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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り
【最新のお話】

◆古都巡り◆第49話「本当にあるのか? 清盛の「祟り」」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 平清盛には、どうしても悪役イメージが付きまとう。一般に流布している「驕れる平家を悲劇の主人公源義経が討つ」という図式が、誤解を与えているのかも知れない。ドラマや映画、小説でもほとんどが悪役で登場するので、日本人の心に「清盛=悪者」という刷り込みがなされているのだろう。

 

 実際の平清盛は、かなりの大胆な政策を断行しており、その業績の数々は現代でも決して色褪せることがない。瀬戸内海航路を整え、日宋貿易に力を入れた。その拠点とした大輪田の泊(おおわだのとまり)は、現在の神戸港である。宋銭を国内で流通させ、日本の商業活動を合理的な貨幣経済へと移行させた。清盛がいなかったならば、明治以後、近代国家としてスムーズに国際経済に馴染むことが出来ただろうか。

 

楠正成、正行別れの像

▲平清盛手植えの楠

 

 JR西大路駅から西大路通りを北へ行くと、大きく道がカーブを描く場所がある。若一神社(にゃくいちじんじゃ)の楠を避ける様に湾曲しているのである。その楠は、清盛が太政大臣に任ぜられた時に、感謝の意を込め手植えしたとされる。神木として大切にされ、切ると清盛の祟りがあると伝わる。実際、市電設置の工事の時、木を切ろうとしたところ、工事関係者が事故や不幸に相次いで遭遇し、撤去を断念したそうである。

 

楠正成、正行別れの像

▲祟りを恐れ曲がった道路

 

 曲がり具合を写真に収めようと努力したが、腕が未熟なせいかうまく撮れない。撮影場所を何回も変えたりズームをしたりと悪戦苦闘したが、満足のいく写真は撮れなかった。空からでも撮らないと無理なのかも知れない。容易にその正体を現さない「祟り」の用心深さに手こずった。 

 

 祟りとは厄介な代物だ。現代人がそれに振り回されるのもどうかと思うが、信仰心などないのに祟りとなると老いも若きも妙に信じたがるのが日本人の「癖」である。しかしそれで「欲望の暴走」を戒めている面もあるのかも知れない。自然や文化財、景観の破壊を防ぎ、次世代に引き継ぐことは当然の責務である。「祟り」に頼ることではない。

 

【メモ】

●平清盛

白河法皇の落胤とも伝えられる。保元・平治の乱で対立勢力を一掃。娘徳子を高倉天皇に入内させ、官職を平氏一門で独占した。武士として初めて太政大臣となった。

 

●日宋貿易

平安中期〜鎌倉中期にかけて行われた。遣唐使が廃止されて以来の日中交渉。日本は宋銭、陶磁器などを輸入し、銅、硫黄などの鉱物、木材などを輸出した。

 

●大輪田の泊

奈良時代、行基が構築したと伝わる。清盛が修築した。防波堤となる島は経ケ島と呼ばれる。その名は建設に際し、人柱の代わりにお経を書いた石を沈めて安全を祈願、造営したことが由来。

 

●若一神社 平安時代末期、平清盛がここに西八条御殿と呼ばれる別邸を造営し、紀州熊野の若一王子の御霊を祀ったのが始まり。太政大臣になったのを感謝し、楠を手植えしたと伝わる。

 

【アクセス】

JR東海道線(京都線)「西大路」下車。北へ徒歩5分。

 

【住所】
京都市下京区七条御所ノ内本町98

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第48話「散る桜に重なる「正成、正行」物語 ○如意輪寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 如意輪寺にある後醍醐天皇陵は、天皇家の墓陵では唯一の北向きである。京都奪還ならず、失意のうちに崩御した天皇は、病床で次のように詠んだ。

 

 身はたとへ 南山の苔に埋むるとも 

魂魄は常に 北闕の天を望まん

 

天皇の無念の思いを汲み取り、京に向かうように葬られ、墓陵は「北面の御陵」と呼ばれるようになった。如意輪寺は吉野のロープウェイ駅から、南東へ山道を40分ほど歩いた所にある。春なら、寺へ連なる道の沿道の山々は桜の花が咲き誇り、さぞかし華やかな光景が広がることだろう。

 

楠正成、正行別れの像

▲楠正成、正行別れの像

 

寺院の奥の庭園に向かい合う親子の像がある。楠正成(くすのき・まさしげ)が湊川の決戦に向かうに当たり、長男正行(まさつら)に今生の別れを告げる「桜井の別れ」の場面である。共に戦に行こうとする11歳の正行に、正成が諭す。「お前を帰すのは、私が死んだ後のためだ。一度決めた節義を違えてはならない。帝のため忠義の心を失わず、いつの日か朝敵を倒せ」

 

1348年、足利尊氏の南朝討伐の挙兵を聞き、迎え撃つ若武者正行。この時、後村上天皇は告げた。「父と同じ道を歩んではならない。生きて帰ってきてくれ」。しかし正行は、すでに玉砕を覚悟していたのであった。出立の直前、如意輪堂に辞世の句を刻んだ。

 

帰らじと かねて思えば梓弓(あずさゆみ) なき数に入る 名をぞとどむる

 

 

悲劇の舞台「如意輪寺」

▲悲劇の舞台「如意輪寺」

 

高師直(こうの・もろなお)の軍勢5万、一方正行軍3千。両軍は河内(今の大阪府)の四条畷で激突。正行は果敢に戦い、敵将師直の首を打ち取った。しかしそれは影武者のものだった。地団駄踏んで悔しがる正行。襲い来る大軍。多勢に無勢、次々に味方は倒れ、絶体絶命となった。最後は、弟正時(まさとき)と刺し違え果てた。時に正行23歳、正時21歳であったという。戦いの悲劇は美化されやすいが、正成、正行親子の物語は、判官びいきの日本人の意識の共感を呼び起こし、今日まで語り継がれているのだろう。

 

【メモ】

 

●楠正成

河内の豪族。後醍醐天皇に呼応して挙兵。足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒すが、天皇から離反した尊氏と敵対関係になった。

 

●湊川の決戦

摂津国湊川(現・神戸市中央区、兵庫区)での足利尊氏、足利直義軍と新田義貞、楠正成軍の合戦。楠軍は壊滅し、正成は自害した。

 

●桜井の別れ

西国街道の桜井の駅(摂津国桜井村=現・大阪府島本町)で、楠正成が息子の正行に別れを告げる場面だが、後世の創作とする説もある。

 

●高師直

足利尊氏の家来。室町幕府創設から幕政に関与。政敵の足利直義らを失脚させたが、直義の逆襲に合い一族もろとも殺害された。

 

【アクセス】

(ロープウェイ吉野山駅から)南東へ徒歩40分。

 

【住所】

奈良県吉野郡吉野町吉野山1024

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第47話「●桜が見つめた悲劇の天皇 ○金峯山寺 」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 奈良・吉野の山に登るには、近鉄吉野線で吉野駅まで行き「吉野山ロープウェイ」に乗るのがおつである。このロープウェイは1929年開業で、国内では現役最古のものである。2012年、「機械遺産」に登録された。この時一緒に選ばれたのは、温水洗浄便座「ウォシュレット」と東急電鉄が日本で初めて導入した「ステンレス車両」などであった。

 

 吉野の山と言えば桜。修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)は飛鳥時代の7世紀後半、吉野の金峯山で修業し、感得した蔵王権現を桜の木に彫り御堂を建てた。これが金峯山寺の始まりとされる。そうしたことから吉野山では山桜が神木として保護・献木され、今日では日本一の桜の名所となっている。

 

機械遺産となったロープウェイ

▲機械遺産となったロープウェイ

 

 小さなゴンドラはいかにも「歴史」を感じさせるものだった。古びて何となく不安も感じるが、いざ動き始めると若干の揺れを伴いながらも我々をいたわる様にゆっくりゆっくり山の斜面を滑るように登って行く。だんだん斜面から離れ、視界が開けてきた。吉野の山々が遠くまで一望出来た。太陽の眩しい光が、聖者の発する威光のような錯覚を覚えた。

 

 ロープウェイを降り、急な坂道を歩いて金峯山寺を目指した。にわか修験者になった気分だが、参道の店にある柿の葉寿司が気になる。石段を上り仁王門をくぐると修験道の世界である。白装束に身を包んだ修行者の一団がおり、蔵王堂(本堂)でお土産(?)を買っていた。現代では、修行には旅行的な側面もあるのだろうか。蔵王権現が安置されている蔵王堂の高さは34メートル。東大寺の大仏殿に次ぐ日本で2番目に大きい木造建築である。

 

行宮だった金輪王寺跡

▲行宮だった金輪王寺跡

 

 足利尊氏らの離反にあい、失意の内に吉野に逃れた後醍醐天皇は1336年、吉野に朝廷を築いた。南都北嶺(興福寺、比叡山)にも対抗しうる吉野の力を頼ったのであった。ここに日本が二分された南北朝時代が始まった。南朝では、約60年の間に4人の天皇が即位している。行宮(あんぐう=仮の皇居)と定められた金輪王寺(きんりんのうじ=金峯山寺塔頭)跡は、今は石碑があるだけの小さな「庭」になっていた。後醍醐天皇の京都奪還は叶わず、1339年、失意のうちに吉野の地で没した。


【メモ】
●吉野の山
約3万本に及ぶ桜は、ほとんどが日本古来のシロヤマザクラ。2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。


●役行者
役小角(えんのおづの)。7世紀中頃、大和国葛城上群茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれたとされる。平安時代に山岳信仰が盛んになると、役行者と呼ばれるようになった。修験道とは、日本独特の山岳信仰。

 

●蔵王権現
釈迦如来の化身と言われる修験道の本尊。権現とは仮の姿で現れるということ。如来が悪魔を降伏させるため、憤怒の相で現れた姿をいう。


●後醍醐天皇
96代天皇。足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒し、天皇親政(建武の新政)を行った。しかし冷遇された武士勢力の離反から政権は瓦解。1339年、52歳で崩御。


【アクセス】
(ロープウェイ吉野山駅から)南へ徒歩15分。


【住所】
奈良県吉野郡吉野町吉野山

 

周辺MAP

 

 

古都巡り

◆古都巡り◆第46話「●義経と静御前の出会い? 幻の大庭園 ○神泉苑」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 二条城の南の神泉苑に小さな池がある。平安京遷都とほぼ同時期に沼沢を開いて造られたものだが実は当時、内裏の東南隣に位置し南北約500メートル、東西約240メートルもある大きな池であった。常に清泉が湧くという意味で神泉苑と命名され、周囲には壮大な宮殿や小山、森林が配されていた。禁苑(天皇の庭)であり天皇や貴族が舟遊、花見、賦詩などを楽しんでいた。

 


▲水面の揺れる神泉苑

 

 824年淳和(じゅんな)天皇の勅命により、東寺の空海と西寺の守敏が祈雨を競ったところ、空海が祈ると竜神(善女竜王)が現れ、たちまち雨が降り勝負に勝った。それ以降東寺は栄え西寺は滅びたという伝承がある。都に疫病が大流行し東北に巨大地震と大津波があった869年(貞観11年)、清和天皇は神泉苑の南端に当時の国の数である66本の鉾を立て、神輿を繰り出し国の平安を祈った。これが祇園祭の起源とされる御霊会である。

 

 日本の神は自由には飛び回れず、物に付いて動くと考えられていたそうで、鉾は神が宿る依り代でそれに台車を付けた物が山鉾の原型となった。御霊会は町衆に受け継がれ、大きな祭りへと発展していった。

 

 漢の武帝が造営した「上林苑(じょうりんえん)」を模したそうだが、そんな面影はほとんどない。実は南北朝の騒乱や応仁の乱などで荒廃し、1603年、徳川家康が二条城を建設した際、敷地の大部分を囲い込み大幅に縮小してしまった。今は小池でしかないことは残念ではあるが、歴史に抗うことは出来ない。池に係留されている竜頭鷁首(りゅうとげきしゅ)が、狭い池に閉じ込められて飛翔が叶わず、窮屈そうにしている竜のように見えた。そよ風に揺れる水面(みなも)に漂う舟の姿からそんなことを考えた。

 


▲法成橋を渡り恋愛成就を祈る

 

 王朝時代、貴族は舟を浮かべ和歌を詠み、池に遊ぶ水鳥など眺めていたのだろうか。華やかな宮廷の「宴」が目に浮かぶ。ここは源義経と静御前が出会った所とも伝わる。そのせいか、池に架かる法成橋を渡り善女竜王を祀る社にお参りしている人に、若い女性が多いと感じるのは私の錯覚だろうか。

 

【メモ】

●淳和天皇
平安時代初期の53代天皇。桓武天皇の第3皇子。漢学に長じ、文化政策を重視し「経国集」「令義解(りょうのぎげ)」を作らせた。

 

●竜神(善女竜王)
仏教やヒンズー教の守護神。男神像として表現することもあり、女神とは限らない。

 

●武帝
前漢の7代皇帝。周辺国に軍事侵略を繰り返し、その治世において前漢における最大の領土を実現した。前漢の全盛時代とされる。

 

●上林苑
古代中国秦の始皇帝が最初に造った皇帝のための大庭園。武帝が拡張した。周囲150キロに及び世界中から珍獣、奇草を集めた。

 

【アクセス】

地下鉄東西線「二条城前」下車すぐ。

 

【住所】

京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166

 

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古都巡り

◆古都巡り◆第45話「●戦争へと導いた密談の舞台 ○無鄰菴」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 明治の元勲・山県有朋は長州藩出身であり、わずか2カ月であるが松下村塾に学んだ。高杉晋作の奇兵隊に参加し、高杉の死後は実質的な奇兵隊のリーダーであった。戊辰戦争では北陸、会津征討の中心者となった。維新後は新政府の実力者として権勢を振るい、陸軍や官僚制の基礎を築いた。

 

 南禅寺の参道前にある無鄰菴は、山県有朋の別荘として1896年に建てられた。ここは三つ目の無鄰菴である。最初は長州・下関に建てた。命名は閑静な場所で隣に家がないことからだという。2番目は京都の木屋町二条そして3番目に築いたのがここである。

 


▲母屋から望む庭園

 

 ここの洋館で日本の命運をかけた秘密会議が開かれた。山形有朋、桂太郎総理、小村寿太郎外相そして伊藤博文政友会総裁の4人で対ロシア戦略を話し合った(無鄰菴会議)。日本の権益を脅かすロシアの南下政策に対して、強硬路線も辞さないとの方針を決定したのだ。世界に冠たる帝政ロシアに、アジアの辺境にある小国が牙を向けた瞬間である。

 


▲庭園の隅にある茶室

 

 母屋から広い庭園に出てみた。有朋自ら設計し、造園家小川治兵衛(じへえ)が作庭したものだそうだ。芝生の中を歩くと暖かな日差しもあり、緑が心地良く気持ちが軽くなる。国の命運を決する会議の場には似つかわしくないが、得てして国の命運とは密かに少数で決められる場合が多い。政治家の大仰なパフォーマンスなどは、信用しない方が賢明なのである。

 

 1904年2月8日、日露戦争開戦。成長著しいが未成熟の国は、必要以上にその力を誇示したがるが所詮は虚勢。戦費は17億円の巨額(当時の数年分の国家予算)に膨れ上がり、国民は増税に苦しんだ。日本軍はロシア海軍基地の旅順を占領、日本海海戦ではバルチック艦隊を撃破した。しかし消耗戦に耐えられずセオドア・ルーズベルト米大統領に仲介を要請し、講和条約(ポーツマス条約)を結んだ。日本が大国ロシアに勝利したことは衝撃的な「事件」であった。その後日本は列強気取りで植民地政策を進め、アジアでの勢力拡大に血道を上げ破滅への道をまっしぐらに進むこととなった。

 

【メモ】

●山県有朋
第3代、第9代内閣総理大臣。「国軍の父」と言われる。軍拡路線を進め、晩年も政界に隠然とした影響力があった。

 

●小川治兵衛
7代目小川治兵衛。近代日本庭園作庭の先駆者。平安神宮、円山公園など多数の名園を作庭。

 

●日露戦争
ロシアの満州南下に対しその権益を認め、代わりに朝鮮を日本の支配下に置く交渉が決裂し、戦争となった。

 

●ポーツマス条約
日本全権は小村寿太郎外相、ロシア側はヴィッテ。日本の朝鮮支配権を承認。南樺太の日本への割譲などを決めた。

 

【アクセス】

地下鉄東西線「蹴上」下車。北西へ徒歩10分。

【住所】

京都府京都市左京区南禅寺草川町31

 

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