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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り

◆古都巡り◆第74話「「ならまち」にいた元の黙阿弥さん ○ならまち」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 物事が振り出しに戻ることを「元の黙阿弥」というが、語源はならまちにある――戦国時代、武将筒井順昭が病になった。跡取りの順慶はまだ幼少だったため、ならまちに住む自分とそっくりの黙阿弥という盲目法師を影武者に仕立て、自分の死後3年間は死を隠し、敵の侵略を防ぐように遺言を残した。役目を終えると黙阿弥は町へ戻った――ここから「元の黙阿弥」という言葉が出来たそうである。

 

 ならまちは、元々元興寺の境内であった。寺勢の衰えに伴い、荒廃した境内にしだいに町屋が建てられ、形成されていった。室町時代は市が開かれ、興福寺など大寺院の保護もあり、商業の盛んな町であった。戦国時代になると、混乱した世情の中で自治意識が高くなり、自立した町政運営がなされた。しかし豊臣秀吉の弟秀長が郡山城に入封すると、寺院の力を殺ぐため、商業統制に乗り出した。

 

三条通りは春日大社の参道でもある

▲三条通りは春日大社の参道でもある

 

 復活は江戸時代。筆、墨、蚊帳、晒、刀、酒、醤油といった地場産業が盛んになり、町は活況を呈した。しかし江戸中期以降は産業が衰退し、東大寺や春日大社の門前町として細々と命脈を保っていた。明治になると、牛肉店、カステラ屋など商店が立ち並び、町も活気を取り戻していった。

 

 奈良町の街路は、平城京の条坊制の名残がある。三条大路に当たる三条通りは、ならまちを東西に走るメインストリート。春日大社への参道でもある。両側を色んな商店が並び、観光客も多い。奈良団扇の専門店で、鳳凰が透かし彫りされた物を買った。団扇は、魔よけとして中国から伝わったという。奈良団扇は、奈良時代、春日大社の神官が内職として団扇を作っていたことから始まる。透かし彫りの団扇は安土桃山に考案された。

 

ならまちの一角にある老舗商店街

▲ならまちの一角にある老舗商店街

 

 町屋は、間口が狭く奥行が深いのが特徴。これは税金が、間口の広さに応じてかけられたことによるそうだ。ところで、「ならまち」か「奈良町」か。実は、いずれも行政地名にはない。奈良市のホームページでは混在している。どちらでもいいようである。

 

【メモ】

●ならまち

奈良市の中心市街部南部に位置する、奈良観光の中心地。平城京の区画のうち、東部に突き出た外京と呼ばれた場所に当たる。平城京の道筋を元に発展した。

 

●筒井順昭

越智氏、木沢氏など敵を次々に打ち破り、大和を手中に収めた。天然痘・脳腫瘍を患っていたという説がある。

 

●条坊制

中国、朝鮮、日本の王城都市に採用された都市プラン。南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた。儒教の古典「周礼(しゅらい)」にある都の作り方。

 

●奈良団扇

中国から魔よけとして伝来し、儀式的なものに使用されていた。奈良時代、実用的で丈夫なものが作られるようになった。今日の様な透かし彫りのものは、江戸時代から盛んになった。

 

『ならまち』

【アクセス】

近鉄奈良線「奈良」下車。


【住所】
(近鉄奈良駅)奈良市東向中町29

 

古都巡り

◆古都巡り◆第73話「現代に甦った幻の「南都の名園」 ○旧大乗院庭園」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 興福寺の門跡寺院であった大乗院は、1087年に現在の奈良県庁辺りに創建された。しかし1180年、平重衡(しげひら)による南都焼き討ちに遭い、現在地に移った。その後もたびたび火災に見舞われ、1451年の徳政一揆の火災の際には、伽藍がほとんど灰燼に帰してしまった。

 

 復興の大きな力になったのは、銀閣寺の庭園を造った作庭の名人善阿弥である。その子小四郎らが後を引き継ぎ、庭園、伽藍の整備に努めた。復興がなると、室町将軍足利義政や公家達がしばしば拝観に訪れては庭景を楽しみ、その美しさから「南都随一の名園」と謳われるようになった。

 

現代に甦った中世の「雅の世界」

▲現代に甦った中世の「雅の世界」

 

 善阿弥は、河原者と呼ばれる被差別民の出身であったが、足利義政の寵愛を受けた作庭師であった。相国寺蔭涼軒、花の御所泉殿、高倉御所泉水などが善阿弥作と伝えられる。能の大成者観阿弥、世阿弥、華道の文阿弥なども河原者の仲間とされ、彼らは、現在に繋がる日本文化の源流を形成した人々である。善阿弥が病床に伏すと、足利義政は使者に高貴な薬を届けさせ、見舞ったという。

 

 明治時代、廃仏毀釈の嵐に襲われ、庭石や樹木が持ち去られるなど、再び危機に陥った。所有者の男爵松園家が、大乗院を売却。建物は解体、散逸し、後地は、ホテルや学校になった。1958年、国名勝指定。1995年からかつての姿を再現するため、発掘調査、整備が開始された。大乗院庭園の美しさは、幕末に描かれた「大乗院四季真景図」に見られる。復元作業に当たっては、この絵画を参考にしたそうである。

 

緑の庭園に鮮やかな朱色が映える

▲緑の庭園に鮮やかな朱色が映える

 

小島の浮かぶ東大池、三つの池からなる西小池・・・現在の大乗院庭園は、長年の発掘調査を経て、丹精込めて復元された労苦の結晶である。水の流れた跡のない、蛇行した溝が確認された。深山幽谷を表現した、枯れ流れというものだそうだ。庭園は単に風景が美しいだけでなく、仏教的な世界観、哲学といったものが込められている。見る人に何かを感じとってもらいたい・・・それが作庭師達の意図なのかも知れない。

 

【メモ】

●平重衡

平清盛の五男。平氏に従わない東大寺、興福寺など奈良(南都)の大寺院を焼き討ちにした。源平の合戦で平氏が敗れると、木津川畔で斬首された。

 

●徳政一揆

高利や強制取り立てに苦しんだ農民らが、徳政令(債務放棄を認める法令)要求し、武力蜂起した。室町中期頃から見られるようになった。

 

●善阿弥

「山を築き、水を引く」技術においては比べものなしと賞賛された。100歳近くまで生きたとされる。

 

●河原者

屠畜、清掃といった「ケガレ」を「キヨメ」る仕事、作庭や芸能といった熟練を必要とする仕事に就き、畏怖畏敬の対象だった。しかし時代が下ると「ケガレ」が強調され、差別されるようになった。水を使う仕事が多いので、主に河原に住みそう呼ばれた。

 

『旧大乗院庭園』

【アクセス】

近鉄奈良線「奈良」下車。南東へ徒歩15分。


【住所】
奈良市高畑1083-1

 

古都巡り

◆古都巡り◆第72話「民衆が救いを求めた日本初の「極楽浄土」? ○元興寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 飛鳥の地に日本最初の仏教寺院が建てられたのは、593年のことである。法興寺というが、地名にちなみ飛鳥寺とも呼ばれた。710年、平城京遷都。それに伴い薬師寺、興福寺といった大寺院も移転した。法興寺も718年に移転し、元興寺と改めた。一方、飛鳥にも寺は残り、現在も飛鳥寺として健在である。どちらも、我が国初の仏教寺院と位置づけられている。

 

 東大寺の大仏開眼法要の際は、元興寺の隆尊が講師となって、宝前に華厳経を講じた。元興寺は南都七大寺の指導的な立場にあり、名僧を数多く輩出し、日本仏教の発展に貢献した。日本の最もポピュラーな習俗、お盆(盂蘭盆会)もこの寺院から始まった。奈良時代終わりに出た智光は、日本で最初に浄土教を研究した僧であった。

 

東大寺から移建した東門は、重要文化財

▲東大寺から移建した東門は、重要文化財

 

 平安時代後期になると朝廷の力が衰え、律令政治が機能しなくなる。呼応するように、政府に支えられていた大寺院は困窮した。その中、元興寺の命脈を支えたのが、智光の残した「智光曼荼羅」であった。これは、智光が感得したという極楽浄土の世界を描いた曼荼羅である。末法思想の広がりの中で、救いを求める人々の拠り所となった。念仏の唱和が、境内に響いていたに違いない。

 

 元興寺の威光は徐々に衰えていくが、浄土信仰の他、地蔵、真言、聖徳太子信仰などが混然となり、庶民信仰によって法灯は守られた。しかし衰退は止められず、さらに土一揆などもあり、境内は荒廃した。後には、庶民の町屋が建てられていった。「ならまち」の形成である。現在は奈良観光の中心地。奈良漬、民芸品など多様な店がひしめき、観光客を引き付ける。

 

世界遺産・元興寺の国宝「極楽坊本堂」

▲世界遺産・元興寺の国宝「極楽坊本堂」

 

奈良時代、元興寺は南大門、中門、金堂、講堂を配し、五重塔もあった大寺院で、古代日本仏教の牽引し、栄華を誇った。しかし中世以降は、浄土信仰を中心に庶民の信仰を集め、市井の人々によって支えられた。元興寺は、時代によって在り様を変えてきた。世界遺産・元興寺の歴史は、日本仏教の性格を考えるうえで非常に興味深い。

 

【メモ】

●法興寺

蘇我馬子が、その甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機会に飛鳥の地に建立。百済からもたらされた技術で、日本初の瓦が使われた。現在の「ならまち」は、元々元興寺の境内。

 

●南都七大寺

興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺。平城京を中心に、朝廷の保護を受けた大寺院。古代仏教文化の中心となった。

 

●お盆(盂蘭盆会)

サンスクリット語の「ウランバナ」の音写、または、古代イランの言葉「ウルヴァン」からとも。古代イランでは、祖霊を向かい入れ祀る宗教行事が行われていた。

 

●智光

浄土信仰の先駆的な著書「無量寿経論釈」を著す。智光の住んだ僧坊は、智光曼荼羅を本尊としたことから「極楽坊」と呼ばれる。極楽坊本堂は国宝。智光曼荼羅は、1451年の土一揆で焼失した。

 

『元興寺』

【アクセス】

近鉄奈良線「奈良」下車。南東へ徒歩20分。


【住所】
奈良市中院町11

 

古都巡り

◆古都巡り◆第71話「慈悲深かった実像の一休さん ○酬恩庵」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京田辺市にある酬恩庵は、一休宗純が住んだ寺として知られる。鎌倉時代に、大應国師が臨済宗の道場を建てたのが始まりである。その後戦火に遭い、廃寺同様であったが、一休禅師が再興し、師恩に報いるという意味で、酬恩庵と命名した。一休禅師は、88歳で寂滅するまでの25年間をここで過ごしたので、寺は通称一休寺と呼ばれている。

 

 総門(表門)を入ると、石段の参道が目に入る。なだらかな坂道が続く。桜、つつじ、さつき、萩、楓など四季を通じて楽しめるそうである。一休さんもお客や弟子などと、ゆっくり観賞していたのだろうか。何を話していたのだろうか。昔話や漫画のようなトンチや皮肉ではないとは思うが・・・。

 

掃除をする小坊主の一休

▲掃除をする小坊主の一休

 

 酬恩庵は、1月最終日曜日を「一休善哉の日」として、各々の1年の誓いの言葉を奉納してもらい、一椀の善哉を振る舞う。誓いの実現を後押しするのだという。――元日生まれの一休さんが、大徳寺の僧侶から餅入りの小豆汁をご馳走になり、「善哉此汁(よきかなこのしる)」と大層喜んだ。そこから善哉と呼ばれ、一休さんが名付け親とされる――その故事にちなんだ行事である。

 

 一休さんと文化人との交流も伝えられている。わび茶の祖村田珠光、能楽の大家音阿弥、金春禅竹その他連歌の宗長、俳諧の宗鑑、画の蛇足らと親交があったという。室町文化は禅宗の影響を受けているものが多いが、一休さんが重要な役割を担っていたのかも知れない。

 

緑に覆われた静寂な境内

▲緑に覆われた静寂な境内

 

  薪村 今に伝える 筵(むしろ)織り
      天日干し 納豆は和尚の 伝授味  
                      「一休かるた」から

 

 筵(敷物、包装、建築材に利用)も納豆(一休寺納豆)も一休さんが村人に伝授し、貧しい農民の生活を支えたと伝わる。後世の創作である「トンチの一休さん」像が巷間に広まってしまったが、実像もまた興味深い。後小松天皇の皇子とされるが、幼少期から宮中を離れた。そうした生い立ちが、農民へのいたわりになったのだろうか。

 

【メモ】

●酬恩庵

正応年間(1288~93年)に建立された。元の名は妙勝寺。元弘の乱(後醍醐天皇らにより、鎌倉幕府の倒幕目指して起こった戦乱)で荒廃していた。

 

●一休宗純

母は、日野中納言の娘・照子姫。幼名は千菊丸。母が南朝の出身であり、天皇の命を狙っていると讒言を受け、宮中を追われたとされる。トンチの一休像は、江戸時代の「一休咄」などによる。マラリアで死去。

 

●大應国師

南浦紹明(なんぽじょうみょう)。駿河国出身とされる。鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅。宋に渡って、虚堂智愚の法を継ぎ帰国。

 

●臨済宗

禅宗の一派。唐の臨済義玄を開祖とする。黄竜派と楊岐派が立ち隆盛した。日本には栄西が伝えた。

 

『酬恩庵』

【アクセス】

近鉄京都線「新田辺」下車。西へ徒歩30分。


【住所】

京田辺市薪里ノ内102

 

古都巡り

◆古都巡り◆第70話「落日の京都を救った無名の人々 ○インクライン」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都へ水を送る琵琶湖疏水が完成すると、それを利用した大規模な水運も始まった。それまで京都と大津の間の物資輸送手段は人馬しかなく、水運は人々の悲願であったからだ。大津から宇治川に至る約20キロのルートの途中、水路の落差が大きく、船が航行出来ない所には、傾斜鉄道が敷設された。それをインクラインという。

 

 インクラインとは、貨物用のケーブルカーのことである。山岳地帯やダム工事現場での、木材など資材の輸送に利用されていた。日本では、黒部トンネルと第四発電所を結ぶものが知られている。琵琶湖疏水のインクラインは、1891年から1941年まで使われていた。

 

京都を救ったインクラインの線路跡

▲京都を救ったインクラインの線路跡

 

 地下鉄東西線の蹴上駅を降り、琵琶湖疏水記念館を目指して歩いて行くと、鉄路が走っているのが見える。インクライン跡である。線路上には、台車と船も展示されている。この船は、疎水で使用されていた三十石船を復元したものだそうだ。大津と京都を結ぶ水運と灌漑用水の実現は、平安時代からの人々の願いだったそうだが、それが疎水の完成で実現した。

 

 インクラインの鉄路沿いに工事殉職者の碑がある。――「琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和十六年十一月」建立されたものである。碑文に次のようにもあった。――「日本人の学び得た技術を最大限実地に応用した画期的大規模なものでした」。多くの尊い犠牲を払った。難工事から生まれた疎水は、人々の魂の結晶とも言える。

 

多くの犠牲者がインクラインを支えた

▲多くの犠牲者がインクラインを支えた

 

 大学を出たばかりの技術者田辺朔郎と共に、多くの人々が疎水建設に従事した。莫大な予算を投入した大事業であった。「都」ではなくなり、衰退しゆく京都の起死回生を願った大仕事である。歴史とは得てして、最前線の現場で苦闘した人々に光が当たることはない。どんな大建築でも、例えば柱を作った大工、石を削った石工など、実際に作業に汗した人々の名は残らない。歴史を築いた殉職者の碑を見て、そうした人々の労苦も忘れてはならないと思った。

 

【メモ】

●琵琶湖疏水

内務省土木費総額100万円の時代に、建設費125万円が費やされた。1921年、国鉄「山科」駅が開業すると、京津間の旅客輸送は激減した。物資輸送も陸送化が進んだ。

 

●インクライン

日本初の水力発電所・蹴上発電所を建設し、その電力を利用した。世界最長のインクラインであった。

 

●平安時代からの人々の願い

平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきた。逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物輸送にとっての難所であった。

 

●工事殉職者の碑

1941年、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局の職員により建立された。題字は当時の京都市長加賀谷朝蔵。

 

『琵琶湖疏水記念館』

【アクセス】

地下鉄東西線「蹴上」下車。北西へ徒歩15分。


【住所】

左京区南禅寺草川町17