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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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上州をゆく

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上州をゆくバックナンバー(アーカイブ)

◆上州をゆく◆第94話「お稲荷さんが守るお城の物語 ○館林城【館林市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 館林城は、15世紀頃に建てられたと伝わる。築城の経緯ついては文献も少なく、不明な点が多いが、次のような伝承が残る――赤井照光という武士が、子供に虐められていた狐を助けた。翌日に老狐が現れ、地面に尾を曳き、ここに城を建てろと示すと、城を守ると約束して消えた。照光はそのお告げに従い城を建て、鎮守社として鬼門の方向に尾曳稲荷神社を造った――。

 

 1471年、1562年、1585年、1590年と4回も戦(いくさ)に敗れ落城した。江戸時代、1661年、徳川綱吉が城主になり、城は大改修。石高は10万石から25万石へと大幅に増加した。館林は大いに繁栄したが、綱吉が征夷大将軍となり、幼くして館林城主となった息子徳松が5歳で病没すると、城は壊され館林藩は廃藩となった。

 

城の名残として、本丸土塁が残る
▲城の名残として、本丸土塁が残る

 

 1707年、松平清武が館林に入封。城再建のため地元農民に重税を課すと、撤廃を求め一揆が勃発。増税は減免されたが、3人の名主が斬首された(館林騒動)。時代は下り、明治となった1874年、城内から出火、館林城は、ほとんどが焼け落ちてしまった。館林城の歴史は悲劇の歴史なのである。

 

 現在は、復元された土橋門と土塁跡が、城の薫りを残している程度。城跡には市役所、文化会館、向井千秋記念子ども科学館などが建っている。そばにあるつつじが岡公園は館林の象徴。春になると鮮やかなアザレアピンクが公園を埋め尽くし、多数の観光客が訪れる。歴代藩主がつつじを大切にしてきた賜物である。城はなくなったが、つつじが往時の姿を留める。

 

館林の誇り、高校レスリングの碑
▲館林の誇り、高校レスリングの碑

 

 文化会館の近くに、高校レスリング選手権の第一回大会開催の碑があった。館林といえばレスリング。東京、メキシコと五輪を連覇した小幡(旧姓・上武)洋次郎を始め、多数の名選手が輩出し、日本のお家芸レスリングを支えている。小さな城下町の大きな誇りである。 2020年の東京オリンピックでも、館林で育った沢山のレスラーが活躍してくれることであろう。

 


−メモ−

●館林城
赤井氏の居城だったが、戦国時代、上杉、武田、北条が争奪戦を繰り広げた。1562年に落城すると、上杉謙信の配下に。その後、武田、北条の配下になったが、1590年、豊臣秀吉の関東出陣で落城した。

●赤井照光
赤井氏の出自については、藤原北家、清和源氏など諸説ある。照光は関東管領上杉氏の臣下だった。

●徳川綱吉
江戸幕府5代将軍。生類憐みの令を出した将軍。治世は元禄の頃で、幕藩体制が確立し、経済活動が活発になった。安定した社会の中で、歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵などが花開いた。

●松平清武
甲府藩主・徳川綱重の次男。6代将軍徳川家宣の弟。8代将軍の候補だったが、すでに越智松平家を継いでおり、本人にも野心がなかったと言われる。


『館林城址(館林市役所)』

【アクセス】
東武伊勢崎線「館林」下車。東へ徒歩40分。


【住所】
館林市城町1−1

周辺MAP

 

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◆上州をゆく◆第93話「古代日本を今に伝えた郷土の偉人 ○相川之賀【伊勢崎市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 日本では、埋蔵文化財の保護・保全についての認識は乏しく、昔から遺跡の破壊、盗掘が横行し、消えた遺跡は数知れない。その中には、国宝級の貴重なものも多数あったに違いない。1950年、やっと文化財保護法が成立したが、失われた過去を取り戻すことは出来ない。

 

 伊勢崎にある相川考古館には、国の重要文化財に指定されている4点の埴輪がある。前橋で発掘された「弾琴男子倚坐像」は教科書にも載っているほどなので、知っている人も多いことだろう。その他にも伊勢崎やその周辺を中心に、県内で出土した埴輪、玉類、刀などが収蔵されている。

 

江戸時代の脇本陣だった考古館
▲江戸時代の脇本陣だった考古館

 

 大正から昭和にかけて、これらを収集し現代に伝えた人物が相川之賀(しが)である。「東洋の日本でなく西洋の日本」にしたいと大志を抱き、1885年、単身渡米。東洋人蔑視の中で苦闘を重ねた。採薪、鮭漁などで頭角を現し、缶詰を日本に輸出するほどの成功を収めた。1914年、家督相続のため帰郷すると、伊勢崎郵便局長や同町会議員を務めた。また県の史跡や名勝、天然記念物の調査にも携わった。

 

 之賀は博物館を計画していたが、戦争で挫折。戦後、長女の徹子が「公共に役立てよ」という之賀の遺志を継ぎ、自宅に郷土館を開設した。相川家は、江戸時代に脇本陣を務めた旧家であったことから、土蔵などが残り、それを利用し収蔵庫としている。金物商をしていた相川家の歴史を辿れる史料や写真もあり、伊勢崎の歴史の一端を垣間見ることが出来る。

 

考古館にある県内最古の茶室
▲考古館にある県内最古の茶室

 

 相川之賀がいなければ、我々はここにある遠い過去の人々の息吹に触れることはなかった。展示されている「宝物」は、ガラクタとして壊されていたかも知れない。若き日、西洋に理想を見ていたであろう之賀であったが、長い歴史の中で培われた素晴らしい日本の文化を見直し、後世に伝えねばとの覚悟が芽生えたのだろうか。亡くなったのが文化財保護法の成立年であることに、不思議な因縁を感じた。

 


−メモ−

●文化財保護法
1949年、法隆寺金堂の火災で金堂壁画が焼損。それをきっかけに、文化財保護のため翌年成立した。

●相川考古館
江戸時代から続く町役人の住居だった。茶室(觴華庵=しょうかあん)は県内最古の茶室。

●相川之賀
東京英和学校(現・青山学院大学)を退学し、サンフランシスコへ。サラノ郡バレーオで学僕(スクールボーイ)になった。中国人放逐条例の恣意的運用により、当地を追放されたが、食堂の給仕から身を起こした。

●脇本陣
本陣が大名、幕吏、宮家などの貴人の休泊する所。脇本陣は、将軍が代わるごとに全国の治世状況を視察する巡見使の宿泊所。


『相川考古館』

【アクセス】
JR両毛線「伊勢崎」下車。南へ徒歩15分。


【住所】
伊勢崎市三光町6−10

周辺MAP

 

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◆上州をゆく◆第92話「生命の神秘を追求した人々 ○ハート形土偶【東吾妻町】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 終戦の年の1945年、道路工事中に、今の吾妻線・郷原駅そばから、それは偶然発見された。それは現在、東京・上野の国立博物館に展示されている。平成館の考古展示室に入るとすぐ目に入る、国の重要文化財「ハート形土偶」である。3千年〜4千年前に作られた縄文時代後期の土偶とされている。

 

 土偶とは、当時の人々の精神世界を反映した宗教的な存在と推察されている。大半は女性像であることから、生命の誕生や実りを祈る「地母神信仰」の神の偶像ではないかと言われる。いまだに何のために作られたのかは解明されていないが、抽象芸術としての評価は非常に高く、縄文人の精神の深さを表しているとされる。

 

ハート形土偶はここから出土した
▲ハート形土偶はここから出土した

 

 この土偶もハート形の顔に、丸い目と、鼻が載り、くびれた胴体と乳房という女性像である。腹部にへそがあり、足を広げ、大きな足で大地を踏みしめているように見える。これは女性の力強さを表現しているそうだ。健康な生命の誕生を祈る信仰遺物とされている。

 

 抽象化された女性の姿に引き込まれた。人の体をそのまま作ったものではない。奇形とも言えるが、余分な要素を削ぎ落としたデフォルメ(特徴を誇張)の手法で何を訴えているのだろうか。実に不思議な像である。少なくとも、私にはこんな発想はない。感嘆した岡本太郎はこう感想を述べたそうだ。「心身がひっくりかえるような発見をした(略)ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表情だ」

 

郷原駅にある土偶の説明版
▲郷原駅にある土偶の説明版

 

 発掘場所には、記念碑がある。発掘調査では、多くの住居跡・遺物が出土し、この辺りは縄文時代から平安時代にかけて、人々が暮らした集落だったことが判明した。背後にある岩櫃山からは、墓跡も発見されている。ここに暮らした人々も、大地こそが生命を支配すると考え、その神秘性、不思議さを女性になぞらえたのだろうか。人間に対する深い洞察が、この土偶には込められているのかも知れない。岡本太郎は、大阪万博のシンボル塔「太陽の塔」の構想を、縄文芸術から得たそうである。

 


−メモ−

●地母神信仰
大地の豊饒性、生命力を神格化したもの。父神的性格を持つ天上神に対するもの。大地を、万物を生み出す女神と崇める。

●岡本太郎
漫画家・岡本一平、小説家・岡本かの子の長男。1911年、神奈川県高津村(川崎市高津区)に生まれる。

●大阪万博
「人類の進歩と調和」をテーマに、77カ国が参加。東京五輪以来の国家プロジェクトで、大阪の大規模開発が進んだ。

●太陽の塔
未来を象徴する「黄金の顔」、現在を象徴する「太陽の顔」、過去を象徴する背面の「黒い顔」を持つ。過去、現在、未来を貫いて、生成する万物のエネルギーを象徴した。


『JR郷原駅(ハート形土偶記念碑)』

【アクセス】
JR吾妻線「郷原」下車。


【住所】
(郷原駅)東吾妻町郷原607

周辺MAP(郷原駅)

 

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◆上州をゆく◆第91話「古代群馬に存在した東国の大王 ○天神山古墳【太田市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 太田市にある「天神山古墳」は、東日本最大の前方後円墳で、全国的に見ても30傑に入る大きさである。古代群馬には、このような巨大な古墳を造営出来る権力者がいたのである。日本書紀には、崇神(すじん)天皇や景行(けいこう)天皇が上毛野(かみつけぬ)氏の祖先に東日本の支配権を与えたとあるそうで、強大な権力が存在していたことは確かなようだ。

 

 日本の統一過程は、日本史の大きな謎である。大和朝廷の支配が拡大する過程では、地方豪族との大きな軋轢もあった。吉備、筑紫、武蔵などでは反乱があり、特に筑紫・磐井の反乱は大規模で、新羅と組んで朝廷と戦ったというから、これは内乱ではなく戦争である。日本の形成期には、多くの血が流されたのかも知れない。

 

東国の大王が眠る天神山古墳
▲東国の大王が眠る天神山古墳

 

 古代の群馬、栃木南部は毛の国と呼ばれていた。毛の国も6世紀始め、安閑(あんかん)天皇の頃、大和朝廷に抵抗したそうである。毛とは野蛮な国という意味があるそうだが、それは朝廷側から見たもの。穀物が豊かに実るという「御食(みけ)」にも通じる。当時の毛の国が非常に進んだ文化を有していたことは、県内各地の古墳からの数々の出土品で確認されている。海外との交流も活発だったらしい。

 

 太田駅から県道を東へ歩いて行くと、木々が生い茂ったこんもりした小山が見えてくる。碑があるので古墳だと分かるが、地上からは中々実感を持って見ることは出来ない。水を満々と湛えていたであろう堀は、埋まってしまい湿地のようになっていた。そこを囲むように住宅が立っている。さらに一部は削られ、道路になっている。天皇のものとされない限り、管理はぞんざいになるのだろう。

 

地上からでは古墳と認識できない
▲地上からでは古墳と認識できない

 

 県道を挟んだ向かい側にも古墳がある。「女体山古墳」という。上から見ると帆立貝のような形で、天神山古墳より古いそうである。二つの古墳は、何らかの関係があるのだろうと推定されている。しかし盗掘によって埋葬品はほとんど残っておらず、解明する手がかりは皆無に近い。誰が埋葬され、どんなドラマが隠されているのだろう。想像するしかないのが残念でならない。

 


−メモ−

●天神山古墳
墳丘の長さ約210メートル。5世紀中葉の造営とされる。近畿地方を除くと、3位の規模である。

●崇神天皇や景行天皇
(崇神天皇)10代天皇。3世紀から4世紀初めにかけて在位。実在が確実視される最初の天皇。 (景行天皇)12代天皇。子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に、九州や東北を平定させたと伝わる。

●上毛野氏
日本書紀には、現在の群馬県地域の豪族・上毛野氏が、朝鮮半島との外交・軍事にしばしば関わっていたという伝承が記述されている。独自の外交ルートを持った強大な豪族が、群馬にいた可能性が指摘されている。

●筑紫・磐井の反乱
朝鮮半島の利権を巡る主導権争いからの反乱か。


『天神山古墳』

【アクセス】
東武伊勢崎線「太田」下車。東へ徒歩20分。


【住所】
太田市内ヶ島町1606−1ほか

周辺MAP(天神山古墳)

 

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◆上州をゆく◆第90話「群馬発展の礎を築いた松陰の盟友」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 松下村塾は、長州・萩にあったちっぽけな私塾であった。しかしそこから、明治維新を成し遂げた偉人たちがキラ星の如く輩出した。その主催者吉田松陰の親友であり、松陰の死後は、松陰に代わり塾生の指導に当たっていた人物が、群馬県ゆかりの人物であることをご存知だろうか。

 

 県庁北の高浜公園に、初代群馬県令(知事)楫取素彦(かとり・もとひこ)の功徳碑がある。当時の群馬県は、大前田栄五郎、国定忠治に代表されるように、博打好きで任侠肌、気性が荒く治めにくい県民性とされた。しかし楫取は、優れた行政手腕で、次々と今日に繋がる群馬県発展の基礎を築いた。

 

初代知事・楫取素彦の顕彰碑
▲初代知事・楫取素彦の顕彰碑

 

 前橋や富岡に製糸場が出来ると、県内養蚕業の振興に尽力すると共に、生糸を外国人の手を経ず直接貿易出来るようにし、輸出量を飛躍的に伸ばした。教育の普及を重視し、家庭訪問に力を入れ就学を説得するなど、教育県群馬の礎を作った。整備した古墳群、存続に尽くした富岡製糸場などは、今では貴重な県遺産である。さらに廃娼運動に理解を示し、全国で最初の廃娼県になる道を拓いた――など功績は多岐に亘った。

 

 その行動の底流にあったのは、人間への優しさではなかったのだろうか。明治維新という時代の変わり目に翻弄される市井の人々に、目を向けていたのかも知れない。高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など幕末、明治を彩った他の長州人に比べ知名度は圧倒的に低い。しかし本県にとっては大恩ある先駆者である。

 

東京都庁に次いで高い県庁舎
▲東京都庁に次いで高い県庁舎

 

 先妻・寿子、後妻・文(ふみ)共に吉田松陰の妹である。いかに松陰の信頼が厚かったかを物語っている。松陰を支え、明治維新の陰の立役者とも言える偉人であった。高崎にあった県庁を、前橋に移転したのは楫取である。裁判沙汰になるほどしこりを残したが、交通の要所として発展を続ける現在の高崎の姿には、喜んでいるのではないだろうか。本県での任務を終え、元老院議官に転任する際には、数千人の県民が沿道を埋め尽くし、別れを惜しんだという。

 


−メモ−

●松下村塾
1842年、吉田松陰の叔父玉木文之進が自邸で開設。1856年から松陰が運営した。

●吉田松陰
1854年、ペリー再来日の際、密航を企てるが失敗。松下村塾で、維新の立役者を数多く育てた。幕府の政策を批判し処刑された。

●楫取素彦
本名・小田村伊之助。幕末は長州藩の中枢として活躍。薩長同盟の実現にも重責を担った。維新後は、熊谷県、群馬県の県令、元老院議官、貴族院議員などを務めた。

●後妻・文
後、美和子。高杉晋作と共に村塾の双璧と言われた久坂玄瑞の妻だったが、玄瑞の死後、妻を亡くした楫取と再婚。2015年のNHK大河ドラマの主人公。


【アクセス】
(高浜公園)JR両毛線「前橋」下車。北西方面へ徒歩30分。


【住所】
(高浜公園)前橋市大手町1丁目

周辺MAP(高浜公園)

 

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