【橋本新聞販売株式会社】朝日新聞サービスアンカー
高崎東部店:〒370-0063 群馬県高崎市飯玉町42

上州をゆく・連載(バックナンバー)

上州をゆくTOPページ(バックナンバー一覧) > 上州をゆくバックナンバー85話〜(アーカイブ)

上州をゆく

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)です。

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)
【最新のお話】

◆上州をゆく◆第89話「人の心に悪魔が宿るとき」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 1923年9月1日、突如大地震が東京中心に南関東一帯を襲った。この関東大震災での死者・行方不明者は10万人以上、200万人が被災した。絶望の中にいる被災者達の間に、ある流言飛語がまことしやかに飛び交った。「朝鮮人が暴動を起こす」。マスコミも未発達な時代。人々は根拠のない朝鮮人への憎悪に支配されていった。

 

 1910年、日本は朝鮮を併合し支配した。多数の朝鮮人が労働者として日本に渡った。多くは鉱山、工場、土建などの肉体労働者となった。劣悪な労働環境の下、差別に苦しみ自由さえ奪われた人々もいた。―-混乱に乗じ、朝鮮人が日本人に復讐する――。憎悪の裏には恐怖があったのだ。

 

渓谷を力強く走る「わたらせ渓谷鉄道」
▲虐殺された人々の慰霊碑

 

 「朝鮮人が放火した」。デマで憎悪に火が付いた。虐殺が始まったのだ。人々は朝鮮人を殴り殺し、兵士は銃で撃った――凄惨な殺人が関東各地で起こった。流言は群馬にも飛び火した。藤岡では、警察署が砂利会社などから、朝鮮人の完全確保を依頼され、留置場で保護をしていた。それを聞きつけ、怒りを爆発させた人々は警察署へなだれ込み、17人の朝鮮人を日本刀や猟銃、鎌などで虐殺した。警察署を2千人の人々が取り囲んだという。

 

 藤岡の成道寺には犠牲者の慰霊碑がある。碑には犠牲者の氏名が刻まれていた。噂に踊らされることの恐ろしさに身震いする。私達は噂をそのまま信じていることはないだろうか。自分で確かめもせず、デマを受け入れていることはないだろうか。それで友人を傷つけているかも知れない。それは陰湿ないじめにも繋がる。

 

繁栄を伝える通洞坑は観光施設となった
▲朝鮮人慰霊碑のある成道寺

 

 虐殺に手を染めた人々は、ごく普通の市民である。テロリストの扇動でも、犯罪者集団が暴走したわけでもない。普段は真面目に働き、良識ある人々である。それが嘘に乗せられ殺人鬼と化した。情報網の発達した現代では起こりえないと言う人がいるとしたら、あまりにも楽観的すぎる。ネット社会の現代では、デマの拡散スピードは当時と比較にならない。情報操作も起こる。その恐怖を自覚している現代人は少ない。

 


−メモ−

●関東大震災
マグにチュード7・9。震源地は東京から西へ80キロ離れた相模湾の西北部。朝日新聞社も壊滅的打撃を受け、高崎支局が報道の中心を担った。

●朝鮮を併合
日露戦争中から朝鮮を保護国として支配し、併合後は総督府を置き植民地とした。

●成道寺
江戸随一の美人画絵師と詠われた幕末の絵師菊川英山の墓がある。晩年は藤岡に住んだ。

●慰霊碑
各地で殺された朝鮮人は、6千人とされる。同寺にある慰霊碑は、1924年建立、1957年、再建。慰霊祭も開催されている。


【アクセス】
JR八高線「群馬藤岡」下車。南へ徒歩10分。


【住所】
藤岡市藤岡396−1

周辺MAP(藤岡市)

 

他のお話しやニュースなどの情報もこちらからどうぞ!
★「上州をゆく」TOPページ兼バックナンバーページへ戻る★

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第88話「関東の華」前橋城の数奇な運命

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 県庁舎の展望台からの絶景は、中々の見応えである。赤城山は間近に感じられ、自宅からは遠くに小さく見えるだけの浅間山も大きく迫ってくる。県庁舎は地上33階、高さ153・8メートルで、東京都庁に次いで2番目に高い庁舎である。私の住むマンションからも望めるほどのノッポビルである。

 

 ここは元の前橋城。徳川家康が「関東の華」と呼んだ前橋城は、15世紀末に、固山宗賢(こざん・そうけん)が築城したと伝わる。当時は厩橋城と呼ばれていた。戦国時代は、長野氏、北条氏と城主は変わったが、家康が天下を統一すると、譜代の筆頭格・酒井重忠(しげただ)を入封させた。次の酒井忠世(ただよ)は、三層三階の天守閣を造るなど、近代城郭として整備した。

 

渓谷を力強く走る「わたらせ渓谷鉄道」
▲県庁から望む浅間山

 

 度重なる利根川の氾濫で、城下の人々は苦しみ、城も度々修築を余儀なくされていた。そのため1767年、ついに廃城となってしまった。幕末になると、日本は西欧列強からの脅威にさらされる。そのため、避難路として利根川を利用でき、生糸が生み出した豊富な資金提供も期待出来るとして、江戸城に次ぐ拠点にしようと、前橋城が再築された。1867年、新前橋城が完成。

 

 しかし喜びも束の間、翌年、時代は明治に。明治政府が各地の城郭の破壊を命じると、前橋城は真っ先に取り壊されてしまった。文字通り幻の城になってしまったのだ。県庁が置かれたのは、1876年。以後、本丸御殿、昭和庁舎、高層庁舎と建物は変わっても、ここは一貫して群馬県の中枢として歴史を刻む。

 

繁栄を伝える通洞坑は観光施設となった
▲わずかに残る前橋城土塁

 

 年末の県庁。新春のニューイヤー駅伝の準備に余念が無い。最上階の一角はテレビ中継の拠点になっていた。ガラス越しにそこを覗いてみた。テレビが何十台も置かれ、何人もの若いスタッフが機器と睨めっこしていた。張り詰めた緊張感がビンビン伝わって来る。見る者を圧倒する空間がそこにあった。庁舎を出ると、果敢に躍るぐんまちゃんが目に飛び込んで来た。群馬県の宣伝部長に就任し、大活躍である。

 


−メモ−

●前橋城
南北朝時代、長尾忠房が築いた石倉城がその前身とされる。利根川の氾濫で崩壊した城を、固山宗賢が新城に蘇らせた。酒井忠清が前橋城と改称した。

●固山宗賢
箕輪城を築いた長野氏の一族、長野宮内大輔の法号。詳細な生涯は不明。

●酒井重忠
徳川家康に仕え、姉川、長久手の戦いなどに出陣。関ヶ原の戦いで武勲を挙げ、「汝に関東の華をとらす」と、厩橋3万3千石を与えられた。

●酒井忠世
徳川秀忠に重用され老中として幕政の中枢にあった。家光の時代、江戸城の火事の責任を取らされ蟄居。老中を解任された。


【アクセス】
JR両毛線「前橋」下車。北西方面に徒歩30分。


【住所】
前橋市大手町1-1-1

周辺MAP(群馬県庁)

 

他のお話しやニュースなどの情報もこちらからどうぞ!
★「上州をゆく」TOPページ兼バックナンバーページへ戻る★

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第87話「渡良瀬渓谷に再び輝きを」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 銭形平次の投げ銭でお馴染みの寛永通宝。江戸時代、各地で作られていたが、足尾銅山で鋳造されたものは、裏に「足」の字が刻印され「足尾銭」と呼ばれた。1973年に閉山した足尾銅山は、日本の近代化へ大きく貢献した一方、公害の原点という影の歴史も背負っている。

 

 その発見については諸説あるが、16世紀の半ば頃には採掘が始まったとされる。徳川時代には、江戸城や日光東照宮、江戸・芝の増上寺などの銅瓦に利用され、さらに海外に輸出もされていた。明治になり、古河市兵衛が経営に乗り出すと、新鉱脈の発見もあり産出量は増大、日本の産業発展の原動力となった。

 

渓谷を力強く走る「わたらせ渓谷鉄道」
▲渓谷を力強く走る「わたらせ渓谷鉄道」

 

 鉱石運搬のため軌道馬車が利用されていたが、1912年には、足尾鉄道(桐生〜足尾)が開通した。後の国鉄足尾線である。銅山が閉山すると、輸送量の激減もあり存続の危機を迎えたが、1989年、第3セクター・わたらせ渓谷鉄道(わ鉄)として甦り、現在は桐生〜間藤間で運行している。

 

 「わ鉄」に乗り込むと、車掌がいたので驚いた。ローカル線は、今はワンマンカーが当たり前で、車内で切符を買うことなどないからである。行き先を告げると、ハガキより大きい紙の切符に穴を開けて手渡してくれた。切符には、目的地と料金欄に穴が開いている。こんなキップを見るのは何十年ぶりだろう。

 

繁栄を伝える通洞坑は観光施設となった
▲繁栄を伝える通洞坑は観光施設となった

 

 乗客のほとんどは観光客らしかった。地図やパンフレットを見ている人が大半だったからだ。車窓から見える渡良瀬川は、穏やかな流れだった。上流に行くと、白い大きな石が川面を埋め尽くしている所があり、その奇観に驚いた。アナウンスが流れ、列車も減速した。ゆっくりとその景色を堪能出来た。近年は、周辺の過疎化もあり、乗客数が低迷し経営環境は非常に厳しいそうだ。沿線には、明治館(桐生市)、旧花輪小(みどり市)など歴史遺産が豊富で、温泉もある。県民はもっと地元の良さに目を向けるべきではないか。「わ鉄」で地元の良さを満喫してもらいたい。

 


−メモ−

●寛永通宝
1636年から幕末まで使用された。鋳造所は江戸、近江坂本、水戸、仙台など各地にあった。

●足尾銅山
約400年間にわたって掘られた坑道は1234キロメートルで、東京から博多までの距離に匹敵する。明治時代の最盛期には、日本の銅生産量の4割を占めた。

●古河市兵衛
京都・岡崎出身。生糸の買い付けなどを行っていたが、足尾銅山を買収し、銅山経営で財をなした。古河財閥の祖。

●軌道馬車
18世紀頃、ヨーロッパの鉱山に出現した、軌道上に馬車を走らせる運搬形態。


【アクセス】
(群馬県側起点)桐生駅。


【住所】
(桐生駅)桐生市末広町11−1

周辺MAP(桐生駅)

 

他のお話しやニュースなどの情報もこちらからどうぞ!
★「上州をゆく」TOPページ兼バックナンバーページへ戻る★

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第86話「疲弊農民の最大の抵抗」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 埼玉や群馬、長野などの山間部は、耕作地が狭く稲作には適さず、傾斜地を利用して桑を植え養蚕を生業としていた。西欧との交易が始まると、生糸は日本の最大の輸出品となった。産地では増産のため、蚕の飼育法の改良、製糸工場の建設など農家による大規模な投資も行われた。

 

 1881年、松方正義大蔵卿による金融政策が、産地に大打撃を与えることになる。軍備拡大のための増税、緊縮財政で、深刻なデフレが日本を襲った。生糸の価格は大暴落。借金に苦しみ、土地や家財を失う養蚕農家が続出した。 困窮した農民達に影響を与えたのが、自由民権思想であった。

 

峠から群馬の山並みを望む
▲峠から群馬の山並みを望む

 

 自由党の党員を中心に結成された困民党に、農民達が続々と入党し、困民党の組織が埼玉・秩父などに作られていった。秩父の農民達は自由と権利を訴え、借金の返済延期などを求めて武装蜂起し、高利貸、警察、役場などを襲った。武力衝突は1884年10月31日夜から11月9日に及んだ。戦闘は秩父のみならず、近隣の郡、群馬の甘楽郡などに広がった。政府は軍隊まで動員し、鎮圧。埼玉での戦闘に敗れた困民党は十石峠を越え、長野・佐久方面へ逃走。佐久方面で再び戦闘が行われたが、困民党はここで壊滅、20人以上の死者を出した。事件後、死刑7名の他4000名近くが処罰された。

 

峠の県境。ここまでが群馬県
▲峠の県境。ここまでが群馬県

 

 十国峠を目指したが、国道は落石のため通行止め。曲がりくねった細い道の続く脇道を入り、車で1時間近くも上っただろうか。峠の県境には展望台があった。そこから群馬県側を展望すると、榛名、赤城の山並みがはるか遠くに見えた。

 

 農民達は、決死の覚悟でここを通ったのだろう。もちろん舗装道路ではない。手負いの人々も、歩いて険しい道を来たのである。勝ち目のない無謀な戦いを、何故農民達は起こしたのだろうか。それまでの封建制度の下で、人権を無視され抑圧されていた人々が人間性の解放に覚醒し、人間の尊厳を希求した戦いだったのだろうか。

 


−メモ−

●松方正義
薩摩(鹿児島)出身。日本銀行創設に尽力。2度首相に就任した。西南戦争を機にした財政の混乱を是正するための政策が、デフレを招いた(松方デフレ)。

●自由民権思想
人間は本来自由であり、平等に政治に参加する権利を持っているとする思想。イギリス、フランスの人権思想の影響が大きい。

●困民党
板垣退助らが結成した日本最初の政党・自由党の影響下で、負債の利子減免などを求め結成された。

●十石峠
長野県佐久穂町と上野村の間にある峠。国道299号の一部。昔、米の取れない上州に信州佐久平から、一日十石の米を運んでいたことからこの名がある。


【アクセス】
上野村中心部から、車で西へ約1時間。


【住所】
上野村楢原

周辺MAP(十石峠)

 

他のお話しやニュースなどの情報もこちらからどうぞ!
★「上州をゆく」TOPページ兼バックナンバーページへ戻る★

上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第85話「循環型社会の先駆者」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 平成の大合併で月夜野町はなくなった。「月夜野」というのは伝承によれば、平安の昔、京の歌人源順(みなもとの・したごう)が、この地を訪れた際、東の三峰山から昇る月を見て、「おおよき月よのかな」と感銘し、歌を詠んだことに由来すると言われている。1992年、この地で行われた土地改良と町道建設に伴う発掘調査により、縄文時代後晩期(3500年〜2300年前)の遺跡が発見された。

 

縄文の家はこんな感じだったのだろうか
▲縄文の家はこんな感じだったのだろうか

 

 矢瀬遺跡と命名されたこの遺跡は、人工の水場を中心に、祭壇石敷、巨大木柱群、墓地があり、それを囲むように住居群が配置されていた。コンパクトで、効率よく設計された集落だったと推定されている。これまでも幾つか縄文遺跡は見てきたが、どこの遺跡も高度な土木技術で、計画的に整然と建築物が配置されていた。我々の祖先は、合理的な生活空間を追求し、実際の都市建設に生かしていたらしい。誤った思い込みで、縄文人を原始人扱いすることは大きな錯誤なのである。

 

 日本人は、アジア大陸南方系と北方系の混血だと言われ、日本語は北方のアルタイ語系に属するが、音韻や単語は南方系の要素も多いとされる。大陸から渡ってきた祖先はその後も、きっと大陸との交渉は盛んで、先進文化の取得にも熱心だったに違いない。

 

遺跡には、石が模様を描くように敷かれていた
▲遺跡には、石が模様を描くように敷かれていた

 

 遺跡跡は今、親水公園として県民の憩いの場となっている。遊戯施設もあり、子供の歓声が聞こえる。駐車場には他県の車も多い。「駅の道」の農産物の直販所に、わざわざ買いに来ているらしい。「群馬県産」がそれだけ有名で信頼があるということなら、県民として誇らしい。

 

 復元された住居には、お父さんを中心に囲炉裏を囲んだ一家団欒が再現されている。魚の干物が吊るされ、燃料として木の枝が棚に積まれていた。もちろんこれは想像の姿である。しかし自然と調和した循環型社会を実現したのが、縄文時代なのである。自然を征服することに熱心な現代人には、大いに学ぶべき点があるのではないだろうか。

 


−メモ−

●月夜野町
1955年、古馬牧村と桃野村が合併し誕生。2005年、水上町、新治村と合併し、みなかみ町に。
●源順
平安時代中期の歌人で三十六歌仙の一人。確証はないが竹取物語の作者とする説も。
●矢瀬遺跡
巨木を使った建造物の跡が発見され、それまでの定説を覆し、日本海側が中心とされた巨木文化が、関東まで及んでいた証拠となった。
●アルタイ語系
東アジア、北アジア、中央アジア等で話されている言語。中央アジアのアルタイ山脈から命名。


【アクセス】
上越新幹線「上毛高原」駅下車。北西へ徒歩15分。


【住所】
みなかみ町月夜野2936

周辺MAP(みなかみ町)

 

他のお話しやニュースなどの情報もこちらからどうぞ!
★「上州をゆく」TOPページ兼バックナンバーページへ戻る★