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上州をゆく・連載(バックナンバー)

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上州をゆく

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◆上州をゆく◆第99話「関所破りに「情けの道」

              ○大笹関所跡、抜け道の碑【嬬恋村】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 嬬恋村にあった大笹関所は、1662年に、沼田藩主真田伊賀守が開設した。沼田―吾妻―上田、高崎―仁礼―善光寺を結ぶ仁礼(大笹)街道を往来する荷物や人を管理した。関東と信州を結ぶ重要な街道ゆえ、取り調べは厳しかったようだ。関所の通過には、代官や名主の発行する「関所手形」が必要であった。手形を持たず関所を避け「間道」を通る者は、「関所破り」として、磔などの重罪に処せられた。

 

   揚(あ)げひばり

        見聞(みきき)てここに 休(やすま)ふて

                            右を仏の道としるべし

                                                    正道

 

 関所跡から南へ400メートルほどの所に、「抜け道の碑」が建っている。この碑は1852年、大笹宿の俳人佐藤正道によって建立された。時代が下ると、幕府の衰退と共に取り調べも緩やかになり、この碑が抜け道への道しるべとなった。「仏の道」とは善光寺への道であるが、無許可通行を助ける仏の慈悲のようにも読める。

 

特に女性の取り締まりが厳しかった
▲特に女性の取り締まりが厳しかった

 

 抜け道は大笹宿から南へ行き、浅間山麓を迂回する険しい道であった。江戸時代は「入鉄炮に出女」と言われるほど女性の通行には厳しかったので、多くの女性は関所を避け、抜け道を通ったことから「女道」とも呼ばれた。

 

 大笹街道は中山道や北国街道の脇往還であったが、近道になるので人や荷物の往来は本街道を凌ぐほどであった。しかし冬期は雪深く悪天候も多かったため、しばしば通行止めになった。それでも無理に通行する人がいたのであろう。仁礼峠には、命を落とした人々を供養する塔や多数の石仏がある。

 

関所を避けた人々のドラマがあった
▲関所を避けた人々のドラマがあった

 

 碑の傍に、「行人塚について」という説明版があった。それによると、大坂夏の陣の頃、真田幸村の第二夫人が上田城へ向かう途中、橋から滑り落ち水死し、この地に埋葬されたとある。後世に忘れられないように、佐藤五兵衛氏が松を植えたそうだ。他にも無名の人々が織りなした、埋もれた様々なドラマがあったことだろう。どんなドラマだったのだろう。触れてみたかったと思う。

 

 


−メモ−

●大笹関所
明治の廃関まで、約200年に亘って通行人を取り締まった。大笹宿の西端鹿之籠川(ししのろうがわ)の崖に臨んだ位置にあった。

●真田伊賀守
真田信利。領民から重税を取り立て、幕命によって風水害で破損した両国橋を修築する際にも領民に強制労役を課した。苛政を直訴した義人杉木茂左衛門を磔にした(上毛かるたに「天下の義人茂左衛門」)。

●善光寺
伝承によれば、飛鳥時代、百済の聖明王から献上された阿弥陀如来が悪疫流行で、反仏教派の物部氏によって難波の堀江に捨てられた。信濃の本田善光がそこを通ると、如来が負ぶさった。本田善光は家まで背負い、如来堂を建てた。善光寺は本田善光に由来。

●入鉄炮に出女
幕府は諸大名のクーデターを警戒し、武器の江戸流入を取り締まった。同時に、人質の大名の妻女が江戸から逃亡するのを監視した。


『大笹関所跡』

【アクセス】
JR吾妻線「大前」駅下車。南西に徒歩1時間。


【住所】
嬬恋村大笹

 

【周辺マップ】

 

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◆上州をゆく◆第98話「「雪山賛歌」と南極観測犬 ○鹿沢温泉【嬬恋村】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 2013年に撤去されてしまったが、東京タワーの足元に、南極観測で活躍した樺太犬の記念像があった。タロとジロの話は感動物語として有名になったが、残りの犬は命を繋ぐことは出来なかった。記念像は、犠牲となった犬達の慰霊碑でもあったのだが・・・。歴史を語り継ぐためにも残してほしかったが、撤去は残念至極である。

 

 日本の南極観測の開始は1957年。第一次越冬隊には、樺太犬もソリ要員として参加した。越冬隊長は西堀栄三郎であった。第2次越冬隊との交代は困難を極めた。分厚い氷と悪天候に阻まれ、観測船「宗谷」は立ち往生。隊員は小型機で帰還したが、天候は回復せず2次観測を断念。基地に残った犬達は置き去りになった。西堀隊長にとっても苦渋の選択だったに違いない。

 

タワーの下にあった観測犬の像
▲タワーの下にあった観測犬の像

 

    雪よ岩よ われらがやどり    おれたちゃ町には 住めないからに・・・ 

 

 西堀栄三郎は、「雪山賛歌」の作詞者としても知られる。京都大学山岳部時代の合宿で、悪天候のため嬬恋の鹿沢温泉の宿にこもっていた時、退屈しのぎに仲間達と作ったそうである。原曲が「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」なのは、英語の授業で外国人教師にこの歌を習い、ラッセルをする時、よく歌っていたかららしい。

 

 鹿沢温泉は1000メートルを越える高地で、季節の動きが平地とかなり違う。短い夏が終わると、秋は駆け足で通り過ぎてしまう。9月半ばでも半袖では寒い。1枚余計に着ておかないと、風邪をひいてしまいそうだ。連日テレビなどで、北関東の異常な暑さを報道していたのに、ここはまるで別世界。厳しい環境で育った野菜や川魚は美味である。

 

鹿沢温泉にある雪山賛歌の碑
▲鹿沢温泉にある雪山賛歌の碑

 

 「ヒップのクマ」「ベック」「ポチ」・・・南極観測に参加したのは、北海道での厳しい訓練に耐えた22匹の精鋭。しかし病死や不明犬も出た。そして13匹は、遠い故郷を思いながら死んでいった。英雄「タロ」「ジロ」と共に、彼らも日本人の心に刻まれるべきであろう。

 

 


−メモ−

●樺太犬
樺太、千島列島で飼育されていた。北海道では、木材運搬、行商などの使役犬として使われた。車社会になると、用途が無くなり、雑種化、エキノコックスなどでほぼ絶滅した。

●西堀栄三郎
京都市生まれ。民間会社勤務を経て、京都大学教授。日本隊のマナスル登頂の際には、ネパール政府との交渉役を務めた。

●鹿沢温泉
650年には発見され、16世紀には入湯施設があったとされる。1918年の火事で、大半の旅館が移転し新鹿沢温泉を形成。西堀らが泊まった旅館は鹿沢温泉に残っている。

●雪山賛歌
1926年、後の京大カラコルム遠征隊長四出井綱彦、アフガニスタン遠征隊酒戸弥次郎らと作った。作者不詳で歌われていたが、作詞の様子を知った京大教授桑原武夫が、西堀の作詞として著作権登録した。歌詞の「・・・からに」は京都言葉。


『鹿沢温泉』

【アクセス】
JR吾妻線「万座・鹿沢口」下車。南西へ車で30分。


【住所】
嬬恋村田代

周辺MAP

 

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◆上州をゆく◆第97話「繰り返すまい――人類の過ち ○重監房資料館【草津町】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 かつてハンセン病は、不治の病、業病とされた。患者は忌み嫌われ、言われなき差別、仕打ちにさらされた。1907年、癩予防法成立(1953年に改正され、らい予防法)。国家の隔離政策の下、牢獄のような施設に入れられ、罪人同様の扱いを受けた。いや罪人なら、刑期を終えれば出獄出来る。患者は、一生そこに閉じ込められたままなのである。断種や堕胎手術が平然と行われ、死去すると葬儀もなく、遺体は谷底に投げ捨てられることさえあった。

 

 「肩から真っ白な血の気のない腕が、必死になって外をまさくり続けているのである」「やせて、汗かいて、病んで、尿やふんをたれ流し、それがふとんにしみ通り、凍ったふとんに寝てる」・・・重監房資料館には、そこに収監された患者の実態を物語った展示文がある。読むに堪えない悲惨な様子が書かれていた。まさに拷問である。

 

忘れてはならない過ちを伝える資料館
▲忘れてはならない過ちを伝える資料館

 

 重監房とは、草津にあった「反抗的」とされた患者を懲罰目的で監禁するための施設である。監禁患者の選別は恣意的で、例えば患者の待遇改善を訴えただけで、「反抗的」と送還される場合もあった。実体は患者を隷属させるため、合法的な人権弾圧に利用された「監獄」であった。

 

 再現された独房は、電燈もなく小さな窓が一つあるだけ。板敷の部屋に、薄い布団しかなかった。食事は一日2回。朝は、具のない薄い味噌汁、おにぎり一個分の麦飯と梅干一個。夜は、麦飯に沢庵3切れ白湯一杯であったという。暖房も無く、冬は寒さに凍えた。収監者は延べ93人、死者23人に上った。

 

草津の湯は皮膚病に効くと患者が集まった
▲草津の湯は皮膚病に効くと患者が集まった

 

 1996年、らい予防法廃止。2001年の熊本地裁判決では、国家政策の誤りが断罪された。患者はやっと人間に戻った。偏見と差別の中で闘い、人間としての尊厳を自らの手で勝ち取った。しかし勝利を勝ち取るまで、あまりにも長い年月を要してしまった。差別意識の根深さを物語っている。高齢になった元患者の方々に代わり、過ちを繰り返すことのないよう語り継いでいくことを、我々の使命としなければならない。

 

 


−メモ−

●ハンセン病
「らい菌」に感染することで起こり、皮疹と知覚麻痺がある。1873年、ノルウェーの医師ハンセンがらい菌を発見し、治療の道が大きく開けた。現在では薬で完治する。病名は、ハンセン氏に由来する。

●癩予防法
1907年制定。当初、法律名はなかったが、1931年、癩予防法と記載された。

●重監房資料館
1938年〜1947年まで存在した患者の懲罰施設を後世に残すために造られた。施設は「特別病室」という名称だったが、治療はなく各療養所にあった監房より重い罰を課したことから重監房と呼ばれた。

●熊本地裁判決
1998年に、ハンセン病施設入所者たちが国の政策の誤りを訴えた裁判の判決。患者側の全面勝訴の判決。しかしその後も、熊本県で、患者の宿泊を拒否するホテルがあるなど、差別はなくなっていない。


『重監房資料館』

【アクセス】
草津中心街から東へ徒歩30分。


【住所】
草津町草津白根464−1533

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◆上州をゆく◆第96話「「草津節」に秘められた物語 ○平井晩村【草津町】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

                    草津よいとこ 一度はおいで・・・

 

 草津節の原型となった詩を作った平井晩村は、1884年、前橋市本町の酒造業の次男に生まれた。旧制前橋中学(現・前橋高校)在学中、校長排斥のストライキに加わったかどで退学になったが、その後早稲田大学を出て報知新聞の記者になった。執筆活動には意欲的で、同僚の野村胡堂が賞賛したという。

 

 妻を亡くし、幼子3人を抱えて前橋へ戻った。心の傷を癒すため草津温泉へ出かけた際、湯揉みの拍子に合うような歌を作ってみようと、扇に筆を走らせた。

 

                    草津よいとこ 白根の雪に

                      暑さ知らずの 風が吹く

                    草津よいとこ 里への土産

                      袖に湯花の 香が残る

 

平井晩村の歌碑が温泉街にある
▲平井晩村の歌碑が温泉街にある

 

 湯揉みをする客が調子をつける歌は、軍歌、民謡と様々だったそうである。大正時代、芸妓が客の歌う節回しを元に、三味線に載せてお座敷唄に仕立て上げた。これが草津節の節回しの原型らしい。それに晩村の詩が載り、いつしか草津節が形成されたのだろう。はやしも「チョコチョイ」だったが、「チョイナチョイナ」に変化し、それが定着した。

 

 呑気な感じだが、愉快でもあり優しさもあり、癒しに来た湯治客を迎えるのにピッタリの唄である。「チョイナチョイナ」で体がほぐれ、浮世から解放されるようだ。草津温泉の人気の秘密は、湯のよさはもちろんだが、こんなところにもあるのではないかと思う。

 

湯畑では勢いよく源泉が流れる
▲湯畑では勢いよく源泉が流れる

 

 平井晩村は結核で苦しみながら、子供を育てるために執筆に没頭した。「少年倶楽部」「日本少年」などにジュニア小説を書き、詩集も残した。前橋こども公園に歌碑がある。

 

                    母無くも 父はありけり 父死なば

                      誰たよるらん 撫子の花

                    やがて死ぬ父とも知らで 日記つけて

                      褒められに来る 兄よ弟よ

 

 幼子を残し、36歳で死去。前橋高校校歌の作詞は、平井晩村である。

 

 


−メモ−

●平井晩村
本名・駒次郎。幼少期に父を亡くしている。民謡詩人としても知られ、俳句、民謡の雑誌「ハクヘイ」を創刊した。

●報知新聞
1872年、郵便報知新聞として発足。1894年、報知新聞に。日本の女性記者第一号の羽仁(旧姓・松岡)もと子が在籍。1942年、読売新聞に吸収された。

●野村胡堂
岩手県彦部村(現・紫波町)出身。東大を中退し、報知新聞に入社。社会部長、学芸部長を歴任。「銭形平次捕物控」の作者。

●草津温泉
開湯伝承は様々ある。源頼朝が開いたとも伝わるが、信仰の山・白根山の麓、草津には修験者が集っていたことから、修験者が発見したのではないかとみられる。


『草津温泉(バスターミナル)』

【アクセス】
JR吾妻線「長野原草津口」駅下車。

JRバスで北へ25分。


【住所】
草津町草津28

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◆上州をゆく◆第95話「大文豪を支えた故郷の城下町 ○田山花袋【館林市】」

文章・写真:国定 忠治(ペンネーム)

 

 「冬は赤城おろしが吹荒(ふきすさ)んで日光連山の晴雪が寒く街頭に光って見えた」(「幼き頃のスケッチ」から)。田山花袋が幼い頃の館林は、明治維新という激流に呑み込まれ、武士階級が没落・離散し、城下町の活気は失われていた。5歳で父を亡くした花袋もまた、赤城おろしが身に沁みる貧しい少年時代であった。

 

 兄の就職を機に、14歳の時、一家で上京。東京には、「成功」を夢見た若者が続々と集っていた。その熱気の中で、幼い頃から漢詩に親しんだ早熟な少年に、ある決意が芽生えた。「今に、今に、俺だって豪(えら)くなる・・・豪くなる」「日本文壇の権威になってみせる・・・」(「東京の三十年」から)。19歳で小説「瓜畑」を発表。
柳田国男、国木田独歩、島崎藤村らに出会い、強い影響を受けた。

 

館林が生んだ大文豪・田山花袋像
▲館林が生んだ大文豪・田山花袋像

 

 27歳で雑誌記者になった。日露戦争に従軍し、戦争の残酷さを目の当たりにした。1907年、代表作「蒲団」を発表。人間の真実をありのままに表現した、自然主義文学の金字塔と讃えられた。しかし本人は駄作と思っていたのか、大評判に戸惑っていたという。女弟子への密かな思いを告白したもので、バツが悪かったそうである。

 

 花袋は旅を好んだ。「旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった。百姓、土方、樵夫(きこり)、老婆、少女そういうものはすべて私の師となり友となった」(「東京の三十年」から)。誠実に生きる無名の人々に触れ、人間への洞察力を磨いた。旅で出会う美しい風景は、日常の苦しみから花袋を解放した。作家は、旅により生き返った。

 

幼少の頃、花袋はここで暮らした
▲幼少の頃、花袋はここで暮らした

 

 文明開化の波は、館林へも及んだ。鉄道が開通し、製粉会社、紡績会社が出来た。街は活気に溢れ、料理屋や映画館が出来、かつての賑わいを取り戻していった。花袋は故郷の発展を喜びつつも、幼い頃の情景が消えていくことに複雑な心境であったという。晩年は、故郷を詠った漢詩を多く残した。文豪・田山花袋の原点を忘れまいとするように。

 

 


−メモ−

●田山花袋
本名・田山録弥(ろくや)。館林藩の儒学者だった吉田陋軒(ろうけん)に漢学を学ぶ。上京後、尾崎紅葉を訪ね、小説家を志した。代表作に「蒲団」「田舎教師」など。晩年は、「源義朝」などの歴史小説にも取り組んだ。

●5歳で父を亡くした
父の元館林藩士・田山ワ十郎は、維新後、警視庁巡査に。西南戦争で戦死。一家は館林に戻った。

●雑誌記者
博文館に入社し、32歳で、日露戦争に半年間従軍。40歳まで在社した。

●鉄道が開通
東武鉄道は、機織業の盛んな両毛地域と東京を結び、沿線の産業開発、利便性向上に貢献した。1907年、利根川橋梁完成。館林を経由し足利まで繋がった。


『田山花袋記念文学館』

【アクセス】
東武伊勢崎線「館林」下車。東へ徒歩30分。


【住所】
館林市城町1−3

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