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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り

◆古都巡り◆第64話「京の都を支えた隠れた主役 ○高瀬川」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 高瀬川は、江戸時代の初期、角倉了以、素庵父子によって開削された。海のない京都の物資輸送を円滑にするために、私財を投じて造られた運河である。この運河は京都と大坂を結ぶ大動脈となり、近世京都の発展を支えた。現在は水運の役目はないが、三条から四条辺りは、運河沿いに飲食店が立ち並ぶ京都を代表する歓楽街であり、桜の名所でもある。塩屋町、米屋町、石屋町――など、運搬された品物から付けられた町名が今も残る。

 

 角倉了以は、京の三長者として名をはせた。先祖は近江国(滋賀県)の犬上郡吉田村の出身とされる。室町幕府のお抱え医の家系で、その財で土倉業も営むようになったという。本姓は吉田であったが、経営していた土倉から角倉と名乗った。

 

高瀬舟が往来し都を支えた

▲高瀬舟が往来し都を支えた

 

 高瀬川は水深数十センチほどと浅かったので、底が平らな小舟が用いられた。船首、船尾の高いこの舟は高瀬舟と呼ばれ、それが運河の名の由来となった。二条付近の運河の起点は、一之舟入(いちのふないり)と呼ばれる船着き場で、大層賑わっていた。舟入は二条から四条の間に九カ所作られたが、現在はその面影は無く、記念の石碑があるだけだ。往時には、百隻以上が運航していたそうだ。

 

 運河の流れる木屋町通り界隈は、幕末動乱の舞台。坂本龍馬が海援隊の屯所(本部)を置いた材木屋も残っている。新撰組が名を上げた池田屋、土佐藩邸なども近い。近代日本の幕開け前夜に戻ったつもりで散策するのも良い。志士達の志や熱気に触れることが出来るかも知れない。

 

今は碑だけが名残を留める

▲今は碑だけが名残を留める

 

 プライドの高い京都は、反骨精神溢れる土地柄で東京に迎合しない。自主、独立を大切にする風土ゆえ、独創性豊かな天才が輩出する。ノーベル賞受賞者が多いのはそのためだろうか。この付近は近代科学技術発祥の地でもあった。舎密局(せいみきょく=工業試験場)、観業場(政策、技術振興センターで管下に鉄製品、織物、麦酒などのモデル工場を多数造った)など西欧技術を取り入れた殖産施設が置かれ、ここから先端科学が全国に波及した。その流れを汲んだ京都の会社は、今も日本の最先端を走っている。

 

【メモ】

●高瀬川

1611年開削、全長約11キロ。二条から鴨川の西岸に沿って流れる。途中、鴨川と交差して南へ下り宇治川と合流。鉄道など他の運搬手段が発達し、1920年に舟運は廃止。

 

●角倉了以

戦国から江戸時代初期に活躍した商人。朱印船貿易で活躍した。幕命で、富士川、天竜川の開削も行った。

 

●京の三長者

角倉了以の「角倉家」と茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」。

 

●池田屋

1864年6月、三条小橋の旅館池田屋で起こった、近藤勇、沖田総司ら新撰組による尊皇攘夷派襲撃事件。

 

【アクセス】

(一之舟入)地下鉄東西線「京都市役所前」下車。北へ徒歩5分。


【住所】

(一之舟入)中京区木屋町通二条下ル一之船入町   周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第63話「幕末を駆け抜けた「東北のジャンヌ・ダルク」 ○女紅場跡」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 後に、新島襄と結婚することになる山本八重は、兄・覚馬を頼り母と共に京都へ移った。戊辰戦争で敗れ、何もかも失った八重の、再起へのスタートであった。このとき八重は、26歳。京都では、京都市の顧問を務めていた兄の推薦で、女子の教育機関「女紅場(にょこうば)」に職を得た。

 

 女紅場の教授陣は、茶道は裏千家・13代千宗室(円能斎)、華道は池坊専正などと一流の文化人が務めていた。英語や数学なども教えており、当時としては先進的な女性の教育機関であった。その中で、八重は舎監として学校運営に関わり、機織りや習字を教えていたという。

 

新島八重が教えていた女紅場跡

▲新島八重が教えていた女紅場跡

 

 アメリカから帰国した新島襄は、山本覚馬の協力を得て同志社英学校を京都で開校。襄は、覚馬の妹・八重を知り結婚する。襄は、結婚について問われた時、このように答えている。「亭主が、東を向けと命令すれば、3年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」。八重は会津戦争で、ゲベール銃を手に、新政府軍と戦った戦士であった。自立心旺盛で、精神的な強さを兼ね備えた当時では稀な女性だったのだろう。

 

 鴨川に架かる丸太町橋の袂に女紅場の碑がある。当時の女学生は、勉強に疲れた時などは、鴨川のせせらぎを聞き心を癒していたのだろうか。八重は女性の自立についても当然考えていただろう。情熱を持って教育に打ち込んでいたに違いない。しかしキリスト教徒の新島襄と結婚したことで、わずか3年半で女紅場を追われてしまう。

 

すぐそばには鴨川が流れている

▲すぐそばには鴨川が流れている

 

 八重の女子教育への情熱は、同志社女学校となって花開いた。しかし46歳の若さで、新島襄は他界。会津戦争の敗北、最初の夫との別れと、苦しみに耐えた八重に、またもや大きな試練が襲った。しかしここから、八重の強靭さが発揮される。赤十字社の看護婦となり、50歳で日清、60歳で日露戦争に従軍するなど、博愛精神に殉じた。自らの生きざまで、女性の強さを示した「東北のジャンヌ・ダルク」・新島八重は、真に偉大な教育者であった。

 

【メモ】

●山本八重

会津藩士の家に生まれる。戊辰戦争では、戦闘に参加した。最初の夫・川崎尚之助は、藩のための米取引で詐欺に遭い、裁判中、東京で肺炎で死去。看護の功績で、皇族以外の女性として初の叙勲。夫から「ハンサム・ウーマン」と呼ばれた。

 

●兄・覚馬

山本覚馬は眼病で失明したが、京都府知事の槇村正直の顧問として府政を指導した。府議会議員となり、議長にも就任。新島襄の死後、同志社臨時総長も務めた。

 

●女紅場

明治初期の教育機関。京都の女紅場は、後に京都府立第一高女となった。現在は府立鴨沂(おおき)高校。ヘレン・ケラーもここで講演している。

 

●新島襄

上州・安中藩の江戸詰め武士の子として生まれる。21歳の時、蝦夷・箱館からアメリカへ密航。ピューリタンとなり、アーモスト大学で学んだ。

 

【アクセス】

京阪本線「神宮丸太町」下車すぐ(丸太町橋西詰)。


【住所】

上京区駒之町   周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第62話「軍国主義と戦った「戦士」の碑 ○知恩院」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都を代表する大寺院・知恩院の三門のそばに、「京都解放運動戦士の碑」が立っている。この碑は、軍部権力の弾圧により、虐殺・獄死した京都にゆかりのある「民主主義の先覚者」を顕彰するために建てられた。太平洋戦争で犠牲になった、310万人の日本人、2千万人のアジアの人々の上に我々の今の生活があることを、この碑は改めて思い出させてくれる。

 

 碑に気付く人は、ほぼ皆無であろう。碑はガイドブックには載っていないし、旅番組で紹介されることもない。観光客がその前を通っても、誰も気にも留めない。しかしそこに眠る先覚者の精神は、混迷深める現代社会にあって増々輝きを増している。

 

知恩院三門。悟りに通じる三つの解脱を表している

▲知恩院三門。悟りに通じる三つの解脱を表している

 

 治安維持法に反対し、被差別部落・小作農民解放運動に身を投じた政治家・山本宣治の賛同者が、知恩院と掛け合い、この碑を建立した。知恩院では、受け入れに賛否両論あったそうだが、「法然さんも当時の権力者に歯向かい流刑になっている」と承諾したそうである。碑の設計は、京都大学の西山夘三(にしまや・うぞう)博士、題字は立命館大学総長・末川博(すえかわ・ひろし)博士である。赤旗が柩を覆った形を表しているそうだ。

 

 今は、言論の自由があり、何を言っても投獄されることなどあり得ない。それが当たり前と我々は思っている。しかし――日本は今、大きな岐路に立っている。将来の国のあり方は、現在の我々の選択で決定される。そんな当然のことを、改めて考えさせられる昨今である。

 

軍国主義に立ち向かった無名の人々を顕彰する「戦士の碑」

▲軍国主義に立ち向かった無名の人々を顕彰する「戦士の碑」

 

 多くの国民の反対にも関わらず、特定秘密保護法は成立した。一般市民に影響はないと権力者は言う。しかし政治家は世代交代する。その時々の権力者の恣意的解釈で、法律はとんでもない怪物に化けるのだ。治安維持法も、当初は普通の庶民には無関係と説明がなされた。それが罪のない人々を次々と弾圧し、牢獄へ送り込み、拷問の果てに殺す希代の悪法となった。「歴史は繰り返す」と言うが、同じ轍を踏むことがあっては絶対にならない。傲慢な権力者に、民衆など自由に操れる愚か者と思わせてはならない。

 

【メモ】

●知恩院

浄土宗の総本山。法然の墓所を、1234年、源智が整備し、知恩院大谷寺と号した。名は、遺弟達が法然報恩のために行った知恩講に由来。

 

●京都解放運動戦士の碑

1958年建立。西山夘三博士は、日本を代表する建築家。大阪万博の総合計画を主導した。末川博博士は、六法全書を考案した日本民法学の泰斗。京都市名誉市民。

 

●山本宣治

戦前の政治家、生物学者。全国無産党期成同盟に参加。小作争議などを指導した。治安維持法に反対したが、右翼の構成員に刺殺された。

 

●歴史は繰り返す

古代ローマの歴史家・クルティウス・ルフスの言葉。人間の本質は変わらないので、過去にあったことを後の時代にも繰り返すということ。

 

【アクセス】

地下鉄東西線「東山」下車。南東へ徒歩10分。


【住所】

京都市東山区林下400   周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第61話「微笑みで人類を照らす菩薩 ○中宮寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 法隆寺に隣接する中宮寺は、聖徳太子の御母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみこ)の発願によって建てられた。創建時から現在までの、およそ1400年の間、尼寺の法灯を守り続けている日本唯一の寺院である。元々は、現在地から東へ500メートルほどの場所にあった。そこからは、発掘調査で金堂跡、塔跡などが発見されている。

 

 本尊は、国宝の如意輪観世音菩薩(菩薩半跏像)。エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダビンチのモナリザと並んで、「世界の三つの微笑像」と呼ばれている。特にこの本尊は、「アルカイックスマイル(古典的微笑)」と言われ、飛鳥彫刻の最高傑作とされている。右の足を左膝の上に乗せ、右手をくの字にし、その指先がかすかに頬に触れ、人類救済を思惟する姿は、仏の慈悲の姿そのままの様な印象である。

 

1400年にわたって尼寺の法灯を守る中宮寺

▲1400年にわたって尼寺の法灯を守る中宮寺

 

 平安時代になると荒廃したが、興福寺の信如比丘尼が復興、しかし度々火災に見舞われ、室町時代後期に法隆寺地内に避難した。その後は、旧地への再建はならなかった。後伏見天皇皇孫尊智大王(そんちのおおきみ)の入寺以降、門跡寺院となり、中宮寺御所、斑鳩御所と呼ばれるようになった。

 

み仏の 顎と肘とに 尼寺の

      朝の光の ともしきろかも

 

 境内に、奈良を愛した会津八一の歌碑が立つ。ある日の早朝、尼僧が、厨子の扉を開けると、思惟する菩薩の顎と肘に光が当たる。あたかも、静かに悟りを開いた菩薩を讃えるかのように。光を受けて、菩薩はかすかに微笑んでいる・・・。その姿に見とれているのだろうか。

 

「世界の三つの微笑像」を安置する本堂

▲「世界の三つの微笑像」を安置する本堂

 

 現在の本堂は、高松宮妃殿下の発願によって、1968年に落慶した。ウグイス色の屋根を朱色の柱が支えている。その姿は、伝統と近代が程よく調和している姿だそうだ。色合いの優しさが尼寺らしい。本堂は池の中に浮かび上がり、池の周囲には山吹が植えられている。その姿の、優美さつつましやかさに感動した。

 

【メモ】

●中宮寺

聖徳太子建立の七カ所の一つ。法華寺、円照寺と並ぶ大和の三門跡。

 

●穴穂部間人皇女

欽明天皇と蘇我小姉との皇女。用明天皇の皇后。巡行の際、馬官の厩戸で太子を出産したと伝わる。

 

●信如比丘尼

鎌倉時代の尼僧。太子の死後、御妃・橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、が、太子が往生している天寿国の有様を刺繍させた、天寿国曼荼羅繍帳(国宝)を法隆寺から取り戻すなど、再興に尽くした。

 

●会津八一

新潟市出身の歌人、美術史家。東京専門学校(現・早稲田大学)で坪内逍遥や小泉八雲に学ぶ。仏教美術史研究の大家。

 

【アクセス】

JR関西線(大和路線)「法隆寺」下車。北へ徒歩10分。


【住所】

生駒郡斑鳩町法隆寺北1−1−2   周辺マップ

 

古都巡り

◆古都巡り◆第60話「シルクロードの終着点で体験する「感動」 ○法隆寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 シルクロードの終着点、奈良・斑鳩の地。そこで1400年の長きに亘って、法灯を守り続ける法隆寺。釈迦三尊像、百済観音像など、歴史を伝える貴重な宝物が多数存在する。仏像の建立は、紀元1世紀頃、ガンダーラ(今のパキスタン)などで始まったとされる。法隆寺はもちろん、日本の仏像の源流はガンダーラにある。

 

 607年、聖徳太子が建立したとされる法隆寺は、670年に火事に見舞われ堂宇が全焼。最も早く再建されたのは金堂であり、現存する木造建造物ではこれが世界最古である。金堂と並んで屹立する五重塔も、秀麗な姿を我々に見せる。五重塔は地震に強く、その免震構造が注目され、建設技法は東京・スカイツリーにも生かされている。

 

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 

秀麗な姿を我々に見せる五重塔

▲秀麗な姿を我々に見せる五重塔

 

 正岡子規の俳句の中で、最もポピュラーなこの句は、回廊の東、鏡池そばに当時あった茶店で詠んだそうだ。晩秋の夕暮れ時の情景であろうか。茶店で一服し、奈良名物の柿を食べていると、鐘の音が響いてきた。それだけのことであるが、絵画の様な風景が浮かぶ。夕焼けに浮かぶ法隆寺と子規が端に小さく収まっている絵が・・・。

 

 多くの作家、芸術家が法隆寺に魅了され、作品に残している。堀辰雄、和辻哲郎、土門拳・・・数え上げれば切りがない。市井の人々も同じように感銘を受けてきただろう。写真に収めたり日記に書いたり、パンフレットを保存しているかも知れない。表現方法は違うが、それぞれに感動の記録があるに違いない。私のコラムも感動の記録である。

 

聖徳太子を供養するため建てられた夢殿

▲聖徳太子を供養するため建てられた夢殿

 

 旅行とは、日常から離れた異空間を体験することとも言える。普段と同じような感覚でいては、感動する場面に遭遇しても気づかない。退屈なだけの移動になってしまう場合がある。それではお金がもったいないし、時間の浪費になってしまう。感性は研ぎ澄ましておいた方がいい。それが旅好きになるコツである。鉢植えの花が咲いた、朝焼けが綺麗だ、雪で白くなった山が美しい――磨く材料はいくらでもあるのだから・・・。

 

【メモ】

●斑鳩

由来は斑鳩(イカル)という鳥の群生地だったから、または伊香留我伊香志男(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として祀られていたから、という説がある。

 

●法隆寺

用明天皇が自らの病の平癒を願って造ることを誓願したが、果たされず、その遺志を継いだ推古天皇、聖徳太子が造営したと伝わる。聖徳太子は、建築技法の発展に尽くしたと伝えられ、大工の神様とも言われる。

 

●釈迦三尊像

仏像3体で構成する形式は、ガンダーラ発祥。中央の仏が台座に衣を垂らす形は北魏の石窟の仏像に類似している。

 

●百済観音像

八頭身の細身の優美な姿が有名。伝承は不明な点が多い。

 

【アクセス】

JR関西線(大和路線)「法隆寺」下車。北へ徒歩10分。


【住所】

生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1   周辺マップ