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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り
【最新のお話】

◆古都巡り◆第44話「●忘れ難き「カレーうどん」の味 〇南禅寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 南禅寺を訪れるとまず目に入るのが堂々たる三門の威容である。知恩院、東本願寺の門と並ぶ京都三大門の一つだそうである。ただ大きいだけではない。歩いてこちらが近づいているのに、向こうから迫ってくるような迫力がある。巨大な門に呑み込まれるような錯覚を覚えた。

 

 石川五右衛門が南禅寺三門の楼上の欄干に足をかけ、「絶景かな、絶景かな」と見えを切る場面は歌舞伎でお馴染み。実際にどのような風景が見えるのかと楼上に上った。急な階段を慎重に上り切ると、「おお!良い眺め」。まさに絶景。楼上から眼下に広がるパノラマに感激。木々の緑の遥か向こうに京の町の広がりが見えた。京都盆地を周囲の山々が囲い、まるで守り神に抱かれているようである。

 


▲石川五右衛門も上った三門

 

 江戸時代、南禅寺の住持・以心崇伝(金地院崇伝)は徳川家康に取り立てられ、幕政に関与した。武家諸法度、寺社諸法度制定などにも関わった。また豊臣滅亡の契機となった方広寺鐘銘事件を画策したのも崇伝であった。こうしたことから南禅寺は家康の上方支配の拠点となり、大いに繁栄を謳歌した。「武家づら」と言われた所以である。

 


▲三門から京都の街を望む

 

 お昼が近づき、楽しみにしていたカレーうどんを食べに行くことにした。京都まで来て何もカレーうどんを食べなくともと言う向きもあろうが、それは意外な名物として知る人ぞ知る存在なのだそうだ。京都通の芸能人も訪れるという情報を得たので行くのだが、何かミーハーな感じで少し抵抗もあった。しかしどんなものか興味も湧いた。

 

 開店時間には早かったが、もう何人か並んでいた。開店前に注文を取りに来たので、さっそくカレーうどんを頼んだ。開店すると、近くの学校の生徒が結構入ってきた。学生食堂の一面もあるらしい。こってりしたカレーうどんが来た。いい匂いが漂い、いかにも美味そう。汁のまろやかな辛さが何とも言えない。うどんも旨い。大満足の「お昼」である。ご馳走に舌鼓を打つのも旅の楽しみだが、そこに根付いた隠れた名物を堪能するのもまた楽しい。

 

【メモ】

●南禅寺
1291年、開山。この地の離宮で、悪夢に悩まされた亀山法皇が無関禅師(大明国師)に祈ってもらうと解決したため、開山に迎えたと伝わる。

 

●三門
伊勢伊賀の領主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した藩士の霊を弔うために建立寄進。

 

●石川五右衛門
実在したかは不明。見えを切るのは、歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」。

 

●以心崇伝(金地院崇伝)
再建された方広寺の釣鐘の銘「国家安康」を問題視。豊臣秀頼を攻める口実に利用した。

 

【アクセス】

地下鉄東西線「蹴上」下車。北東方面へ徒歩10分。

【住所】

京都市左京区南禅寺福地町

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第43話「●偉大な先人達の成し遂げた金字塔 〇水路閣」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 南禅寺境内にある赤レンガのアーチ型橋脚の「橋」は「水路閣」という。レンガは月日を重ね変色もあるが、重厚さを増している。これは琵琶湖疏水の一部で、今も上を琵琶湖からの清流が流れている。南禅寺の静寂な雰囲気に溶け込み、木造建築の多い境内の中で何の違和感もない。

 


▲重厚さを漂わす水路閣

 

 明治2年、東京に遷都すると京都の衰退が始まった。沈滞するかつての「都」に京都の人々は誰もが悲しんでいた。京都復活をかけて計画されたのが疎水事業である。当時の京都府知事・北垣国道(くにみち)は産業振興の起爆剤として、琵琶湖の水を京都に引くという壮大な計画を立てた。その大事業の主任技師に抜擢されたのが、若干21歳の無名技師・田辺朔郎(さくろう)であった。

 

 東京生まれの田辺朔郎は、工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりであった。しかし北垣知事はその論文の緻密さや真摯な態度に、高い才能と情熱を見て白羽の矢を立てたのだった。若者が大いに戸惑ったであろうことは想像に難くない。しかし彼はノートに恩師ヘンリー・ダイアーの言葉を綴った。「どれだけ頑張ってきたかではなく、これからどれだけのことをやれるか、それが大切である」

 

 全て日本人の手で行われた初の大事業であった。日本にはまだ貧弱な機器しかなく、しかも夜に技術勉強をし、昼に工事で実践するという、まさに綱渡りの工事を続けた。その上一期工事だけで、当時の土木の国家予算を上回ってしまう途方もない事業である。

 


▲華麗な姿の琵琶湖疏水記念館噴水

 

 着工から9年の歳月を要し、1894年、伏見までの総延長約20キロの疎水は完成した。どんな苦労、困難があったかは記録や文献などから想像するしかないが、それらを乗り越えた当時の人々の筆舌に尽くせぬ苦闘には、ただただ感動するばかりである。京都に観光に行き、水を飲んだり手を洗ったり、当たり前のように行っているが、偉大な先人達のお陰であるということを後世の人々は絶対に忘れてはならない。見慣れているはずの水路閣が、太陽の光を受けてやけに眩しく輝いていた。

 

【メモ】

●水路閣
田辺朔郎の設計で、1888年に完成。当初は景観を損ねると批判もあったが、現在では京都名所の一つ。

 

●北垣国道
但馬(兵庫県)生まれ。戊辰戦争では北越戦争に参戦。北海道庁長官も務めた。

 

●田辺朔郎
東大や京大の教授として活躍した。北海道庁長官になっていた北垣国道に請われ、北海道の鉄道敷設も主導した。

 

●ヘンリー・ダイアー
工部大学校の教頭を務めた。夜学で勉強し、英国の名門グラスゴー大学に入学してエンジニアとなった。

 

【アクセス】

地下鉄東西線「蹴上」下車。北東方面へ徒歩10分。

【住所】

京都市左京区南禅寺福地町

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第42話●大きなとうがらしは庶民の味 〇綜芸種智院跡

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都駅の八条口(南側)を歩いていると、小さな定食屋が見えたので入ってみた。惣菜が冷蔵型ショーケースに入っており、そこから食べたいものを選ぶ。卵焼き、肉じゃが、サラダ、幾つかの惣菜にライス、味噌汁を付けた。結構な品数だと思うが、なんと全部で500円。おかみさん曰く。「単身赴任のサラリーマンがよく来るんです」。そのための配慮かとも思ったが、それにしても安すぎる!

 

 惣菜の中に見たこともない大型のシシトウがあった。これは何かと尋ねると、「万願寺とうがらし」だという。大きくて肉厚だが、辛みがなく柔らかく食べやすい。後でネットで調べてみると、京都・舞鶴の万願寺地域で作られているとあった。大正末期、伏見とうがらしと大型の外国系とうがらしの交雑種として誕生したそうだ。今では京を代表する野菜の一つとなっている。

 


▲綜芸種智院跡の周辺

 

 店のおかみさんに旅行で来たと言うと、近くに弘法大師(空海)が作った学校跡があると教えてもらった。「お!これは耳寄りな情報」と、早速訪ねてみた。西福寺という寺の前に駒札があるだけだったが、ここに空海の建てた学校、綜芸種智院があったそうである。周囲の古風な建物に溶け込み、注意して探さないと分からない。

 


▲綜芸種智院跡に立つ寺院

 

 当時の大学、国学(国立の学校)は、身分制度により、一般民衆には門戸が閉ざされていた。それを憂えた空海が、庶民の教育のために設置したのが同院である。貧富の差に関係なく学ぶことが出来、当時としては極めて先進的な学校であった。しかし空海の死後、財政難、後継者難など継続が困難になり廃絶した。

 

 「さっと焼いて花かつおと醤油をかけるのがお手軽」「素揚げをして塩で食べるのも素材の持ち味が良く引き出せる」(京都府庁生協のサイトから)。万願寺とうがらしはビールのつまみに最適な様だ。「たまに宝くじ程度の確率で辛いものがあり、これを『あたり』と呼ぶ」(同)。もし当たったら幸福を呼び込めるかも知れない。

 

【メモ】

●万願寺とうがらし
長さは20センチほどもある。自家用として栽培されていたが、近年注目されている。

 

●空海
平安初期の高僧。長安の青竜寺で恵果(けいか)に学び、帰国後、高野山金剛峰寺を開く。

 

●綜芸種智院
藤原三守(ただもり)が邸宅を寄付。「綜芸」はあらゆる学問、「種智」は仏の智の意味。828年創設。

 

●大学、国学
貴族や有力者の子弟しか入学出来ず、官吏養成の性格が強かった。主に儒教を教えた。

 

【アクセス】

京都駅から西へ徒歩15分。

【住所】

京都市南区西九条池ノ内町

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第41話●臣籍降下は皇室のリストラ策? 〇六孫王神社

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 平安から鎌倉にかけて、歴史の大きな変革期に眩い閃光を放った源氏と平氏。元をたどれば双方とも天皇の子孫である。例えば源氏は、ルーツとなった天皇を冠し嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏、清和源氏などがある。多くは貴族の道を選んだが、清和源氏は武士の棟梁となった。

 

 京都駅の南側は工場街も近く、どこか「下町」の風情である。北側は京の表玄関ゆえ、華やかであり気取りも感じられるが、ここら辺はざっくばらんな親しみやすい雰囲気である。京都駅の八条口(南口)から西へしばらく歩くと、六孫王神社がある。ここは源氏の祖、源経基(つねもと)を祀った神社である。

 


▲本殿へ続く参道

 

 源経基は56代清和天皇の第6皇子貞純(さだずみ)親王の御子で、天皇の孫ゆえ六孫王と呼ばれた。元服後は臣籍に下り、源氏姓を賜った。承平・天慶の乱では大きな武勲もあった。経基の死去後、子の満仲(みつなか)が邸宅のあったこの地に葬り、社殿を建立したのが神社の始まりである。鎌倉時代の火災、応仁の乱で壊滅状態になったが、江戸時代、五代将軍徳川綱吉の時、本殿、拝殿などが再建され現在に至っている。

 


▲源経基を祀った本殿

 

 子孫には義家、義仲、頼朝、義経などお馴染みの源氏の他、足利、新田、細川、島津、山名、今川、明智、徳川等、歴史に大きく関わった武将が数多くいる。一人の人間を父母、祖父母と50代遡ると、2の50乗で、2231兆7998億1768万5248人の祖先がいたことになる。自らが存在するのは、宇宙にきらめく星の数にも匹敵する祖先のお陰なのだ。日本人のほとんどは親類関係と考えることも出来る。

 

 境内の事務所の玄関に捨て犬、捨て猫の里親探しのポスターが貼ってあった。飼い主の身勝手で捨てられ、毒殺処分される犬、猫は毎年20万匹にもなるという。この動物達も人間と同じように、連綿と続く命の連鎖の中で誕生した大切な生命である。この動物達に救いの手が差し伸べられるよう祈らずにはいられなかった。

 

【メモ】

●源経基
臣籍降下とは皇族の一種のリストラ策であり、憤慨していたとも伝わる。

 

●貞純親王
上総(千葉県)、常陸(茨城県)などの太守(国司)を務めた。

 

●承平・天慶の乱
関東の平将門の乱(承平年間)、瀬戸内の藤原純友の乱(天慶年間)の総称。

 

●源満仲
藤原摂関家に仕えた。摂津(兵庫県)多田荘(川西市)に土着し、武士団を形成したとされる。

 

【アクセス】

京都駅から西へ徒歩15分。

【住所】

京都市南区壬生通八条角

 

周辺MAP

 

 

古都巡り
【最新のお話】

◆古都巡り◆第40話●吾は行くなり――哲人の言葉に感動 ○哲学の道

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 哲学の道とは、哲学者の西田幾多郎や田辺元、三木清などが散策しながら思索していたところからそう呼ばれるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と命名された。周辺には銀閣寺、法然院、南禅寺などの名刹があり、京都観光には欠かせないスポットとなっている。

 

 銀閣寺の前と若王子神社そばの若王子橋の間の、琵琶湖疏水の分流沿いに延びる1.8キロほどの小道である。春の桜、秋は紅葉と自然に恵まれた場所であるが、私は冬の静寂さも気に入っている。道沿いに喫茶店や小物を売る店が並んでいるので、「思索」の途中で立ち寄るのも楽しい。

 

 哲学の道沿いにたくさんの絵馬が飾られた寺院があった。弥勒院という。絵馬には試験や就職の成功、家族の幸福などの願いが書かれているが、長引く不況や震災の影響で、祈りの込め方も普段以上に強いに違いない。切実な思いが伝わる。

 


▲哲学の道と琵琶湖疏水

 西田幾多郎は母校四高(現・金沢大学)で教鞭を取っていた頃、デンケン(ドイツ語で考えるという意味)先生と呼ばれていた。後年、自らの人生を振り返りこう話したという。「前半は黒板を前にして坐した。後半は黒板を後にして立った」。学究の人生を述べたのだろう。しかし身内の死などに直面した人生の苦悩がこの言葉の背後にはあった。


▲西田幾多郎の歌碑

 

人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり

 

 西田幾多郎が詠んだ歌の碑が道の途中にあった。自らの道は自分で切り開くしかない。人にどう思われるかはさして問題ではない。日本人は人の目を気にしすぎるのかも知れない。道を極めた偉人の言葉には誰でもが納得するが、中々その通りに生きられないのが人間の性(さが)であろう。己の生きる道を貫いた達人に、叱咤されたような気になった。

 

【メモ】

●西田幾多郎、田辺元、三木清
京都大学の西田幾多郎に始まる哲学の一派を京都学派という。田辺元、三木清も同派。

 

●若王子(にゃくおうじ)神社
1160年、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂の守護神として分霊したのが始まり。

 

●琵琶湖疏水
禁門の変で市街地が焼失し、また遷都で衰退した京都再生のため琵琶湖から引かれた。

 

●弥勒(みろく)院
聖護院大根、八つ橋で有名な聖護院を大本山とする。

 

【アクセス】

市バス「銀閣寺道」下車すぐ。

 

周辺MAP