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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り

◆古都巡り◆第54話「狂気への序曲になった祭典 ○橿原神宮」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 1940年、日本中が皇紀2600年に沸いた。八紘一宇(はっこういちう)の精神の下、盛大に建国2600年を祝った。日本各地で祝賀行事が執り行われ、日本人は、天皇は神であり国民は天皇の赤子(せきし)との思想に染まった。しかし日中戦争は泥沼化し、いつ米英との開戦があってもおかしくない不穏な空気が漂っていたはずである。だが国民の多くは、いざとなれば神風が日本を守ってくれるという迷信を疑うことはなかった。

 

 橿原神宮は、日本書紀にある神武天皇が畝傍山の麓にあった宮で即位したという記述を元に、1890年に造営したものである。正月には関西一円から初詣客を集める。最寄りの橿原神宮前駅からは、人波が途切れず神社まで延々と続く。沿道に露天が並ぶ光景は、日本各地で見られる風景と同じである。

 

橿原神宮の入り口にある鳥居

▲橿原神宮の入り口にある鳥居

 

 大きな鳥居を潜るとまもなく本殿である。今は、気軽に初詣に訪れる人がほとんどであろう。しかしかつて神道は、戦争遂行のために国民の思想統合に利用された。こうした政府の政策に反対しようものなら、非国民のレッテルを貼られ犯罪者扱いされたのである。

初詣客で賑わう橿原神宮

▲初詣客で賑わう橿原神宮

 

 1940年に開催予定だった東京オリンピック、札幌冬季オリンピック、東京万博は日中戦争の長期化でいずれも返上された。皇統に疑義を呈した本は発禁、戦争反対の演説をした国会議員は除名となった。「ぜいたくは敵だ」という標語が生まれ、思想、生活の統制は厳しさを極めた。

 

 9月、日独伊三国同盟が締結され、10月には、大政翼賛会が発足した。皇紀2600年の祝賀は、狂気の戦争への序曲となってしまった。皇紀とは、日本書紀が記す神武天皇の即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする。この年に登場した戦闘機は、皇紀2600年の末尾の0から「ゼロ戦」と呼ばれた。この年生まれた人には「紀」の付く名前が多いそうだ。これも皇紀からの命名と言われる。私の勤め先にもかつて何人かいたものである。11月10日、昭和天皇を迎えての式典が華やかに開催され、祭典はクライマックスを迎えた。

 

【メモ】

●皇紀

1872年に、明治政府が日本書紀の記述から定めた。橿原神宮が創建された1890年は、皇紀2550年に当たる。

 

●八紘一宇

世界を一つにまとめて、一家のように和合させること。八紘とは四方と四隅(しぐう)で、地の果てまで。転じて全世界。宇は家。

 

●日独伊三国同盟

互いの権益を認め合い、同盟国が攻撃を受けた場合、軍事的、政治的、経済的な援助をすることが決められた。アメリカ牽制が大きな目的だった。

 

●大政翼賛会

政党を解散させ、首相を総裁とした組織。ナチス流の一国一党組織を目指した。これにより政党政治は終焉を迎えた。

 

【アクセス】

近鉄橿原線「橿原神宮前」下車。西へ徒歩5分。

 

【住所】

奈良県橿原市久米町934

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古都巡り

◆古都巡り◆第53話「厚いベールに覆われた初代天皇 ○神武天皇陵」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 古事記、日本書紀によると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、高天原から高千穂の峰(宮崎県と鹿児島県の県境辺り)に降臨。その子孫磐余彦(いわれびこ)は、太陽神・饒速日(にぎはやひ)が治めるという大和を目指し、東征に出立した。かの地を拠点に、天下を治めようとしたのだ。遠征軍は日向、宇佐を経て安芸、吉備と瀬戸内海を進軍し、難波に上陸。しかし饒速日の家来に妨害され、南下して熊野に回った。そこで出会った八咫烏(やたがらす)に導かれ、吉野の山を越え大和に入ると、戦いに勝利し初代天皇・神武となった。

 

畝傍山麓に天皇陵はある

▲畝傍山麓に天皇陵はある

 

 畝傍山(うねびやま)の北東の麓に神武天皇陵がある。入り口から鬱蒼と茂った緑に囲まれた広い道を歩いて行くと、大きな鳥居が正面に見えた。陵墓に近づくことは出来ないが、その奥にあるであろう秘められた物語に近づきたいものである。今は観光地化しているので、家族連れなども訪れている。三脚を立て写真を撮っている人もいた。

 

 江戸時代までの天皇陵は、特別な指定もなく周辺集落との共有地も多かった。中には墳丘が村の墓地になっているものもあった。欧米列強が日本を脅かすようになると、勤王思想が広まり日本民族の覚醒を促す動きが出た。江戸幕府も、1862年、古墳の調査を始め(文久の修陵)、整備の第一号が神武天皇陵である。日本書紀や延喜式の記述、さらに神武田(じぶた)という地名などから、この古墳を神武天皇陵とした。

 

古墳までは、橋を渡り長い道が続く

▲古墳までは、橋を渡り長い道が続く

 

 古代の天皇陵の多くは、実はこのように明確な根拠のない古墳なのである。神武天皇も、その存在は証明されていない。あくまで神話の中の人物である。127歳まで生きたとされるが、それはありえない。モデルがいたかどうかもはっきりしない。

 

 天皇家は、地球上で最も長い歴史を誇る「王家」である。古事記、日本書紀は千数百年にわたり読み継がれてきた、そのいわれを説明する神話である。登場人物は神々であるが、感情を爆発させ人間臭く失敗も多い。天皇制については、成立がさまざまな物語で彩られていることで神秘性を増し、我々の想像力を描き立てる存在であることは間違いない。


【メモ】
●古事記
古くから皇室などで伝承される言い伝えを、稗田阿礼(ひえだのあれ)が習得し、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録した。712年完成。


●日本書紀
舎人(とねり)親王らが中心になり、中国の史書に倣い720年、正式な国史として成立。


●八咫烏
3本足とされる。奇数は陽を表し、中国では太陽に棲むとされている。サッカー日本代表のシボルマークでもある。


●初代天皇・神武
畝傍山の東南、橿原の地を都とした。3人の兄がいたが、遠征の戦いで失った。眩い輝きを放つ金鵄(きんし)と呼ばれる黄金の鳶の力を借りて、戦いに勝利した。


【アクセス】
近鉄橿原線「畝傍御陵前」下車。北西へ徒歩10分。


【住所】
奈良県橿原市大久保町

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古都巡り

◆古都巡り◆第52話「未来の【大河ドラマ】の主人公? ○妙心寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 明智光秀を、大河ドラマの主人公にしようという運動がある。主君織田信長を討った極悪人のレッテルは誤りであり、名君光秀の本当の姿を知ってもらい町興しをしようと、全国のゆかり地が協議会を発足させた。構成メンバーは、舞鶴市、亀岡市、京丹後市、長岡京市(以上京都府)、恵那市、山県市(同岐阜県)などの団体である。

 

 京都・花園にある妙心寺には、明智光秀を追善供養するために、叔父の密宗和尚が建てた浴室があり、明智風呂と呼ばれている。ここは蒸し風呂で、浴室と洗い場がある。当時、蒸し風呂入浴は、修行として身を清める意味合いがあり、追善の儀式でもあったことから造られたらしい。しかし妙心寺には織田信長の墓もある。複雑な人間模様も見て取れる。

 

放生池

▲「放生池」。探幽も渡ったのだろうか

 

 さすがに京都有数の古刹、境内は広い。南総門から入ると、すぐ左に池(放生池)が目に入る。右手に浴室を見て進むと、三門、仏殿、法堂(はっとう)と続く。法堂の天井には、狩野探幽の傑作「雲龍図」がある。どこからでも竜の目がこちらを睨みつけているように見えると、案内の方に教えてもらった。言われるままに堂内を一周しながら、竜の目を見上げた。確かにそんな気がした。

 

 明智光秀は、何故信長を討とうとしたのだろうか。歴史の大きな謎である。怨恨、野望など個人的な理由から、朝廷復権を、あるいは室町幕府再興を画策する黒幕に操られたなど様々な説があるが、推定の域は出ない。

 

光秀供養のため建てられた「浴室」

▲光秀供養のため建てられた「浴室」

 

 光秀は教養人であり、連歌や古典に精通していたと言われる。武勇にも優れ、織田信長の勢力伸長は光秀に依るところ大であった。また情に厚く、合戦で負傷した兵士を気遣う書状も数多く残されている。歴史上、悪人のレッテルを貼られても、ゆかりの地では尊敬されている人物はいる。忠臣蔵では憎まれ役の吉良上野介は、その典型的な例であろう。勧善懲悪好みの日本人に受け入れられやすいように物語を創作するのだろうが、そのお陰で損をしている歴史上の人物は意外に多いのかも知れない。

 

【メモ】

●明智光秀

美濃(岐阜県)の清和源氏・土岐氏の支流明智氏の出身。比叡山や石山本願寺との戦いで功績。気性の激しい信長に翻弄され、恨みを持っていたとも。室町将軍・足利義昭や正親町(おおぎまち)天皇に近かったと言われる。

 

●協議会

2007年発足。生誕の地とされる恵那市明智町には、「光秀まつり」があり、少年武将や少女姫のパレードが行われる。

 

●妙心寺

1337年、花園上皇の離宮「萩原殿」を、上皇の発案で禅寺に改められたのが始まり。

 

●狩野探幽

江戸時代初期の画家。幕府御用絵師として活躍。大徳寺、二条城、大阪城など多くの寺院、城に障壁画を描いた。

 

【アクセス】

JR嵯峨野線(山陰線)「花園」下車すぐ。

 

【住所】

京都市右京区花園妙心寺町1

 

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古都巡り

◆古都巡り◆第51話「自らが築く【極楽浄土】 ○法金剛院」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

  京都・右京の花園は、貴族の山荘が一帯に立ち並び、様々な花が百花繚乱であったのでその名が付いたという。中でも右大臣・清原夏野(なつの)の山荘であった法金剛院は、今でも四季折々に様々な花が咲き誇り、古都を代表する花の寺として親しまれている。

 

 夏野の没後は、双丘寺(ならびがおかでら)となり、さらに858年、文徳天皇が伽藍を建立し天安寺と改称した。一時荒廃したが、1130年、鳥羽天皇の中宮であった待賢門院彰子(たいけんもんいんしょうし)が再興し、法金剛院となった。

 

待賢門院の住んだ法金剛院

▲待賢門院の住んだ法金剛院

 

 待賢門院の美貌と優雅な庭園に魅かれ、数多くの歌人が集った。その中には若き日の西行法師もいた。西行は待賢門院を思慕し、次のように詠んだ。

 

 なんとなく 芹と聞くこそ あはれなれ

 摘みけん人の 心知られて

(芹摘む人とは、后など高貴な女性に叶わぬ恋をすることを意味する)

 

 境内の庭園は、待賢門院が極楽浄土を再現しようと造営させた。巨岩を並べた「青女(あおめ)の滝」は、仁和寺の林賢(りんけん)、静意(じょうい)が築いた。発願者、造営者が判明している平安時代の庭園というのは、極めて珍しいそうである。

 

 境内に大きな池がある。畔を歩きながら平安貴族は、歌会を楽しんでいたのであろうか。冬に訪れたので寒く、雅を楽しむ気分にはなれなかったが、想像の中では貴族に交じり歌を詠んでいた。青女の滝に水の流れはなかったのが寂しい。

 

極楽を再現した庭園

▲極楽を再現した庭園

 

 平安末期は戦乱・災害が相次ぎ、末法思想が広がった。空也、源信といった僧が念仏を唱え、不安に苛まれた人々の間に浄土思想が広まっていった。人々が夢見た極楽浄土とは、何処にあるのだろうか。実は何処にもない。誰しも現実を離れて存在することなど出来ない。悩み多く思うに任せぬ現実社会だが、そこで歯を食いしばり苦しみを乗り越えて幸福を掴んでいく。その中でこそ現実の極楽浄土が築かれていくのである。

 

【メモ】

●清原夏野

平安前期の貴族。繁野王と名乗っていたが、清原真人と天皇から賜り、清原を姓とし夏野と改名した。

 

●鳥羽天皇

82代天皇。崇徳天皇へ譲位後も院政を敷き権力を握った。近衛天皇、後白河天皇と即位させ、崇徳上皇の反発を招き朝廷を二分、保元の乱の要因となった。伊勢平氏を重用した。

 

●待賢門院彰子

藤原彰子(しょうし/たまこ)。鳥羽天皇の中宮。崇徳、後白河両天皇の母。

 

●西行法師

平安末期から鎌倉初期の武士、僧侶、歌人。俗名・佐藤義清(のりきよ)。憲清、則清、範清とも。出家後は、諸国を巡り多くの和歌を残した。新古今集などに多くの和歌が収められている。

 

【アクセス】

JR嵯峨野線(山陰線)「花園」駅下車すぐ。

 

【住所】

京都市右京区花園扇野町49

 

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古都巡り

◆古都巡り◆第50話「いにしえより人々を魅了する思索の尊像 ○広隆寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都・太秦(うずまさ)は渡来人秦(はた)氏の根拠地であった。秦氏は養蚕・機織りを生業(なりわい)としていたが、大陸の先進文化の導入に熱心で、農耕、醸造など当時の産業発展にも貢献していた。秦氏から献上された絹がうず高く積まれた様子を天皇が喜ばれ、秦氏に「うずまさ」の称号を授けたところ、いつしかそれが地名になったと言い伝えられている。

静寂に包まれた本堂

▲静寂に包まれた本堂

 

 太秦の広隆寺は、秦氏の有力者、秦河勝(かわかつ)が聖徳太子から尊像を賜り、広隆寺の前身となる蜂岡寺(太秦寺)を建立したのに始まる。1400年前の創建と伝えられ、平安京遷都以前から存在する京都で最も古い寺院である。太子から賜った尊像とは、国宝に最初に指定された弥勒菩薩半跏思惟像とされている。

 

 京福電鉄嵐山線(嵐電)の「太秦広隆寺」駅で降りると、目の前に寺はあった。いかにも古刹らしい威厳のある「南大門」をくぐり、石畳を歩いた。本堂である「上宮王院」を過ぎ、多くの寺宝を安置している霊宝殿に入った。国宝級の仏像が沢山安置されているので、頑丈なケースに収められ遠くから眺めるのだろうと思っていた。しかしそこは何も障壁がなく、じかに触れられるくらいの近さで見学できる。

 

 1960年、一人の学生が像に触れて、右手薬指が折れてしまう事件が起きた。人海戦術で、折れた指を大捜索。捨てられた道端の草むらから、三つに割れた指を執念で探し出し、修復したという。その箇所は、見た目には全く分からない。世界の専門家が驚嘆する日本が誇る匠の技である。

 

京都観光に活躍する「嵐電」

▲京都観光に活躍する「嵐電」

 

 嵐電は京都を訪れたとき、よく乗る電車である。沿線には名所、旧跡が数多く、駅舎もユニークである。「太秦広隆寺」駅ホーム内には食堂がある。うどん、蕎麦から甘味、季節限定メニューもある。店にあるタウン誌は地域密着で、例えば「銭湯特集」など、観光案内とは趣の違う面白情報が満載である。しかし時間には注意が必要。タウン誌に熱中しすぎると、何本も電車をやり過ごすことになる。

 

【メモ】

●秦氏 3世紀後半、百済の戦乱を避け、日本に渡った弓月君(ゆづきのきみ)が祖と言われるが、定かではない。秦の始皇帝がルーツとの説も。土木技術に優れ、平安京や伊勢神宮の造営に関わったとされる。

 

●広隆寺 創建当時は別の場所だったとの説もある。平安京遷都後、現在地に移転したとされる。度々火災に見舞われているが、多くの仏像が現在まで伝わる。

 

●秦河勝 富裕な商人と言われ、聖徳太子のブレーンとして活躍したと伝わる。

 

●弥勒菩薩半跏思惟像 弥勒菩薩とは、56億7千万年後に人類の救済に現れる菩薩とされる。物思いにふけっているように見えるのは、人類の救済方法を思案しているためと言われる。足を組み膝頭の上に肘を突いて、頬に手を触れて思索する像を、半跏思惟像という。指を折った学生は「あまりの荘厳さに見とれ、キスしようとした」そうである。

 

【アクセス】

京福電鉄嵐山線「太秦広隆寺」下車。すぐ。

 

【住所】

京都市右京区太秦蜂岡町32

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