古都巡り・連載&バックナンバー
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古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。
古都巡り・連載
◆古都巡り◆第69話「●京に根づく地蔵菩薩信仰 ○大善寺」
文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)
「地蔵盆」とは、京都を中心にした、関西独特の行事である。8月の旧盆の風物詩で、各町内では、お神輿、福引、ゲームなどが催され、京都の子供達が楽しみにしている行事だそうだ。地蔵菩薩が、地獄の鬼から子供を守るという信仰が元になっているそうで、江戸時代に定着したとされる。
行事の一つとして、8月22、23日には、大善寺―徳林庵―上善寺―浄禅寺―光林寺―源光庵を回る「六地蔵巡り」が行われる。仏教には、六道輪廻という教えがあり、人間は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という苦難を巡ることから逃れられないとする。そこから人々を救うとされる地蔵菩薩信仰が、平安末期から奈良時代にかけて庶民の間に広まった。
▲東福門院が安産を願って寄進した鐘楼
平安時代の初め、小野篁(おのの・たかむら)が六体の地蔵を造り大善寺に祀った。その後、平清盛が主要街道の入り口に六角堂を建て、地蔵が分置され、旅人が道中の安全を祈ったことから六地蔵巡りが始まったとされる。六カ寺から下付された札を玄関に吊るし、疫病退散、福徳招来の護符とするそうである。
地蔵盆の行事は、それぞれの町内会で工夫され、催しは花火や映画上映などもあるそうで多彩である。しかし元は地蔵菩薩の供養会なので、メーンは別にある。「数珠まわし」という行事がそれだ。長さ3~5メートルもある数珠を、輪になった子供達が念仏を唱えながら、繰り送るのである。煩悩の数とされる108回送るそうだ。お経や説法も聞かなくてはならない。
▲安置されている地蔵は、小野篁作とされる
子どもにとっては中々の苦行だが、京都の子供達は大切にされていると思う。幼児の虐待死、いじめなどが連日マスコミを賑わす殺伐たる世の中になってしまった。攻撃の刃が向けられる先は、子供ばかりではない。老人や障害者など社会的弱者に容赦なく突き刺さる。このままでは、日本はいったいどんな国になってしまうのだろう。命の大切さや弱い立場にいる人々を思いやる気持ちを改めて訴えなければならない世の中とは、やはり異常である。
【メモ】
●地蔵菩薩
サンスクリット語でクシティ・ガルバ。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」。大地が全ての命を育むように、苦悩の人々を包み込むとされる。日本では子供の守り神。
●大善寺
705年、定慧の開創と伝わる。一時廃絶したが、1561年、頓誉琳公(とんよりんこう)が再興した。後水尾天皇の中宮東福門院(徳川秀忠の娘)が安産を願い、寄進した鐘楼がある。
●六道輪廻
人間は、地獄(苦しみ)、餓鬼(飢渇)、畜生(欲望)、修羅(勝他)、人(平穏)、天(歓喜)という苦悩に満ちた世界を巡るという教え。
●小野篁
平安時代前期の公家。遣唐使に選ばれたが、渡航に失敗。遣唐使を皮肉る歌を詠み、流罪になった。熱病を患い地獄を見たとき、地蔵菩薩から自分と縁を持った人々は救えるので、そのことを人々に知らせて欲しいと頼まれ、地蔵を彫ったとの伝承。
【アクセス】
地下鉄東西線「六地蔵」下車。西へ徒歩15分。
【住所】
京都市伏見区桃山町西町24
古都巡り・連載
◆古都巡り◆第68話「●大砂物――復讐心なき復讐 ○六角堂」
文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)
1594年、前田利家邸への豊臣秀吉の御成の時。池坊専好が三之間に立てた松の大砂物(すなのもの)の立花は、四間床(7・2メートル)に生けられ、現在でも「前田邸大砂物」として語り継がれている。背後の掛け軸には、松の枝に戯れるように猿が20匹以上描かれていた。これにはさすがの秀吉も絶句するしかなかったであろう。
池坊家31世専好と千利休は、華道に茶道と道は違うが、道を極めた者同士、お互いを認め合う盟友関係にあった。しかし突然の別れが襲う。利休が秀吉に切腹を命じられてしまったのだ。秀吉が利休に切腹を命じた理由は分かっていない。ただ無二の友人を失った専好の悲嘆は、谷底に突き落とされたような深いものがあったに違いない。
▲上から見ると六角形が分かる
何故「大砂物」のような立花を、専好が秀吉の前で披露したのか分からない。ただ親友を殺し、傍若無人に振る舞う秀吉に対する憎悪は、人一倍であったに違いない。しかし憎悪すらも芸術に昇華してしまう、専好の執念の凄まじさを思う。戯れる猿を秀吉はどう見たのであろうか。
京都の真ん中にある六角堂は、生け花発祥の寺として知られる。この寺は聖徳太子が創建したと伝えられる。寺の北面に太子が沐浴をしたとされる池跡があり、ほとりに僧の住坊があった。そこから住坊は池坊と呼ばれ、代々の住職は池坊を名乗るようになったという。宝前への供花が評判を呼び、池坊は生け花の名人として有名になっていった。
▲縁結びで知られる枝垂桜
六角堂の名の由来は、本堂の屋根が六角形になっていることから。隣のビルのエレベーターから本堂の六角形を上から眺められる。六つ角は、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)から生じる欲望を表す。六角形には、六根を清浄にし、円満になるという意味があるそうだ。専好の大砂物を見た人々は、その大きさに度肝を抜かれたが、その真意を悟るものはいたであろうか。全てを己の意のままにしてしまおうという秀吉の悪魔のような心に突き付けた一撃が、この立花ではなかったのか。
【メモ】
●前田利家
尾張荒子村(名古屋市中川区)生まれ。14歳で織田信長の家来になった。槍の名手で槍の又左の異名。1581年、信長から能登一国を与えられ、加賀百万石の礎となった。豊臣秀吉の五大老の一人。
●池坊専好
初代専好。安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した。儒教理論を取り入れたその立花は、人々を魅了した。
●華道
源として2説ある。仏に捧げる「供花(くげ)」、つまり仏前を花で飾り浄土の再現とするもの。もう一つは、霊力、生命力の象徴として花を生けたというもの。平安時代になると、貴族の間で、花の優劣を競う「花合(はなあわせ)」が行われた。
●六角堂
天台宗頂法寺。境内にある「へそ石」は、旧本堂の礎石とされ、京都の中心を表すと親しまれている。本堂前の枝垂柳は、縁結びで知られる。嵯峨天皇が美女を求めていたところ、夢に六角堂の柳の下を見よとのお告げがあり、そこに女性がいたという故事にちなむ。
【アクセス】
地下鉄烏丸線「烏丸御池」下車。南へ徒歩5分。
【住所】
中京区六角通東洞院西入堂之前町248
古都巡り・連載
◆古都巡り◆第67話「「カミ」となった「女帝」の面影 ○本薬師寺跡」
文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)
藤原の都跡は、田畑や住宅地になっており、都の名残を留めるものはほとんど存在しない。わずかに遺構として残っているのが、本薬師寺跡である。本薬師寺は天武天皇が、皇后の病平癒を願って、680年に発願された寺院であった。皇后の病は癒えたが、天武天皇自身が病に倒れ、崩御してしまう。皇后は持統天皇となり、夫の遺志を継ぎ寺院の建設を継続した。
着工から16年を経て、698年、ほぼ完成をみたと伝えられる。710年に平城京へ遷都。薬師寺も移転したが、一部の伽藍は残り本薬師寺と呼ばれるようになった。金堂跡には小さな社があり、境内には直径1メートルはありそうな重そうな礎石が並んでいる。この辺りが寺院の中心部だったらしい。南に少し離れた場所に、東塔、西塔の土壇が見えた。両塔は、今の薬師寺に匹敵する三重塔だったと考えられている。それらを回廊が囲んでいた。
▲中心部とみられる所には社が・・・
現在、女性は天皇になれないが、日本史上、10代8人の女性天皇が誕生している。その中でも持統天皇は、傑出した「女帝」とされる。一巳の変の立役者、中大兄皇子(天智天皇)は娘4人を弟の大海人皇子(天武天皇)に与えた。その中で、最も夫を助けたのが持統天皇であった。
天照大神(あまてらすおおみかみ)のモデルは、持統天皇ではないかと言われる。伊勢神宮の内宮が造られたのは、持統天皇退位の翌年のこととされる(698年頃)。日本には古来、「天(あま)つカミ」(太陽や風、雷のカミ)への信仰があった。壬申の乱で、政敵を駆逐した天武天皇の後を継いだ持統天皇はカミとなり、古来の信仰と結びついたのではないかとされる。
▲むき出しの礎石が並んでいた
藤原京がわずか16年で捨てられた理由は、謎のままである。しかし遷都後も薬師寺は残り、平城京の薬師寺と並立していた。何故そんなことになったのだろう。藤原京建設は、国家の威信を懸けた天武天皇の悲願であった。それだけに遷都は、重大な事情があったに違いない。しかし夫・天武の威光は残したかった持統の、強い遺志だったのだろうか。
【メモ】
●本薬師寺跡
本薬師寺は、平城京遷都後も飛鳥四大寺として崇拝されていたが、平安時代になると衰退し、平安中期には廃寺になったと推定されている。
●天武天皇
天智天皇が崩御すると子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位を争い内乱となった(壬申の乱)。大海人皇子が勝ち天武天皇となった。
●持統天皇
天智天皇の第2皇女。諱は?野讚良(うののさらら、うののささら)。13歳で嫁いだ。姉が死去したため皇后となった。孫の軽王が文武天皇として即位すると、太上天皇(上皇)となった。藤原不比等、刑部(おさかべ)親王らに大宝律令を完成させた。
●女性天皇
皇位継承者が幼少だったり、権力争いが激しかったりした時の打開策だった。最初の女帝は33代推古天皇。皇極天皇と孝謙天皇は重祚(再即位)している。
【アクセス】
近鉄橿原線「畝傍御陵前」下車。東へ徒歩10分。
【住所】
橿原市城殿町
古都巡り・連載
◆古都巡り◆第66話「咲きて散りにき――潰えた古(いにしえ)の夢 ○藤原京跡」
文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)
冬の曇り空の下、藤原京跡を歩いた。広大な都跡には何もない。この日は寒たい風が身に沁みた・・・。しかし春には菜の花が咲き乱れ、秋になるとコスモスの花が都跡一帯を埋め尽くすそうだ。訪ねた時期が悪かったか・・・。
ここは、中国の都城を模した日本初の本格的な都であった。694年から710年に平城京に遷都するまで、持統・文武・元明天皇と3代にわたっての都である。10里(5・3キロ)四方の規模を誇る壮大な「都市」であった。
▲かつて首都を貫いた朱雀大路跡
藤原京建設は、中央集権国家確立を目指した夫・天武天皇の遺志を継ぎ、持統天皇が実現させた大事業であった。それまでは、天皇が代わるたびに都が替わっていた(遷宮)。それでは安定した国家統治は出来ない。権力を天皇に集中させ、その意思を全国に波及させるためには、官僚機構をまとめ支配を効率化させる明確な「首都」が必要だったのだ。
飛鳥時代とは、激動の時代であった。クーデターや内乱で国政は混乱した。朝鮮半島の新羅と百済の戦争では、百済と同盟関係にあった日本は軍を派遣したが大敗(白村江の戦い)、背後にある唐の侵略に日本は怯え警戒した。国政の立て直し、確立は急務であったのだ。
▲作者不詳の歌碑がひっそりとある
初めて「日本」の国号を用いたのもこの時代である。国としての統一感に目覚めた時代だとも言える。今は畑になっているが、中央を朱雀大路が貫き、中心に王宮(藤原宮)があった。「日本国」建設に、人々は大いなる夢を抱いていたに違いない・・・。しかしわずか16年で、夢は潰えた。
藤原の 古(ふ)りにし郷(さと)の 秋萩(あきはぎ)は
咲きて散 りにき 君待ちかねて
作者不詳
誰が詠んだのか、人の世の無常、はかなさを、幻の如く消えた藤原の都に見たのかも知れない。
【メモ】
●藤原京
中国の古典「周礼」に基づいて建設されたと思われる。日本初の条坊制(碁盤の目状に大路を配した左右対称の都市)の都だった。わずか16年で見捨てられた理由は解明されていない。
●クーデターや内乱
天皇を凌ぐ権勢を誇った蘇我氏の暗殺(乙巳の変)、大友皇子と大海人皇子の皇位継承争い(壬申の乱)など。朝廷内の対立、分裂が相次いだ。
●白村江の戦い
唐と組んだ新羅は百済を攻め、百済は日本に援軍を求めた。663年、現在の錦江下流(白村江)で敗北した日本は、朝鮮での足場を失った。
●日本
中国は蔑称で「倭」と呼んだ。日本側も「大倭(やまと)」と名乗っていた。「旧唐書」に、倭国はその名を嫌い日本に改めたとある。702年の遣唐使から「日本」という国名を対外的に使用した。
【アクセス】
近鉄橿原線「畝傍御陵前」下車。東へ徒歩30分
【住所】
橿原市上飛騨町
古都巡り・連載
◆古都巡り◆第65話「京野菜の源流をたどると ○月読神社」
文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)
顕宗(けんそう)天皇の治世の頃、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が任那に遣わされる際、壱岐で月読尊(つきよみのみこと)の託宣があった。帰国後、天皇に奏上、487年、月読神社を建て祭祀には壱岐氏を当てた。神領を桂川沿いに賜るが、水害を避けるため856年、松尾山南麓の当地に移ったとされる。格式の高い神社だったが、江戸時代には衰退し、松尾大社の摂社となった。
月読神社の京都建立には、渡来人・秦氏が大きく関わっていたと考えられている。秦氏が朝鮮から渡来する際、壱岐氏が協力したとされ、両氏は関係の深い豪族とされる。秦氏は京都盆地に根を下ろした。このように平安京遷都以前から、京都には多くの渡来人が入った。渡来人により技術、文化、制度など、日本の骨格となる様々な文明がもたらされた。ネギや芋、ゴボウなどの野菜もそうである。
▲「静寂」という形容が相応しい月読神社
九条ネギ、堀川ゴボウ、壬生菜、聖護院ダイコン・・・京野菜は40種以上。大陸伝来の野菜や各地から集まる野菜を、京都の地に適応するように改良したものが京野菜である。その独特の味わいを堪能することは、最高の喜び。京都では盛り付けも工夫され、見た目も美味しそうだ(実際に美味しい)。牛丼やハンバーガーで済ませ、旅費を節約することも否定はしないが、やはりその地ならではの食を満喫したい。
月読神社の境内にある月延石(つきのべのいし=安産石)は筑紫にあったとされ、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を産む際、この石で腹をなでると安産になったと伝わる。舒明天皇の時代に、月読尊の神託によって奉納されたと伝わる。本殿、拝殿は江戸時代の創建である。他に聖徳太子社、御船社、むすびの木などがあり、安産祈願の他学問、縁結び、水難除などに利益があるそうだ。
▲神社本殿。かつて正一位の神階を受けた
静寂という形容に相応しい神社である。しばし本殿の前でたたずんでいたが、それに合わせ、時も止まったようだった。悠久の時の流れの中で、同じような感覚を訪れる人に与え続けているのだろうか。古代から大陸との交流によって、日本は豊かな歴史を刻んできた。中国、韓国との軋轢が目立つ昨今の状況が悲しい。
【メモ】
●阿閉臣事代
朝鮮半島との外交を担当した。出身地については、伊賀国阿閉郡(三重県)、下関の阿閉嶋、対馬の阿惠(あへ)などの説。
●月読神社
月読尊は、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の子。夜の国の支配を命じられた。神社は、元は正一位の神階を受けるほど地位が高かった。
●壱岐氏
壱岐を支配した豪族と渡来人の一族が知られている。
●秦氏
百済の弓月君を祖とするとされる。秦の始皇帝の末裔との説もあるが、定かではない。治水技術や養蚕に優れていた。
【アクセス】
阪急嵐山線「松尾」下車。南西へ徒歩10分。
【住所】
西京区松室山添町15 周辺マップ