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古都巡り・連載(バックナンバー)

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古都巡り

古都巡りバックナンバー(アーカイブ)です。

古都巡り
【最新のお話】

◆古都巡り◆第76話「百万遍――疫病退散の祈り ○知恩寺」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 京都で百万遍というと、東大路通りと今出川通りが交わる交差点のことを指す。その由来になったのが、傍にある知恩寺である。後醍醐天皇の治世の1331年、京都は大地震に襲われ、疫病が流行し、都は死者で溢れた。天皇は諸寺に祈祷を命じたが、病は収まらない。知恩寺の空圓上人が命を受け、七日七夜、念仏を唱えること百万遍に及んだ。すると悪疫は退散。感激した天皇は、「百万遍」の勅号を下賜した。

 

 近くには京都大学のキャンパスが広がっているので、百万遍は京都大学を指すこともある。交差点付近は、大学のイベント・行事などを伝える「立看」も目につくが、随分「のどか」になった印象だ。学生運動があった頃は、過激な看板が溢れていた。「安保粉砕」「ベトナム戦争反対」など、若人のエネルギーが漲っていた。

 

百万遍交差点。交通量は多い

▲百万遍交差点。交通量は多い

 

 今の学生さんは、皆おとなしい。気骨のある学生は絶滅したようである。世の不正や矛盾に怒り、正義を求めて立ち上がるのが若さだと思うのだが・・・。不安定な雇用環境に低賃金――若者を取り巻く現状は厳しい。怒りを世の中にぶつけてもいいはずである。選挙での若者の低投票率が問題になっているが、自分達が行動しなければ、何も解決しないということを分かっていないのだろう。

 

 知恩寺は、元々上賀茂社の神宮寺であった。法然が念仏道場とし、「賀茂の禅坊」と呼ばれた。法然の死後、弟子の源智が知恩寺と名付けた。今出川烏丸付近にあったが、足利義満の相国寺建立で、堀川中立売付近に移転。さらに豊臣秀吉の寺地替えにより、御所の東側広小路に移った。火災に遭ったが、1662年、現在地に再興。境内には、絵師土佐光起の墓がある。

 

総門の向こうに御影堂が見える

▲総門の向こうに御影堂が見える

 

 何もなかったこの地に鎌倉時代初め、西園寺公経(きんつね)が別荘「吉田泉殿」を建て、納涼、観月を楽しんだ。当時は、比叡山の湧水が小川となって辺りを流れ、それを引き込んで池にしていたという。それを偲ぶ碑が、交差点南西にある。金閣寺も元は、公経が山荘を営んだ所だったそうだ。

 

【メモ】

●知恩寺

浄土宗四大本山。円仁の開創とされる。源智が、師法然の恩徳を偲び「恩を知る」寺として、御影堂を建て知恩寺とした。

 

●神宮寺

神社に付属して建てられた寺。平安時代以降、神仏習合の結果生じた。社僧が、神前読経など、神社の祭祀を仏式で行った。

 

●法然

43歳で、一向専修念仏の法を説いた。神社宮司の懇請により、賀茂神社の草庵に止宿し、布教の地とした。

 

●西園寺公経

源頼朝の妹婿・一条能保の娘を正室に迎えたことから、幕府派だった。承久の乱で、後鳥羽上皇ら朝廷側が敗れると、太政大臣となり、鎌倉幕府との関係を強めた。乱後は、没落する公家が多い中、栄華を誇った。明治の元勲西園寺公望は子孫。

 

『知恩寺』

【アクセス】

京阪鴨東線「出町柳」下車。東へ徒歩10分。


【住所】
京都市左京区田中門前町103

 

古都巡り

◆古都巡り◆第75話「神代の英雄は夫婦仲睦まじく ○岡崎神社」

文章・写真 国定 忠治(ペンネーム)

 

 左京区にある岡崎神社は、小授けウサギが信仰を集める。鳥居を潜り進んで行くと、右側に「手水舎」がある。そこには、御影石の黒いウサギ像が鎮座する。月を仰ぎ見、体に力を満たしたウサギであるという。このウサギに水をかけお腹をさすると、安産で健康な子が授かるといわれる。御祭神として速素盞鳴尊(スサノヲノミコト)、奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)、三女五男八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)を祀っている。少子化の進む現代では、貴重な存在である。もっと知られていい。

 

 速素盞鳴尊は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治で有名な神である。――高天原で乱暴の限りを尽くし、追放されると下界に降りた。出雲で出会った奇稲田姫命を、八岐大蛇の襲来から救った。八岐大蛇を切り刻むと、その尾から大刀が現れた。これが後の三種の神器の一つ草薙剣(クサナギノツルギ)である。二人は夫婦になり、仲睦まじく三女五男(三女五男八柱御子神)をもうけた――。

 

左を向くウサギは縁結びを招く

▲左を向くウサギは縁結びを招く

 

 神社は、都の東の卯(う)の方角にあり、一帯はウサギの生息地であった。多産なウサギは古くから神の使いと考えられた。それがスサノヲ神話と結びつき、小授け信仰が行われるようになったのだろうか。平清盛の娘で、高倉天皇の中宮であった建礼門院がここで安産祈願をし、安産の神として知られるようになった。

 

 平安京遷都の際、王城鎮護のため四方に建立された社の一つであり、東天王と称した。御祭神は869年、清和天皇の勅命により、播磨国(兵庫県)広峯から迎え祀った。悪疫の退散を祈願したという。代々の天皇の崇敬を集めた。特に後醍醐天皇からは正一位の御神階を賜わった。室町時代は、足利義政が修造するなど、幕府の庇護も厚かった。

 

右を向くウサギは金運を招く

▲右を向くウサギは金運を招く

 

 参拝者を迎えるのは、狛犬ならぬ狛ウサギ。向かって右のウサギは左手で縁結びを招き、左のウサギは右手で金運を招くそうだ。御利益を欲張って、両方を拝むのは良くないそうだ。どちらか一つにするのが良いという。「二兎を追う者は一兎も得ず」だからだという。何事も欲張りはいけない。

 

【メモ】

●速素盞鳴尊

伊弉諾(イザナギ)の鼻から生まれた。天照大神の弟。速素盞鳴尊の乱暴狼藉で、天照は、天岩戸に籠ってしまう。

 

●奇稲田姫命

アシナヅチ、テナヅチの末娘。姉7人は、八岐大蛇に食べられた。

 

●三種の神器

天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天照大神から授けられた八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)、草薙剣。歴代天皇が継承する三種の宝物。

 

●中宮であった建礼門院

平徳子(とくこ、のりこ)。安徳天皇の生母。元々中宮とは、皇后の住居のこと。時代により皇后の地位をいうこともあった。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は溺死。建礼門院は、京都・大原寂光院で平家を弔う日々を送った。

 

『岡崎神社』

【アクセス】

市バス「岡崎神社前」下車すぐ。


【住所】
左京区岡崎東天王町51