼岸花が紅色の花を咲かせており、秋の到来を感じさせた。宿の送迎車に乗り込んだ。国道(銅山街道)を横切り、急カーブの連続する林の中の山道を上って行くと、やがて温泉に辿り着く。

 

本宿駅
▲渡良瀬川に臨む「本宿」駅

 

 小雨が降っているせいか、迫ってくるような山々が煙り、静寂さが一層際立つ。「湯治場」にふさわしい光景であった。温泉県を自任する群馬だが、東毛には温泉は意外に少ない。それだけにここは貴重で、もっと有名になってもらいたいが、「秘湯」のイメージも大切にしたい。

 

 大和朝廷に、実に30年にわたり抵抗を貫いた東北の民・蝦夷だったが、坂上田村麻呂軍との戦いに惜敗。これ以上の血は流せないと、族長の阿弖流為と母礼は投降した。田村麻呂は、朝廷に2人の助命を願い出たが却下。阿弖流為と母礼は河内(大阪)で処刑されてしまった。朝廷の大軍に、僅かな軍勢で勇敢に立ち向かった阿弖流為らを讃えた田村麻呂であったが、その胸中は――。真の勇者が名誉を回復するまで、1200年の時が流れていた。

 


−メモ−

●蝦夷

大和朝廷が使った東北に住む人々の呼称。朝廷の勢力が広がると、対立が激化。騎馬と弓矢を使う戦法は、後の武士に引き継がれた。

●坂上田村麻呂

5世紀の渡来人・阿知使主(あちのおみ)の子孫とされる。清水寺は、田村麻呂の帰依により発展した。

●阿弖流為

詳細な生涯は不明。789年の戦いでは、5万の朝廷軍を殲滅させた。処刑は802年。母礼は阿弖流為の腹心。平安京遷都1200年の際、顕彰碑を建立。

●旧国鉄足尾線

足尾銅山から産出される鉱石輸送の鉄道として敷設。1918年、国有化。1988年、わたらせ渓谷鉄道に。

 

【アクセス】梨木温泉/わたらせ渓谷鉄道「本宿」下車。北西に車で10分。

 

【住所】梨木温泉/桐生市黒保根町宿廻285 ‎

 

周辺MAP(黒保根町)

 

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◆上州をゆく◆第83話「天才歌人の過酷な運命 」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 今は歴史民俗資料館になっている旧川場小学校の木造校舎の近くに、村を流れる薄根川に架かる吊り橋がある。「ふれあい橋」というこの橋の西の袂に、ひっそりと歌碑が立っている。

 

  瀬の色の 目立たぬほどの 青濁り
          雪しろのはや 交りくるらし

 

 川場小学校を卒業した歌人、江口きちの歌碑である。博打にのめり込み家を顧みない父に代わり、食堂を営みながら、貧困の中、知的障害のある長男ときちら3人の子供を育てる母――。きちは過酷な家庭環境の中で育った。しかし聡明で成績優秀、小学校卒業時は総代を務め表彰もされた。

 

龍昌寺
▲ふれあい橋の袂にある江口きちの歌碑

 

 沼田郵便局に勤めるが、母が脳溢血で急逝し、家族を支えるため川場に戻り母の飲食店を継いだ。念願だった郵便局務めを辞めざるを得なかったきちの、唯一の心の慰めは歌を作ることであった。いや、生きる支えであったかも知れない。

 

 雑誌「女性時代」に投稿を始めると次第に認められ、「新万葉集」(改造社)、「昭和一三年版年刊歌集」(群馬県歌人協会)にも短歌が掲載された。しかし老いた父、障害者の兄を抱えての苦しい生活から逃避するように、18歳年上の村の有力者との道ならぬ関係に走った。

 

龍昌寺
▲江口きちが学んだ旧川場小学校

 

 ある休日、陽気に誘われ川場温泉に行った。「田園プラザ」は行楽を楽しむ人でいっぱい。コンサートに大道芸――楽しい時間が過ぎた。オートバイでツーリングするグループを見た。ヘルメットを取ると皆「老人」!いや驚いたのは失礼。60、70歳など、まだまだ元気、こちらが圧倒された。

 

  睡たらいて 夜は明けにけり うつそみに 
          聴きをさめなる 雀鳴き初む

  
  大いなる この寂けさや 天地の時刻 
          あやまたず 夜は明けにけり

 

 辞世の句2首を残し、1938年12月2日、兄を道連れに服毒自殺。26年の短い生涯を閉じた。自分で縫った純白の絹のドレスを纏っていたという。

 


−メモ−

●旧川場小学校
校舎は1910年に建設。1987年、現在地に移築され、歴史民俗資料館となった。江口きちの展示室もある。

●江口きち
1913年、川場村に生まれる。死後、関係者によって、歌集「武尊の麓」が発行された。その天才性、薄幸の一生から「女啄木」と呼ばれる。

●「女性時代」
1930年創刊の女性のための総合文芸雑誌。戦況悪化のため、1944年に廃刊。

●川場温泉
武尊山の南麓、川場村の中央にある。伝承では、弘法大師発見の湯とされる。


【アクセス】
(川場村歴史民俗資料館)JR上越線「沼田」駅前から、関越交通バス「学校前」下車。南西へ徒歩5分。

 

【住所】
(川場村歴史民俗資料館)川場村天神1122

 

周辺MAP(川場村)

 

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◆上州をゆく◆第82話「保守王国に根付くリベラリズム 」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 1874年、祖国の土を踏んだ新島襄は、安中で10年ぶりに家族と喜びの対面を果たした。しかし一家団欒の時は束の間、すぐに布教の旅を開始した。帰国して1カ月の内に、安中の友人宅、学校そして龍昌寺で講演を行っている。龍昌寺の講演には、地元の僧侶の他、高崎からも高級官吏全員が聞きに来たという。

 

 新島襄と親交があった人物に、日本初の民間図書館「便覧舎(べんらんしゃ)」を安中に作った湯浅治郎がいる。私財を投じて、和漢の書籍3千冊を自由に閲覧出来るよう人々に開放した。便覧舎で新島から湯浅以下30名が洗礼を受け、安中教会設立に繋がる。

 

龍昌寺
▲新島襄の講演が行われた龍昌寺

 

  湯浅家は我が家でも愛用している醤油の老舗醸造業者であり、代々の当主は地元に多大な貢献をしている。5代目・正次は、新島の精神を受け継ぐ新島学園創立の中心者で、安中市長も務めた。店には醤油の他にお菓子などがあり、コーヒーも飲める。同志社マークのペットボトルの水があったので買った。店舗横のギャラリーでは、写真を中心に貴重な資料が展示され、商店の歴史をたどることが出来る。新島襄と内村鑑三が納まっている写真があった。2人の間にどんな会話が交わされていたのだろう。

 

 便覧舎から始まった安中教会は、初めて日本人の手によって設立された教団でもあった。当初、便覧舎に作られた「碓氷会堂」で礼拝は行われていたが、新島襄召天30年を機に、現在の安中教会堂(新島襄記念会堂)が建設された。今は入り口が施錠され、休日の午後に庭だけ公開している。隣の幼稚園の保護者からの要請だそうだ。「(市民に開放されず)忸怩たる思いもあります」と関係者。

 

安中教会
▲初の日本人による教団「安中教会」

 

 保守王国として有名な群馬県だが、実はキリスト教が流布しリベラルな一面もある。養蚕業が盛んで絹の輸出業績を上げるため、西洋事情の吸収に熱心だったことが下地になっているらしい。湯浅治郎は、後に県会議員や議長になり廃娼運動を先導した。1893年、群馬県は日本初の廃娼県となった。

 

−メモ−

●龍昌寺
1616年開山。永平寺系曹洞宗寺院。参道に108の梵鐘が並んでいる。新島襄に箱館のことを教えたとされる山田三川の墓がある。
●便覧舎
1872年建設。新島襄が公会設立の式を行い、男16名、女14名が受洗した。1887年、火災で焼失。
●湯浅治郎
衆院議員や碓氷銀行の頭取も務めた。新島襄の死去後は、京都に移り同志社の理事に。
●安中教会
現在の教会は、1919年竣工。初代牧師は筑後柳河(福岡県)出身の海老名弾正。同志社総長も務めた。

 

【アクセス】
(安中教会)
JR信越線「安中」下車。西へ徒歩30分


【住所】
(安中教会)安中市3-19-10

 

周辺MAP(安中市)

 

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◆上州をゆく◆第81話「「粋」があった頃の「お噺」 」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 昭和20年代末、若き春日八郎が歌った空前の大ヒット曲、「お富さん」。60代以上の人には懐かしい名曲の一つだろう。軽快なリズムのこの歌を日本中の人達が口ずさみ、戦後の焼け野原からやっと立ち上がった国土に希望の灯をともした。この歌の作詞者は、高崎出身の山崎正である。

 

旧碓氷郡役所
▲往時の佇まいを残す路地

 

 お富さんの歌い出し、「粋な黒塀 見越しの松に」は高崎・柳川町を歌ったそうである。かつて花街として、華やかさに彩られていた高崎の柳川町界隈だが、今はその面影はほとんどなく、寂しい限り。しかし細い路地に入ると、昔の遊郭を思わせる格子の窓のある古い家屋があったりして、花街だった頃の面影が残っている。

 

 山崎正は「幌馬車詩人社」を戦後まもなくに結成し、雑誌「幌馬車」を発行していた。理想主義者だったらしく、「荒廃した祖国の人々の心に響く作品を送り出したい」と詩作に没頭していたという。お富さんが世に出たとき、山崎が詩作を開始してから、雌伏14年を経ていた。前年にはテレビ放送が開始。歌謡曲が庶民の娯楽の中心になった時と重なり、うまく時代の波に乗った。

 

旧碓氷郡役所
▲落ち着いた雰囲気を醸す界隈

 

 高崎は商都であり交通の要衝でもあったので、多くの人々が高崎を訪れ、花街・柳川町の名は関東中にとどろいた。また戦前、高崎には兵営(後の陸軍15連隊)が置かれ、兵隊さんを大得意に柳川町は発展していった。兵隊と芸者衆の艶話が、数限りなく咲いたに違いない。大正年間、第一次大戦で戦勝国となった日本には戦争成金が溢れ、この頃が柳川町の最も華やかなりし時代だったかも知れない。

 

 この町は、高崎の、そして日本の栄枯盛衰を見続けてきた。今は、週末でも人出の少ない静かな町である。それが不況のせいなのかどうかは分からない。昔は「三味線流し」などもあったそうである。賑わいの陰で、女の悲しさも漂っていた。全国的に、花街というのは過去のものになりつつある。歴史の流れとともに、街の表情は変わっていく。


 

−メモ−

●お富さん
1954年発表。作曲・渡久地政信。売り上げ枚数は100万枚とも言われ、当時としては異例の大ヒット。「お富さん」という映画も制作された。

●山崎正
「前橋音頭」も作詩。「前橋だんべえ踊り」は、前橋音頭のアレンジ。山崎の同人には、牧房雄(東海林太郎や三橋美智也の歌を作詞)らがいた。

●柳川町
1873年、町名が付けられる際、地内を流れる用水の岸に大きな柳の木があったことが、町名の由来とされる。

●テレビ放送
1953年2月1日にNHK、8月28日にNTV(日本テレビ)が放送開始。

 

【アクセス】
JR「高崎」駅から北西に徒歩30分。

 

【住所】
高崎市柳川町

 

周辺MAP(柳川町)

 

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◆上州をゆく◆第80話「仏教寺院に眠る「隠れキリシタン」 」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国の世の1549年、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルによってである。布教が進み、大名の中にも信仰するものが現れた(キリシタン大名)。しかしスペインやポルトガルが布教を利用して、日本の植民地化を目論んでいると恐れた豊臣秀吉は、キリスト教の布教を禁止した。

 

 江戸時代になると禁止政策は徹底され、激しい弾圧さえ起こるようになった。そんな中、1618年、東庵という一人のキリスト教伝道師が川場村にやって来た。村での布教生活は12年に及んだという。村では、100体以上の石仏が確認されている。その中にはマリア観音と思われるものがあり、人目を忍んで信仰する「隠れキリシタン」と呼ばれた人々の存在が偲ばれる。

 

旧碓氷郡役所
▲供花の枯れたキリシタンの墓

 

 隠れキリシタンの墓が、川場村の門前地区に残っている。墓は道に面してあった。階段を上がり、墓に対面した。供花はすでに枯れていた。墓石はかなり古いもので、何が書かれているのかは分からなかった。墓の横にある木柱に「東庵2女おまの夫半三郎」とあった。

 

 隠れキリシタンの墓は、近くの吉祥寺にもある。吉祥寺は臨済宗建長寺派の寺院で、季節ごとに様々な花で彩られることで、地元では有名である。今はスズラン、水芭蕉が白い可憐な花を咲かせている。連休の真っ只中のせいか、参拝客(行楽客)が大勢おり、境内の花々の写真を撮っていた。私は本堂に入り、抹茶を頂いた。

 

箱館奉行所
▲吉祥寺の堂々たる山門

 

 境内の奥に入れて頂いて隠れキリシタンの墓を探した。墓苑のそばの階段を上った鳥居の脇に、それはあった。小さな墓石が10基ほどもあることから、かなりの人数が埋葬されているようだ。およそキリスト教とは関係のなさそうな「正統」な仏教寺院なのに、なぜキリシタンの墓があるのだろうか。昔はもちろん教会などないし、ましてや禁教の異教徒など受け入れる寺院などなかったであろう。それを憐れんだ当時のこの寺院の住職が、極秘に墓を作ったのだろうか。

 

−メモ−
●フランシスコ・ザビエル
1506年、スペインで貴族の子として生まれた。パリでイエズス会を作り、布教活動に入る。マラッカで日本人ヤジローに会い、日本行きを決意。1552年、マカオで死去。
●キリシタン大名
大伴宗麟、有馬晴信、大村純忠は、1582年、少年使節をローマに派遣した(天正遣欧使節)。
●東庵
足尾銅山の探鉱夫という名目で村に潜入。1630年、姿を消し消息不明になったと伝わる。
●吉祥寺
鎌倉建長寺を本山とする。1339年、建長寺42世、中巌円月禅師(ちゅうがんえんげつぜんじ)を開山とし、大伴氏時(うじとき)が創建。
【アクセス】JR上越線「沼田」駅前から、関越交通バス「吉祥寺入口」下車。北へ徒歩3分。
【住所(吉祥寺)】川場村門前860

 

周辺MAP(吉祥寺)

 

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