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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り
【最新のお話】

◆古都巡り◆第59話「映画の聖地で見た「悲劇の将軍」 ○等持院」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 洛西にある等持院には、日本映画の父と仰がれるマキノ省三の像がある。その功績を称えて1957年に映画の聖地・太秦に建立された像であるが、マキノの撮影所が等持院に創設されていたことから、顕彰の意味も込め、1970年に当地に移転した。

 

 「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」。マキノのモットーたる映画制作の3大原則である。1スジとは良いシナリオ、2ヌケは「ヌケの良い映像」、つまりメリハリのある見やすい映像、優れた映像技術、3ドウサは役者の演技、被写体の良さを指すという。なるほど、人を引き付け、長く心に残る良い映画とは、この三つが揃ってこそなのだろう。この3大原則は、現在でも京都の映画関係者の間で語り継がれているそうだ。

 

日本映画の父と仰がれる「マキノ省三」

▲日本映画の父と仰がれる「マキノ省三」

 

 等持院は足利氏の菩提寺である。足利尊氏が天竜寺の夢窓国師を招いて開山とした。寺内の霊光殿には、室町幕府の歴代将軍像(2人欠)が安置されている。一人一人の顔を眺めながら像の前を歩いた。中には小さい子供の像もあった。9歳で即位した7代将軍・義勝(よしかつ)である。父の義教が暗殺されたため祀り上げられたが、翌年わずか在位8カ月、10歳で死去している。

 

 昔は幼少の将軍や天皇は珍しくなかった。黒幕が思うがままに自由に権力を操れるようにするためだろうか。表の権力者が、実は操り人形であるという例は、日本の歴史には数多い。古くは、蘇我、藤原氏そして平家らの傀儡・・・これらとは性格は違うが、武家政権における天皇の地位なども権力の実態がない存在と言える。

 

足利氏の菩提寺「等持院」

▲足利氏の菩提寺「等持院」

 

 生まれによって身分が固定されていた時代。幼くして将軍になる羽目になったこの少年は、どんな毎日だったのだろう。遊びたい盛りに我慢を強いられ自由にならない生活、プレッシャー、影の権力者達の欲と欲のぶつかり合いの間で、身も心もズタズタに引き裂かれていたのではないだろうか。暗殺、病死はては落馬などと死因については様々に語られているが、真相は歴史の闇に葬られたままである。

 

【メモ】

●等持院

仁和寺の支院を、足利尊氏が当地に移し、三条高倉の等持院の別院とした。尊氏はここに葬られ、法名から等持院と名付け等持院を統合した。

 

●マキノ省三

牧野省三。京都北部・山国村(現・京都市右京区)生まれ。尾上松之助、阪東妻三郎らを育てる。映画一族で知られ、映画監督のマキノ雅弘は長男。長門裕之、津川雅彦は孫。

 

●足利尊氏

源頼朝の同族の名門出身。後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の挙兵をすると呼応した。後、天皇に離反し、室町幕府を開いた。後醍醐天皇(南朝)と対立し独自に天皇を擁立した(北朝)。

 

●夢窓国師

南北朝時代の臨済宗の僧侶。夢窓疎石。後醍醐天皇、足利尊氏の篤信を受け京都嵯峨に天竜寺を開いた。

 

【アクセス】

京福電鉄北野線「等持院」下車。北へ徒歩10分。


【住所】

京都市北区等持院北町63   周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第58話「京都の電車は日本の初物 ○電気鉄道発祥の碑」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 JR京都駅烏丸口側に、「日本最初の電気鉄道」の碑がある。碑文には、明治28(1895)年に、京都電気鉄道株式会社が、東洞院通り七条下る~伏見下油掛通りまでの6キロで電車の運転を始めたことが書かれている。これが日本最初の電車の運転であった。

 

 京都市電の営業開始は、1912年。交通一元化のため、京都市は、1918年、京都電気鉄道を買収。路線を拡大し、市電は市民の足として、文字通り大車輪の活躍をしていた。しかし時代は変わり、モータリゼーションの波が押し寄せ、市中心部の人口減少さらに市財政の悪化などで厳しい環境に置かれた。1978年には、遂にその83年の歴史に幕を下ろすことになった。

 

京都駅前にある電気鉄道発祥の碑

▲京都駅前にある電気鉄道発祥の碑

 

 夏真っ盛りの北区にある立命館大学衣笠キャンパス。夏休みにも関わらず若い人で大学は湧いていた。テントがあったのでそこで聞くと、この日はオープンキャンパスで、同校を希望する受験生が大勢来ているという。友人同士で来ていたり親同伴だったり、少し緊張気味の姿が初々しい。私が受験生だった約40年前は、学校情報はもっぱら受験雑誌に頼っていた。大学自身の受験生サービスなど皆無だった。受験の下見で、初めて大学を見るということも珍しくなかった時代である。

 

 大学の東側にある「以学館」前の敷石は、実は京都市電に使われていたもの。そんなことは、今の学生さんはほとんど知らないだろう。市電を支えた敷石は、第2の人生をこんな所で過ごしているのだ。他にも、金戒光明寺や同志社大学などで敷石は利用されている。

 

京都市電敷石の第2の活躍の場

▲京都市電敷石の第2の活躍の場

 

 新幹線はまもなく北海道にも届き、日本を縦断する。リニア新幹線も2035年には開通する予定だ。「夢の超特急」と言われた新幹線も普通の特急という感覚である。京都で始まった電車運行は、今や我々の生活に欠かせないものになっている。身近になりすぎていて、現代人はありがたみを忘れているような気もするが。際限なく利便性を求めるその先にあるものに、若干の不安も覚える・・・。

 

【メモ】

●京都電気鉄道株式会社

遷都による京都衰退を憂え、高木文平(市議会議員)らが琵琶湖疏水による発電を利用した電車を運行。

 

●京都市電

壬生車庫前~烏丸塩小路、四条西洞院~四条小橋の7・7キロからスタート。最盛期の昭和30年代は、路線約74キロ、一日約60万人を運んだ。

 

●立命館大学

1869年、西園寺公望の私塾「立命館」が淵源。1900年、中川小十郎が創設。

 

●同志社大学

1875年、新島襄が同志社英学校を設立。

 

【アクセス】

(電車発祥の碑)JR「京都駅」下車。

(立命館大学衣笠キャンパス)市バス「立命館大学前」下車。


【住所】

(京都駅)京都市下京区東塩小路高倉町8-3 周辺マップ

(立命館大学衣笠キャンパス)京都市北区等持院北町56-1 周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第57話「京で転輪王に思いをはせ ○西寿寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 周山街道(国道162号)を行くバスを「福王子」で降り、なだらかな坂道に入る。嵯峨野病院を過ぎ、さらに上って行く。京都・鳴滝の西寿寺(さいじゅじ)までは、山道をかなり歩かなければならない。寺院は眺望の良い高台にあるからだ。もちろん眺めは魅力の一つで、京都の南西部を一望出来る。

 

 本堂に向かって左側に三重石塔がある。これは近江(滋賀)石塔寺(いしどうじ)の阿育(アショカ)王塔を模したものだそうだ。阿育王とは、インドを最初に統一したマガタ国マウリア王朝3代目の王である。暴虐を極めた王であったが、仏教に帰依した後、戦争の悲惨さを目の当たりにし改心、仏教の慈悲の精神に基づいて、戦争放棄、平和外交、福祉政策の充実と、善政を行った名君として語り継がれている。

 

本堂へ続く長い石段

▲本堂へ続く長い石段

 

 阿育王と釈尊の因縁について、経典には以下のようにある――釈尊が乞食をしていた時、二人の童子が砂場で遊んでいた。二人は釈尊を見ると歓喜し、一人は砂で餅を作って釈尊に供養し、一人は合掌した。釈尊は、供養した子は未来に転輪王・阿育王となり、無量の衆生を幸福にするであろうと予言した――。それを裏付けるかの様に、阿育王の事跡は数多くの遺跡に記されている。

 

 西寿寺の山号は泉谷(いずみだに)山。本堂を建設するとき、造成地から太陽と月、星が彫られた三光石が現れ、その下から泉が湧き出したことに由来するという。その泉は今も枯れることなく湧き出しているそうである。人の心の乾いた現代に、潤いをもたらす様な寺院である。

 

阿育王を讃えた三重石塔

▲阿育王を讃えた三重石塔

 

 本堂は、それほど大きくなく、銀閣寺を連想させる造りだった。派手さはないが親しみやすく、相対すると心和むような建物である。この本堂は江戸時代に再興されたものだそうである。有名寺院の人ごみが嫌な人は、ここを訪れてみたらよい。忙しさに疲れた精神の癒しを得られることであろう。テレビドラマのロケにもよく利用されているそうであるから、見覚えのある景色に遭遇するかも知れない。

 

【メモ】

●西寿寺

浄土宗の尼寺。1627年、北出嘉兵衛が袋中上人を開山として、念仏道場として開いた。後に荒廃したが、1660年、愚故上人が再興。

 

●石塔寺

開基は聖徳太子と伝わる。阿育王塔(三重石塔)は日本最大、最古と言われる。

 

●阿育王

転輪王(天から輪宝を得て、正しい教えにより世界を統治する王)と呼ばれた。釈尊の実在については長年疑問視されていたが、1868年、ネパール南部バダリア(ルンビニー)で、「阿育王がここで祭りを行った。ここが釈迦牟尼の生誕地ゆえ」との石柱が発見され、釈尊の実在が証明された。

 

●マガタ国マウリア王朝

マガダ国は古代インド十六大国の一つ。マウリア朝は、チャンドラグプタによって紀元前317年頃建国。

 

【アクセス】

京都市バス、JRバス「福王子」下車。北へ徒歩20分。


【住所】

京都市右京区鳴滝泉谷町16

 

周辺MAP

 

古都巡り

◆古都巡り◆第56話「弥次さん喜多さんの気分になって ○三条大橋」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 日本は駅伝の盛んな国で全国各地に大会があり、ニューイヤー駅伝や箱根駅伝などは、正月の風物詩として根付いている。日本初の駅伝競技は、1917年、奠都50周年博覧会の行事の一つとして、4月27日から3日間にわたって行われた。スタートは京都・三条大橋、ゴールは東京・上野不忍池の博覧会会場であった。それを伝える碑が三条大橋の東の袂にある。

 

 三条大橋は、東海道五十三次の西の起点である。いつ頃出来たのかは不明だが、1590年に、豊臣秀吉の命によって大改修が行われた。度々の改修を経て、今の姿になったのは1950年のことだそうだ。周辺の川岸は「三条河原」と呼ばれ、処刑やさらし首の場になった。石田光成や近藤勇などが、ここでさらし首にされた。

 

三条大橋は東海道の西の起点

▲三条大橋は東海道の西の起点

 

 夏は、鴨川べりで夕涼みをするのも良い。鴨川沿いに並んでいる料亭の納涼床の明かりが綺麗で、幻想的な雰囲気が味わえる。しかし時間が経つにつれカップルが増えてくるので、目のやり場には困るだろう。ここは有名なデートスポットでもあるのだ。

 

 橋の西の袂から先斗町へ下って行くところに、弥次さん喜多さんの像がある。言うまでもなく、江戸時代の滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公の像である。私はいつも新幹線で京都へ行くので、弥次さん喜多さんのような珍道中を味わうことはない。しかし車窓からの景色を見るのは楽しい。高層ビルの林立する都会の風景、田畑の広がる情景・・・どんどん変化していく。それぞれの地方の特色が感じられて面白い。

 

弥次さん喜多さんが観光客に語りかける

▲弥次さん喜多さんが観光客に語りかける

 

 「のぞみ」なら、東京から京都まで2時間半。リニア新幹線が出来れば、もっと早くなるのだろうか。しかし現時点でのJR東日本の計画によれば、京都市は通らないらしい。トンネルが路線の大半を占めるリニアより新幹線の方がもちろん良い・・・これは私見。近くの三条小橋で清掃している婦人がいた。気持ちよく観光出来るのは、このような影の「おもてなし」があるから。こちらもそれに応えなければならない。

 

【メモ】

●奠都

首都を東京へ移す際、反対が多く、京都は引き続き都として残すという形を取った。

 

●納涼床

京都の夏の風物詩。料理屋が川の上や屋外で作った座敷で、料理を堪能する。京都の貴船、高尾などは特に有名。

 

●滑稽本

笑いを醸し出すような、江戸後期に流行った小説。十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」はその代表例。

 

●三条小橋

三条大橋の西側にある高瀬川に架かる橋。新撰組が長州、土佐の志士を襲った事件(池田屋事件)の舞台となった池田屋がそばにあった。

 

【アクセス】

京阪本線「三条」下車。


【住所】

中京区中島町・東山区大橋町

 

周辺MAP

 

古都巡り

◆古都巡り◆第55話「会津藩の悲劇の始まり ○金戒光明寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都の人々は、金戒光明寺を「黒谷さん」と呼ぶそうだ。宗祖・法然が比叡山黒谷で修行し、京のこの地に念仏道場を開いた際、新黒谷と称したからだという。世情が混乱を極めた幕末、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ「天誅」というテロ、殺人が日常化していた。遂に幕府は、京都に守護職を置き、治安維持に当たらせることになった。

 

 任ぜられたのは会津藩主・松平容保(かたもり)であった。会津は質実剛健で知られ、その藩主・容保は、律儀な真面目者で、そこを見込まれたのであった。しかし家臣の反対もあり、逡巡した容保であったが、「大君の義、一心大切に、忠勤を存ずべし」という初代藩主・保科正行が残した家訓に従い、断腸の思いで職を拝命した。

 

幕末の激流に呑み込まれた金戒光明寺

▲幕末の激流に呑み込まれた金戒光明寺

 

 1862年暮れ、一千人の会津藩士が上洛した。本陣となったのは金戒光明寺であった。一方、幕府により関東から集められた浪士は、会津藩配下に入り都の警護に当たるようになった。近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らの新撰組である。

 

 寺院からの眺望は、なかなかのものである。パノラマ写真を見ているようである。見晴らし良く、御所までも近いことから、絶好の拠点として選ばれた。近藤、土方ら浪士達が、容保に拝謁した部屋は公開されている。一介の郷士に過ぎなかった彼らは、武士に取り立てられ活躍の場を得たのである。胸中は歓喜に満ちていたに違いない。彼らは「新撰組」と命名され、会津藩と運命を共にすることとなった。

 

会津墓地を示す石柱は悲しげだった

▲会津墓地を示す石柱は悲しげだった

 

 ここには会津藩殉難者の墓地もある。鳥羽伏見の戦いなどで亡くなった、約350人の御霊が眠っている。遠く故郷を離れ、歴史の激流に呑み込まれた悲劇の人々のものである。武士の他、使役に徴用された人々、婦人の墓もあるという。これらの墓は、戦争の正体が無差別殺戮であることを教える。新時代の生みの苦しみとはいえ、何と大きな犠牲を払ったことだろう。京都から燃え上がった一連の戦いの炎は、北上して行き会津藩を殲滅し、さらに津軽海峡を渡り箱館に達した。

 

【メモ】

●法然

法然房源空。美作(岡山)出身。幼名・勢至丸(せいしまる)。13歳で比叡山に登る。浄土宗の開祖。

 

●「天誅」

神などが、人間に罰を下すこと。転じて対立する相手に対する殺害の大義名分として使われた。幕末、弾圧された尊皇攘夷派の佐幕派へのテロ行為を指す。

 

●松平容保

岐阜の高須藩に生まれたが、会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となった。会津落城後、謹慎処分となったが、明治になり、処分が解かれた後は日光東照宮の宮司に任命された。

 

●新撰組

会津藩にあった武芸に秀でた藩士の子弟で構成された組織の名だった。それを近藤らが拝命した。

 

【アクセス】

市バス「岡崎神社前」下車。北へ徒歩10分。


【住所】

左京区黒谷町121

 

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